うどん屋で
久志が降り立ったのは、かつて城端駅と言った。この線の終着駅だ。
正式な名前はもう使われていない。駅舎の看板も剥げ落ち、今はこの辺りでは「南市場」とだけ呼ばれている。
北と南、西と東、人と人、そして人とそれ以外のものが交差する場所。
今回の耳鳴りは、北――かつて”なにわ”と呼ばれた地である可能性が高い。。
しかし、そこに至るまでの道中にも、いくつかの小さな“さざ波”のような信号が混ざっている。
この地もそうだ。波長はとても小さいが・・・
駅の構内は半分朽ちていて、天井に蔦が伸び、構内放送のスピーカーはとっくに沈黙していた。
当然だが誰も迎えは来ていない。けれど、誰かに見られている気配はあった。
「ご苦労なこった・・・」久志はつぶやいた。
「とりあえず、この先は電車が無いからな・・・確かバスがあったって地村さん言ってたな・・・」
久志は駅の周辺をぐるっと回ってバス停を探したが、それらしいものは見当たらなかった。
久志は駅舎を出て、町へ向かった。
舗装の剥がれた坂道を降りると、緩やかな斜面に寄り添うように、家々が肩を並べていた。
半壊した建物の間から、小さな市場のような賑わいが漏れ聞こえる。
この町にもまた、人々が暮らしていた。
壊れた世界の中で、それでも前に進もうとする声と息づかいがあった。
久志は、ゆっくりと歩きながら、耳鳴りに耳を傾けた。
そこに微かに混ざっていたのは、どこか懐かしい気配だった。
紫陽花の君の思念なのか、それとも――別の何かか。
日も高く昇り、町の市場通りに賑わいが戻っていた。
瓦屋根の古い商店が並ぶ通りの一角、暖簾が風に揺れる小さなうどん屋に、久志は足を運んでいた。
一杯の熱いうどんをすすりながら、店内のざわめきに耳を傾ける。
出汁の香りと、店主の威勢のいい声が入り混じる中、ふと、向かいの席に男が腰を下ろした。
「相席、いいですかい」
その声に、久志はちらりと顔を上げた。
口元に笑みをたたえたその男は、革の帽子に長めのコート。肩には擦れた旅鞄、腰には工具やデバイスがぎっしり詰まったツールベルト。典型的な行商人の装いだった。
男の名は木戸と名乗った。
年齢は三十代後半に見えるが、目だけが年齢以上に老練だった。
何かを見透かすような、妙に落ち着いた光を宿している。
木戸「珍しいな、あんたみたいなのがこんな町にいるとは。……“あの人”も、意外と人間臭い真似をするもんだ」
久志「……失礼だが、何の話だ?」
木戸「いやいや、確かに。俺でもそう言うよ。初対面だしな。うん ただ、うどん食ってる姿でピンと来る奴もそういない。あんた、そういう種類の人間だろ」
久志「俺は今、うどんを食ってる、あんたと話してる間に冷めちまう」
木戸「それは失敬、おーーい大将 素うどん1杯おねがーい」
「あいよー! 素うどん一丁~」と大将が返す。
どこまで本気なのか、計りかねる。
だが、その言葉の端々に“俺を知っている”という確信が滲んでいた。
うどんをすする音が途切れる。
「さて……一つ、商売のお話でも」
木戸は旅鞄を開けると、何枚かの古びたICチップを並べた。
どれも型はバラバラで、ひとつはすでに消失した企業のもの、もう一つは軍事用とおぼしき特殊規格の代物だった。
そして――
「これはね、ただの情報じゃない。“記憶”だ」
木戸が示したそのチップは、外見こそありふれたものだが、どこか生き物の様なものを感じさせた。
久志が目を細めると、木戸は声を潜めて言った。
「紫陽花の君――その残像が、この中に入ってる」
「!?」
……空気が一変した。
箸を持つ手が止まり、店内の音が遠ざかる。
「どうして”その事”を知ってる」
「そいつを聞かれると思ってました。正直に言えば、俺自身も“拾った”だけなんで。物の来歴はわからない。けど、試しにアクセスしてみたら……」
木戸の表情に、わずかな恐れが混じった。
「……“誰か”が、そこにいた。女の声で、泣いてた。『助けて』とは言わなかった。けど、見失いたくないと思ったんです。これは金のためじゃない。渡すべき相手がいるとすれば、それは――」
「俺か?」
「ま、そう思って持ってきたわけですよ アンタ見て、ぴーーんと来たわけだ。」
久志は、視線をICチップに落とした。
冷たい銀色の表面に、自分の顔がぼんやりと映っている。
それが本物か、罠か――まだ判別できない。
だが、久志の中の“耳鳴り”が、一瞬強くなった。
確かに“何か”が呼んでいる。
あの草原の巨樹の前にいた紫陽花の君が、再び、意識の中に浮かぶ。
「いくらだ?」
「代金は……まあ、情報ってやつは見返りが金とは限らない。ひとつ、俺の話を聞いてくれればそれでいい」
「話?」
木戸は少し微笑んだ。
「この町にも、“進化因子持ち”がいるみたいですよ。……あんたと同じように、“音”を聞くやつがね」
店の外で、風が暖簾を揺らした。
うどんの湯気が、ほんの一瞬、木戸の顔を歪ませた。
笑みを浮かべたままの目元に、苦悩がわずかに覗く。
「……あんたさ、音が聞こえるんだろう?」
久志は箸を止めた。―—やけに詳しい――
木戸はうどんの器をどかし、懐から一枚の小さな写真をそっと差し出した。
色褪せたプリント。そこには、少女が写っていた。髪の毛は緑がかった黒。瞳は閉じられている。
だが――少女の体から、表皮を割って伸びる、蔦。
指先には花が咲き、花弁が涙のようにこぼれていた。
「俺の娘だ」
木戸は、うどんの器を両手で覆った。
「名を、千里って言う。… 音が聞ける因子を持ってるらしい。そう奴らが言ったんだ。」
久志「……奴ら?」
木戸「CIAさ」
久志は眉をひそめた。
木戸「アメリカの連中に見つかったんだよ。進化因子に失敗した…日本人。それが、紫陽花の君の声を聴く事ができるってな。」
静寂が広がった。うどん屋の外から、風に転がるペットボトルの音が聞こえた。
木戸は目を伏せたまま続けた。
「CIAは言ってきた。田嶋久志を、ある場所まで連れて来いってな。それだけで娘を治してやると。……だが俺はわかってる。やつらは“進化失敗体”を研究材料にするつもりなんだ。因子を取り出し、ただのデータにする、あいつらはそれを集めている」
久志は静かに立ち上がり、写真をじっと見つめた。蔦に包まれた少女・・・この姿を見たのは一度や二度ではない。この体になると長くは持たない。だから今ではめったに出会わない。発病から15年も生き続けているのは奇跡に近い。
木戸「俺は…取引をする気はない。……でも、あんたなら“音”を追える。」
久志「……君は俺を売る気だったんだな」
木戸は肩を落とした。
「ああそうだ。」
久志は写真をゆっくりと返した。
「娘さんは……どこに?」
木戸は、まるで裁きを待つように顔を伏せた。
「ここから10キロ北に行った所にある古いお堂だ。俺も一度行ったが、かなり厳重な警護が敷かれてたよ。」
久志は一度だけうなずいた。
「……行こう。俺が会って、話してみる」
木戸はハッと顔を上げる。
「本気か……? あんた、殺されるかもしれねぇんだぞ。わざわざ捕まりに飛び込むのか?あそこはもう“外の管理”に落ちてる。連中の無人ドローンが常時監視してる。出入りの奴らは……何人も行方不明になってる」
久志は席を立ち、背負ったリュックのストラップをきゅっと締めた。
「――そんな場所に、娘さんを置いておけないだろう」
そして、錫杖のリングが小さく揺れ、微かな音を立てた。
木戸は久志には見えぬよう、鋭く目を細め、ほんの少し口角を上げた。