春の街
出てくる地名は仮名です。
穂見川の水音が、春の風に乗って遠くから聞こえてきた。
田嶋久志は、穂見駅からゆるやかな坂道を歩きながら、ふと足を止めた。改札口から続く道には観光客の姿はほとんどなく、代わりに苔むした石垣と、時折聞こえるウグイスの声があった。
「……静かだな」ー耳鳴り抜きならね・・・ー
十年前、戦火が町をかすめた痕跡はところどころに残っていた。だが穂見の町は、春のやわらかい日差しの下で、確かに息をしていた。
手に持つ錫杖が歩くたびシャンシャンと鳴った。
ここに来たのは偶然ではなかった。耳鳴りのような声――どこか遠くから微かに聞こえてくる、しかし意味を成さぬ囁き。ある日それが、眠っていても、目を閉じていても、頭の奥に響くようになった。
これで何度目だろうか。今回は西の方角から聞こえるようだ。そして西に歩を向けこの街に到達した。
途中、焼酎蔵の前を通る。かつては観光バスが並んでいたという道も、今は地元の人の軽トラが一台、ゆっくりと曲がって消えていった。
蒼井社の鳥居は、途中から欠けたままになっていた。しかしそれでも立っていた。「これしきの事で」と言わんばかりか。復旧は進められなかったのか、あえてそのまま残したのか、それはわからない。ただこの土地に生きる人の心情にこれ以上介入するべきではないという気がした。
久志はその前に立ち、そっと一礼した。
日本中が傷ついていた。ただ、今は黙々と淡々と生活をすることで、前を向けた。
彼は思う。再建ではなく、記憶の保持。壊れた鳥居は、この町が失ったものと、それでも守ろうとしたものの両方を語っているようだった。
駅前のベンチで小休止したあと、久志は地図も見ずに歩き出した。歩き慣れた足取りで、あえて舗装の悪い裏道を選ぶ。なんとなく、人工的なものを見たくない気がしたからだ。
途中、川沿いの小さな茶屋に寄った。暖簾は色あせていたが、中にはきちんと人がいた。
「いらっしゃい。おひとりですか?」
現れたのは見た目、四十代くらいの女将だった。髪は胸までのロング、黒髪で色白の知的な雰囲気の女性である。進化してからの日本人は相対的に肌の張りが良く均整の取れた体つきの人が多くなった。だから進化してからは実年齢がほんとにわからない。ただ、進化した現在50歳の久志は 年齢=見た目 と言われる事が多い。少数派なのは不公平だと少し思う。
「ええ・・・ああ……冷たいお茶、ありますか?」
「穂見の新茶がありますよ。少し香ばしいけど、疲れた体にはいいですよ」
茶と一緒に、ふかし芋のような香りが漂ってきた。サービスですと女将が出してくれたのは、地元の米で作られた「がね」だった。
「懐かしい味ですね」
「懐かしいと思えること自体が、贅沢な時代になっちゃったけどね」
二人のあいだに、短い沈黙が流れる。
「……お客さん、旅の人ですか? この辺りではみかけないなって思って」
女将はそう言いながら前の客の膳を片付けるために厨房へ入っていった。
「はい。あてもないけど、日本を歩いてるんですよ」
「進化してから、皆、色々あると思います。自分の事で精いっぱいで・・・あてもない旅なんて、いいじゃないですか」 厨房から女将が返した。
久志は静かに笑い、がねにかぶりついた。
食事が終わる頃、女将がふと窓の外に目をやった。
「……そういえば、祠にはもう行かれましたか?」
「祠・・・とは?」
「ここから少し山を登った中腹に小さな祠があるんです。ほらここから見える小道です。そこは昔からの言い伝えが残っていて。最近は誰も行かなくなったけど、心が落ち着くいい場所なんですよ。」
久志は言われたほうに目をやると、確かに上に続く小さな道が見える。来たときは気が付かなかった。
そしてその瞬間――あの耳鳴りが、ピタリと止んだ。
まるで、正しい場所に導かれたとでも言うように。いつもなら意識の底で揺れている音が、完全に消えていた。
久志は言われたほうに目をやると確かに上に続く小さな道が見える。来たときは気が付かなかった。
その言葉に不思議な含みを感じたが、久志はただうなずいた。
「ありがとう。ご馳走様。行ってみます。」会計を済ますと
「お気をつけて」女将はにっこり微笑んで送り出してくれたが視線が合わずなんとなく落ち着きがなかった。
茶屋を出て、女将が教えてくれた町の外れにある古い祠へ足を向けた。
女将に言われた場所だが、持っている資料にも観光案内にもほとんど載っていない。地図にも小さくしか記されていない。道は細く、突出した巨大な岩は苔に覆われていたが雑草などはきれいに刈られ誰かがちゃんと管理しているように思われた。
鳥の声もなく、代わりに風だけが通り抜ける。遠くで草刈り機のエンジン音が聞こえる。
小さな石段の先に、それはあった。木造の簡素な祠。傍らには苔むした石碑が立っていた。
「穂見三山の神……?」
石碑にはそう彫られていた。久志は祠に手を合わせ、石碑の文字をなぞるように読んだ。
――その昔、この地には「隠れ神」と呼ばれる者がいた。
火の神の末裔とも、海から来た異人とも伝えられたが、彼らは人と異なる智慧と力を持っていたという。
人に交わることを避け、森深くに暮らし、その血筋は数代で姿を消した。
だが今もなお、「言葉にできぬ声」が春の風に乗って、穂見の山にささやく。
「……創作か、伝承か」
久志はつぶやいた、それともリアルな話かもしれない....
いつの間にか風も、遠くの草刈り機の音もなくなり辺りがピーンと張りつめた気配に変わった。
その時だった。背後に気配が走る。
草を踏む音。振り向いた瞬間、黒い影が飛びかかってきた。弾丸のようなスピードで踏み込んできたソレは手に持つ巨大な鉈のような刃物を確実に久志の頭部を狙って袈裟に振り下ろしてきた。
久志もまた尋常ではない反応速度で手に持つ錫杖を下から上に振り抜き、それを弾く。“ガギィン!”。重く骨が軋むような斬撃。しかし見た目以上に重い鋼鉄の錫杖は打ち負ける事はなかった。恐らく相手は人間ではなかろう。あるいは半分人間か。全身が鞭のようにしなやかでまるでイカの触手のように関節の動きが異常だ。
「待てっ、なぜ襲う?」
返答はない。ただ、無言で再び襲いかかる。
久志は冷静に間合いを取る。畳みかけるように相手が切りかかるが3度目の斬撃をかわしながら体を捻りつつ錫杖を右肩に一撃入れた。それでも相手は押し切るように前に出る。久志は相手の斬撃を躱わしながら錫杖を半回転させみぞおちに音速の突きを一撃叩き込んだ。「ウッ」わずかにうめき声を発したが、片手で腹部を隠し一瞬うずくまったかに見えたソレは後ろに飛びのき、そのまま藪の中に消えていった。
久志は追うことをせず フーっと一度 息を吐いて呼吸を落ち着かせた。
「女か・・・」グラマラスな体。全身タイツのような衣装だと思ったが、それは鉛色をした鱗だった。全身にびっしりと蛇のような鱗が生えた姿そのものが「彼女」であった。顔だけが「人間」だった。青い瞳。
再び風が吹き始める。祠の鈴がひとりでに鳴った。
久志はしばらく警戒を解かず振り返らなかった。
再び茶屋に戻った。女将は青ざめた目でこちらを見ている。一瞬、迷いが表情に浮かんだが、すぐに消えた。
久志が近づくと女将は慌てて裏口から出ていこうとする、しかし足がもつれて裏口の扉の前にガタガタと倒れこんでしまった。その時に引っ掛けた陶器の置物が落ちて割れた。
「理由を聞かせてくれないか」
いつの間にか久志が目の前に立っていた。
女将がハッと目を見開いた。だが観念したように
「……そんな・・・まさか彼女は」
久志は黙ってただ女将を見ていたが
「彼女は生きているよ。急所は避けた。いきなり襲われたら誰だってああなるよ」
長い沈黙ののち、女将が語り出した。
「あの山には、"人ではない者たち"が隠れ住んでいるのよ」
「人ではないとは?」
「ホムンクルス、キメラ、人造人間。戦争で使い捨てられた存在たち。色んな事情で自らを改造される事を選んだ外国人。日本人を拉致したり傷つけるためにね。でも、中には争いを好まない人もいる。村人たちは彼らを受け入れ、共に暮らしている。彼らの存在を隠して。 本来であれば警察に通報しなければならない。」
「・・・・・」
「日本人になれる薬がある。その薬を打てば細胞が進化するという。その薬は錫杖を持った旅人が持っている。という噂がこの村に伝わってるの」
「すまないが、俺では・・・・」
ー俺の事? ええ・・ でも錫杖を持って歩いて旅をしている人間もそうはいないだろうけど・・・ー
女将の手が、震えていた。目を伏せたまま、かすれる声で続ける。
「……ひどい事を。私は・・・あなたをあの祠へ誘導した・・・だけど彼女たちを見ていたら不憫で。」
久志は静かに茶を飲み干し、女将に向き直った。
「気にしてませんよ。どこにでもいる取るに足りない男ですから。」
彼は穏やかに微笑んだ。
女将の目に、うっすら涙が浮かんだ。
「ごめんなさい……」
「あ 女将 名前を聞いても? 申し遅れました僕は田嶋久志と言います」
「三上 香と申します。 こんな見た目だけど今年でちょうど70になります」
ーえええ・・・ー
なんだか恥ずかしくなって久志は自分の年齢も言わず、そそくさと茶屋を後にした。
茶屋の前の道を東に向かって歩き始める。その間後ろから付けられている気配があった。「あいつ(蛇女)か・・・?」しかし殺気は感じられなかった。
町を出るころにはその気配も無くなっていた。
・・・日本人になれる薬・・・ ・・・錫杖を持った男・・・ 「一体なんだ」
「さて・・・行くか」
風がまた、春の匂いを運んできた。