ホタルイカの沖漬け
地名は架空です。
早春の空気はまだ冷たく、海辺の小さな漁村に、北からの風が吹きつけていた。黒瓦の屋根に潮の香りが染み込み、波の音が静かに寄せては返す。
久志がやってきたのは、北陸のとある漁村——名を「白凪」という。山々に囲まれ、海と空のあいだにぽつりと浮かぶような集落だった。
青凪湾に面したこの地からは、晴れた日には雪をいただく白嶺山脈が遠くに見える。ちょうど今も、その姿はくっきりと海の向こうにそびえていた。
「……見事だな」
久志は、防波堤に腰を下ろしてつぶやいた。
漁村には観光施設もなければ、大きな港もない。あるのは古びた木造家屋と、細い路地と、陽に焼けた漁具だけだった。
宿は、村のはずれにある古い民宿だった。女将は口数の少ない女性で、名前を宇賀神美雪と言った。見た感じは50代、あまり柄のはいってない着物を着、髪は後ろで束ねた小柄な女性だ。「戦争があってから、もうあまり客も来ないから。人も少のうなりました。」と、一人にしては少し広い部屋を案内してくれた。
「明日は浜に出てみようかと思ってるんです」
部屋まで食事の膳を運んでくれた女将に言った。
耳鳴りのする場所の見当はほとんどついていた。
この地の名物、ホタルイカの沖漬け、白エビの造りなどに舌鼓をうちながら。
そう久志が言うと、女将はふと目を細めた。
「海見るなら、朝のほうがええちゃ。風がまだ静かやさかいに」
熱燗の日本酒と新鮮な食事。「うまい・・・」 久志は独り言をつぶやいた。
久志は早朝、宿を出て浜辺を歩いた。潮の香りが強く、打ち寄せる波は静かだが、どこか悲しげに思えた。
浜の端まで歩くと崖になっていた。音の鳴るほうへ大小の岩を登ったり飛び越えたりしながらたどり着いた場所に小さな祠が建っていた。岩をくり抜いたような場所にひっそりと佇むその祠には、誰かが供えたワンカップ酒やビール、お菓子などが潮風に吹かれていた。
近づくとやはり耳鳴りはぴたりと止んだ。
「ここだな」
久志はしずかに手を合わせた。
祠の傍には、苔むした石碑があった。そこには、こう記されていた。
――この地に伝わる『海の鏡』の伝承。
太古の昔、この湾には「海の底に天を映す鏡」があったという。月夜の潮が引いたある晩にその姿を現すとされており、特別な力を持った者しか鏡を覗くことはできなかった。鏡に映るのは美しい女で、これから起こることを伝えてくれたのだそうだ。 しかしある時、それを聞きつけた山の向こうの国から兵が来て、その鏡を奪おうとした。
村人たちは鏡を護るために自ら沖の深い海に沈め、以来、その鏡は姿を消した。 今も春先の海風には、鏡に映った美しい女の声が混じるという。
久志は使い込まれた皮の表紙の分厚い手帳を取り出し、石碑と手帳を見比べるように何度も首をうごかした。そしてロングコートのポケットから地図を取り出し✖マークを書き込んだ。
なぜ自分だけにその声が聞こえるのか、そこに到達すると声が止み、しばらくしてまた別の場所から声がする。地図上に発生源をマークしていけば何かわかるかもしれないと思ったからだ。しかしその方角はバラバラだ、九州地方に行ったと思ったら北海道で聞こえた事もある。今のところ規則性は感じない。
進化していくらか賢くなったとはいえ、やはりその手の専門家でないかぎり行き当たりばったりでいくしかない。 まあ、別に義務ではないし・・・ 手帳には石碑の場所、近くの町や村、どの方角に向いているか、下手くそだがスケッチをし、考え付く限り状況を書き込んだ。
手帳をリュックにしまい、ロングコートのポケットから煙草を取り出し火をつけ海の方を見つめた。太陽が昇り始め、雪の残る山脈が朝焼けに染まりはじめていた。
その光景を見ている者がいた。
呼吸は荒くなり鼓動が激しくなる、見つめている対象人物の周りがぼやっと赤く光る。次第に焦点はその人物の波打つ心臓に絞られていく。レントゲンの映像のようにいつしか鼓動する心臓にしか焦点は合わなくなっていた。 むさぼり食いたいという衝動にかられ、目は血走り、口からはよだれが溢れた。気が付くと飛び出していた。久志の心臓に目掛け一気に。
黒い影が動いた気がした。
岩肌に打ち付ける波の音と風の音に紛れ、岩肌を何かが急速に這って向かってきている気配がした。
風が生ぬるく、かすかに生臭いとても嫌なにおいだ。その時、岩陰からとてつもない速度で何かが姿を現した。
久志は寸前でそれを躱す。黒い影は久志の前を通り過ぎ、5mほど前の大きな岩にしがみついた。
「クシャャャ!!」
それは人の形をしていたが、体は黒く体の側面には黄色いラインが入っている。毒々しい。異様に細く長い四肢、関節は逆に曲がり、カエルのような顔だけが白く、どこを見ているのか分からない目が感情をわからなくさせている。全身がヌメヌメと朝日に照らされていた。
ホムンクルス。
この十年、度々目にしてきた人工生命体。日本との戦争に使われた彼らは「進化を得た者」を追うように動いていた。使い捨てにされた彼らは戦争が小康状態となった現在も日本の至る所で存在しており各地で様々な問題を起こしている。
「こいつは話の通じるタイプじゃないな・・・」
彼らの多くは話の通じない獣と化している、もしくは知能がかなり低下している。制御する装置が無ければただの野獣であった。
―錫杖は宿に置いてきてしまった―
久志はロングコートの内ポケットから、小型のナイフを引き抜いた。
切っ先が朝日を受けて鋭く光る。
カエル人間は掴まった岩に垂直にしゃがんだ状態になり、さらに体を縮めたかと思うとバネの様に岩を蹴りミサイルの様に久志に向って飛んできた。
バチ―――ンッッ
二人が交差してカエル人間が悲鳴を上げる 「ぎやあああ」
カエル人間の長い舌が久志のナイフの一閃により切断されていた。
しかし久志も無傷ではなかった。首筋にカエル男の舌がかすめており少し出血し始めていた。
カエル男は着地した場所でこちらをうかがいながら血液が混じるよだれを垂らしながらニヤニヤと笑っているように見えた。
その時、久志の膝がグラッと折れた。辛うじて倒れはしなかったが久志の意識が一瞬真っ白になった。「ッ!毒か・・・不覚だな・・」
まともに食らっていたら即死していたかもしれない。かすめただけでこの即効性。進化前ならこれでも即死だったかもしれない。カエル人間はその場所から跳躍しそのまま此方に向かってきている。しかし勝負はもうついていた。その瞬間カエル人間の頭が爆発した。「ボンッ!!」先ほどすれ違いざまに超小型次元爆弾をカエル人間の口に放り込んでやったのだ。そして首から下の胴体がそのままの勢いで岩に叩きつけられた。
それを確認するや久志も急速に視界がぼやけていき完全に意識を失ってその場でうつぶせにどさりと倒れた。
久志が倒れてばらくして、祠の方へ向かっていた若者たちが異変に気付いた。
「なんや……あれ、倒れとるがいね!」
そのうちの一人が海辺にうつ伏せになった久志の肩を揺さぶると、額には冷や汗が浮かび、呼吸も浅い。
人の話し声が聞こえる・・・ 「しっか・・しろ」 「聞・・えるか?」 「死・・・のか」 「生きて・・ぞ!」 そして久志は完全に意識を失った。
次に久志が目を覚ましたとき、天井の木目が揺れていた。
ぼんやりと焦点が合う。畳の匂い、障子越しに差し込む光。聞き慣れた波の音。どうやらまた、民宿の部屋だった。
どうやら命は助かったらしい。しかしまた強烈な眠気に襲われてそのまま意識が遠のいた。
翌朝、久志はようやく体を起こせる程度には回復していた。朝食を食べ終えたころ、女将が湯呑みに緑茶を注ぎながら、ぽつりとつぶやいた。
「……あんた、ほんま、命拾いしたちゃ」
「そうみたいですね。助けてくれた人には、ちゃんとお礼を言いたい」
女将は久志の前に湯呑みを置くと、障子の向こうを見やった。静かな海が陽に照らされている。
「ここ最近、祠のあたりで変なもんがうろついとるがいちゃ。村のもん、皆気味悪がって、漁にも出れん日が続いとったがや」
「カエルのような姿・・・」
女将は小さくうなずいた。
「ようわからんけど、黒くて、ぬめぬめしたもんや。夜になると浜辺に出てきて、岩に這いずりまわっとるっちゅうて、子どもらも怖がっとる。あんたが倒れとった日も、祠の方で“バンッ”て、大きな音がしてな……村の若いもんが、慌てて山からおりてきたがいちゃ」
久志は黙って茶をすすった。熱い緑茶の香りが、鼻腔を抜けた。
「…大きな音を立ててすいません。僕はおそらくそいつの頭を吹っ飛ばしました・・・」
女将はじっと久志を見つめる。
「ほんなら、あんた……何者ながけ?」
しばらくの沈黙。
「……ただのおっさんですよ」
やれやれといった顔で女将はそれ以上は聞かず、ふうっと息をついて席を立った。
「ま、どっちでもいいちゃ。あんたが命張ってくれたおかげで、明日からまた網を出せるわいね。漁師らも、あんたに頭下げたいて言うとったちゃ」
「それは……よかった」
「けど一つ、言わせてもらうちゃ」
久志は顔を上げた。女将は少しだけ目を細める。
「あんたがどんな人でも、ここは人の暮らしがあるとこやちゃ。何かに巻き込まれるんやったら、村を巻き込まんといてねか」
久志はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「わかっています。……ありがとう。助けてくれて」
その日、村の港にある共同作業場で、小さな集会が開かれていた。地元の老人たちが集まり、漁網の補修をしていたのだ。
久志は助けてくれた礼を言うつもりで村に降りてきたのだった。
「おっちゃん、目ぇ覚めたんか?」
作業場の入り口の土間に少年が立っていた。背は180センチほど、筋肉質な日に焼けた肌とはっきりとした目鼻立ち。髪の毛は日に焼けて少し茶色ががった短髪のいかにも生きの良い若い漁村の漁師といった印象だ。
久志がにうなずいた。
「俺や。祠のとこで倒れとったあんたを、俺が見つけて運んできた」少年は名前を泰也と言った。
「ああ、昨日は助けて頂きありがとうございました。おかげで命拾いしました」
久志が腰をかがめるようにして頭を下げると、泰也は少しばつが悪そうに首をかいた。
「いや……礼なんて、ええよ。それと敬語はやめって。あんな場所に一人でおったあんたの方が、ようやっとるわ」
「いやいや、とんでもない。気が付いたら……岩場でで倒れてしまって。情けない話だよ」
「けど、あの化けもんを……」
泰也が言いかけて、言葉を飲み込んだ。
久志は少し戸惑ったように、泰也の表情を伺う。
「……ん?」
「いや……その、あの祠の岩場にいた“カエルの怪物”が首なしになって近くに倒れとった。 あれを倒したんはおっちゃんか?俺ら村の男連中で何度か討伐に行ってな、全滅寸前で逃げ帰ったこともあったんや。俺も腕をやられて、三日熱が引かんかった。あれを一人で倒したんやとしたら……並の人間やない」
「あの時は、なんていうか……うまくいっただけで。自分でもよく覚えてないんだよね」
「……ほんまに、自覚ないんやな」
泰也はぼそりと呟いて、久志をまじまじと見た。
「ん?」
「なんでもない。とにかく、今はしっかり休んでくれ。まだ目ぇ覚ましたばっかやろ。体、ちゃんと動くか?」
「ああ、おかげさんでだいぶ良くなった。こうして話せるくらいには……」
泰也はうなずき、にっと笑った。
「なら・・・、近いうちに、ちょっと手合わせしてくれへんか? あんたがどんな人間なのか、俺の目で確かめたい」
「おい 泰也!失礼じぇねえか!?」 村の年寄連中から声が出た。
久志は泰也を見て一瞬きょとんとしたが、すぐに笑みを浮かべて首をかしげた。
「……俺なんかでいいなら」