初めての祠体験
夜が明けきらぬ白凪の村に、まだかすかな霧が残っていた。
久志は人気のないアスファルトの坂道を歩いていた。カーキ色のロングコートの裾が、風に吹かれてささやかに揺れる。すれ違う人も車もない。
この村に来て色々あったが、ひょんなことから村の若者と決闘する事になってしまった。「さっさと立ち去ればよかった・・・まいったな とんだやっかいをひきうけてしまった」
―今日がその日だ。―
その時北の方角からかすかな声が、また聞こえた。
――%&!*‘+@・・・。
言葉ではない。ただ、耳に届かない音が頭蓋の奥で震えるように。
「ここへ来い」という事か。それは夢の中で、食事の途中で、あるいは他人と話している最中にさえ、突如として起こる衝動だった。
「……やれやれ。まただ」次の目的地。
久志は目を細めてつぶやく。左目は白髪の前髪に隠れて、相手によっては表情が読めない。あんたは何を考えてるのかわからないとよく言われた。実際何も考えてないんだけど。
白凪村の朝の空気を吸い込みながら十五年前の朝のことを、彼はふと思い出す。
あの日もこんな曇天だった。進化の兆しが全国で報告され始め、市民課の課長として彼は連日役所に泊まり込んでいた。
朝のニュースで、ある日久志の団地がミサイルの直撃を受けたと知った。
瞬間久志の時間は止まり、心臓が激しく脈打ち、現実的ではないニュース映像を直視しながら、現実に心が追いつかない。勝手に目からは大量の大粒の涙がこぼれた。
妻と娘がいた部屋は、跡形もなく瓦礫の山になった。原因は、アメリカの偵察衛星からの誤認情報によるミサイル攻撃と報道された。しかしこれは日本人の「進化」が無関係であるとは思えない、これは事故ではないと。日本人のほとんどが思った。
国民の知らないところで国同士の揉め事が起きてると。
その時は事故の扱いであった。その後アメリカから正式に謝罪があり、久志の感情を無視し国同士の示談交渉はさっさと進められた。1か月後日本政府の役人が久志の元を訪ね、アメリカから莫大な賠償金を引き出すことができましたと嬉しそうに報告に来たが、ぺらぺらとしゃべる役人の話は一切頭に入ってこなかった。そして数億円もの賠償金が久志の口座に振り込まれたが、何の感情も湧かなかった。
「……俺だけが、生き残った」それだけが久志の頭にこびりついて離れなかった。
なぜ死ぬのが自分ではなかったのか。
幼稚園に行く娘、手を振る娘、妻と何気なくテレビドラマを見ている風景、電気をつけっぱなしだったと責任のなすりあいをする夫婦の仲裁をする娘・・・なんてことない日常が鮮明に思い出される。
何度も、死を考えた。
だが、そのたび彼の身体は――いや、彼の進化した知能のせいなのか、久志の理性は冷たく死を否定した。
「今それをやれば、痛みがある」
「その方法では、脳が即座に死なない」
「誰かに発見されるリスクがある」
感情の隙間を縫って現れる、あまりに理性的な死なない為の理由。
そうしてなんとか生きていた。いや、「生かされた」と言うべきかもしれない。
ある深夜、偶然にも襲ってきた外国人の強盗を追い払った時、久志は悟った。そのまま殺される選択もあったはずだ。
本能が、「生きる」ために防衛行動をとったのだ。
それから数週間して警察から報告があり、現場検証の結果、事故現場からは妻と娘の遺体は発見できなかったという事だった。
妻と娘が完全に亡くなってしまったと、どうしても思えない部分もあるのは事実だった。ミサイルが落とされる少し前に二人そろって近所では見たこともない黒い車に乗り込むのを近所の人が見たという証言があった。もし生きていたら何故連絡が無いのか?今にでも探しに出かけたいが、行く当てもない。
いずれにしても今は二人には会えない。その事を紛らわす為に仕事に忙殺される事で現実から目を逸らすことができたのは事実だった。
ある日、耳鳴りにも似た声のような歌のような、無線の会話のようなものが聞こえてきた。市役所での仕事中、進化を自己申告してきた住民の資料をシュレッダーにかけに行った時だった。今まで経験したことのないものだった。「なんだ・・・?」最初はストレスの影響かなとも思ったが、どうやら外で鳴っているらしい。久志の足は自然と音のするほうに向かった。そして部屋を出てビルの端っこまで到達したがどうやら音の発生源はこのビル内ではないらしかった。窓の外を見ると雲一つない青空で、このビル内ではなく音はずっと向こうから鳴っているらしい。 その時「田嶋さーん」と呼ぶ声がした。見ると後輩が困り顔でこちらを見ていた。窓口には長蛇の列ができていた。「ごめーん」あわてて仕事に戻った。
次の日の早朝、空が紫色に染まる頃、彼はある神社の鳥居の前に立ち止まった。どうやらこの奥で鳴っているらしい。耳を色んな方向に向け、たどり着いたのがここだった。
昨日の耳鳴りの原因を確かめるべく久志は早起きをして音のするほうに自転車を走らせたのだ。あれからも耳鳴りは続いていた。しかし不思議と不快な物でもなかった。
苔むした岩や腐った木材の匂い、風の音、遠くで鳴くカラスの声。枯葉の上を忍び足で動く小動物。すべての生が鮮明に感じられる。五感の強化。筋力の増強。記憶力の異常なまでの定着。場所が自然に近いほど進化したのだという事が確認できた。
「こんな場所に神社なんてあったんだ。」 久志は生まれも育ちもずっとこの街だった。
妻の裕子は小、中、高と同じ学校の同級生だった。裕子の父親がフランス人で母親が日本人のいわゆるハーフだ。フランス人の父親は大きな貿易商社を営んでいて各国を渡り歩いていたので実際に久志が父親に会ったのは結婚式を入れて3回である。母親はちゃきちゃきの江戸っ子娘という感じで、久志の様にぼんやりしていると背中をバーンと叩いて気合を入れてくるような女性だった。
そんな裕子とも小さいころから何度も通った道だが、気にしてなければ気が付かないだろう。心の中で「こんなところに神社があったよ」と裕子に報告する。裕子「えーー!? むしろ知らなかったの?」という返しが想像できた。無精ひげの口元が少し緩んだ。そして自然と涙がこぼれた。「会いたいなー」
久志は鳥居の前で一礼し、奥へと歩を進めた。今は管理する人がいないのであろう古びた神社の社務所の裏手に周ると、1.5mくらいの木の櫓で組まれた中に古い祠が立っていた。どうやらそこが音の発生源らしい。相変わらず言葉は理解できないが、もはや爆音に近い音だ。そして祠の前まで来るとその祠は小さな扉が付いていた。久志は自然とその扉を開けた。すると音がぴたっと止んだ。扉の向こうは何もなく奥の景色が見えるだけだった。そして自然の木々や生命の音が聞こえだした。「何だったんだ・・・」そう思った時、背後に何かを感じた。振り返るやいなや何か細長いものがこちらの顔面めがけて飛んできているのが分かった。「避けられない・・・」一瞬そう思って諦めかけた時、その物体の速度が急にスローモーションになり、その物体をはっきり認識できるようになった。それは弓矢だった。高速で放たれた弓矢が久志の1mほど手前で急に速度を緩めた。弓は石の矢じりが付いていた。その矢じりに何か文字が彫ってあるのも確認できた。しかしそれを解読するほど余裕はない。でもこれなら十分回避できる。素早くかわすと、矢は元の速度に戻り祠にストーンと突き刺さった。
「今のはなんだ・・・?」弓矢が止まって見えた。だが今はその事を考える時ではない。誰がこんな事をしたかだ。 久志はムッとして弓矢が飛んできた方向を見た。しかしその方向には何も無かった。ただ空があるだけだった。そして久志は石の矢じりのついた矢を、持っていたタオルで包み、かばんに入れた。
その後わかった事がある、音がする祠に接近すれば音は止む。そしてその音は自分にしか聞こえてこないという事。いつかは祠ではなく町の公衆電話だった事もあるし、ある時は薬局の前の製薬会社の象のキャラクターの置物だった事もある。そしてその度にに矢が飛んできたり、正体不明の生き物に襲われるというのがだいたいいつものパターンだ。そして気のせいかもしれないが、その経験をする度に五感や反射神経が向上してる気がするのだ。
あれから何度目かな。
泰也との勝負は漁村の船着き場で行われる事になっていた。そこに向かうとすでに多くの見物客が押し寄せていた。一升瓶を片手にすでに出来上がっているじいさんもいる。少し離れた場所に宿の女将 宇賀神 美幸も立っていた。眉を寄せ不安が顔に現れている。
「ちゃんと逃げずにきてくれたんやな」 意地悪そうな顔で泰也はそう言った。
「あはは そう思ったんだけどね どうせ逃がしてくれんよね」
「じゃあ これで勝負や」 といって泰也は1mほどの木の棒を2本差し出した。「どっちがええ?」 久志は泰也が右手で持っているほうを選んで受け取った。
その時一人の中年男性が近づいてきた。「旅の人、泰也と戦うのは止めとけ、こいつはバケモンや、恐らく進化の仕方が異常やったんや 怪我せんうちに帰り」
それを聞いた泰也が言う「成田のおっちゃん、この人強いで、こうしてな向き合った瞬間鳥肌が立つんや こんなんあのカエル野郎以来やで」
それ以降成田のおっちゃんは黙った。