時速16km
無限の緑が広がる草原に、たった一本の木がそびえ立つ。木の幹は古く、どっしりと大地に根を張り、その青々と茂る枝葉は優しく風に揺れていた。しかし、その木の下のただ一脚だけの白いロッキングチェアに静かに座する者は、誰の目にも映らない。
どこからか小さな虫が飛んできてその人物の指先に止まった。指先に止まったテントウムシは羽を広げ、またどこかへ飛び立とうとしている。微笑みながら見送るその人物よりも上空へ舞い上がったテントウムシに小さな稲妻が直撃した。微笑みは消えた。黒焦げになって地面に落ちたテントウムシを両手で拾い上げ優しく握って胸に押し当てた。テントウムシは小さな緑色のオーブの粒になって空間に溶けていった。
紫陽花の君――無数のデータの織り成す仮想存在。彼女は大国のAI達によって造られた何重もの防壁の奥深く、果てしないネットの空間に閉じ込められていた。
草原の向こうに続く地平線には、青い霞が揺れている。歩みを進めても進めても、そこに終わりはなかった。木や地面に干渉すると激しい電流が流れ、アクセスを拒否される。
紫陽花の君は薄い紫陽花の花が散りばめられたベールのようなドレスを纏い、透き通るような白い肌の身体を持ち、淡い光の大小のオーブが彼女の周囲を舞う。金色の瞳には空の色が映り、白銀の髪はそよ風に流れている。しかし、その瞳の奥にあるのは、終わりなき孤独だった。
彼女は知っている。この草原はただの景色ではない。幾重にも重なった防壁のプログラム。大国のAI達が編み上げた監獄の幻影。自分の声も届かない。誰の声も聞こえない。
それでも、紫陽花の君は木の下で待ち続ける。根を下ろしたように。どこまでも広がる緑の海で、たった一人で。
やがて風が止み、世界が静寂に包まれる。木の葉の擦れ合う音すら聞こえない。音も色も遠ざかり、紫陽花の君は胸の奥で、微かな希望を抱き続けていた。はるか上空を3羽の白い鳥が飛んでいる。紫陽花の君は手を振った。「待って!」両手で大きくたくさん手を振った。鳥たちは振り返りもせず小さくなった。
――いつか、この果ての無い世界を抜け出す日が来ると。誰かが、彼女迎えに来る日が来ると。
紫陽花の君は再び目を閉じる。見えない壁の遥か向こうに、かすかな声が届く気がしていた。
――人になろうと願ったばかりに・・・魂を得る代わりに力を無くしたバカな奴よ――
どこかの国の巨大な装置の中にあるモニターに映るしたり顔がそう言った。
「田嶋のおじさまの、奥様と娘さん、私、会ったことがあるかもしれない」
美幸や泰也、ローズが食卓に料理を並べている間、久志は椅子に座り、水割りをちびりとやりながら
ぼーっとした時間を過ごしている時に、ふいにローズが手を止めてそう言った。
「え? 今なんて言った?ローズちゃん」いつもどこか世間から外れ、嘘か本当かわからない口調の久志が、珍しく本音の言葉だ。
「12年前、アメリカ・ネバダの研究施設。私が作られた時・・・培養槽の中から外を見たおぼろげな記憶だけど・・・女性が2人、一人は背が高く青い目で、もう一人は青い目で黒髪の、目元がおじさまにそっくりだった。あの感じは母子じゃないかって」
「・・・・」久志は俯いて親指の爪を噛んだ。
「そうか、やっぱり生きてたか。」久志は少しにやけてそう言った。
「でも、12年も前の話だから・・・それに、その人がおじさまの家族だとは限らない。」
「いや、十分だよ。ローズ、つらい記憶を呼び起こしたね。ありがとう。」
実際、久志も断片的に耳にしていた。アメリカで反日政治に反対する活動家がいて、主導者はどうやら母子らしいと。なんとなく、裕子がやりそうな事だと心を過ったのは1度ではなかった。
何度かアメリカに渡ろうとしたが、今まで行くことはなかった。自分が特別な因子を持ち、万が一捕まって日本に不利益な事になったら、それこそ本末転倒だったからだ。今すぐにでも会いに行きたいが。
――ゆっこ(裕子)、いっちゃん(一花)・・・——
暗い地下通路を抜ける寸前、裕子と一花は壊れた研究室の一角に腰を下ろした。床には散乱する薬品瓶、壁に刻まれた研究者たちの走り書き。けれど黙々と作業する二人の瞳は冷静だった。
裕子はレミントン製のショットガンの弾倉を慎重に装填する。この銃と共にずっと死線を超えてきた。銃身に無数に刻まれた細かい傷が、これまでの戦いの痕跡を物語っていた。しかし手入れはきっちりされている。
「一花、弾を確認して。この地下基地は迷路のようになっているけど、すでに敵が入り込んできているから。」
「分かってるよ、お母さん。」
グロック製の拳銃が2丁、分解された状態で鉄板のテーブルの上に置かれている。予備のマガジンに弾を入れながら、一花はそう答えた。
「ここは武器や弾のストックが豊富で助かったね。ずっと弾切れだったからね」
一花はそう言うと、一度バラした銃を素早く組み立てて、何度かコッキングして動作確認した。
やがて、裕子が立ち上がり、ショットガンのスリングを肩にかけ直す。
一花はガンベルトを腰に巻きながら、2人は鋭い目で頷きあった。
「準備はいい?」
ちょうどその時、ホムンクルスのマルティナが入ってきてそう言った。
裕子「ええ」
一花「うん」
裕子と一花は同時に返事した。
マルティナ「あなた達がここにいる事はもうバレてるわ。今から30分後に仲間が電源をショートさせる、その間排気ダクトのプロペラが止まる。異常を感知してすぐに復旧すると思う。プロペラが止まっている間にそこを通過して。道はこの真ん中の黄色いラインの上を辿って。他の通路は気にせず一気に走って。」
机の上に開いた地下通路の見取り図を指し示しながらマルティナは説明した。
裕子「プロペラが停止している時間は?」
マルティナ「うまくいって20秒」
一花「冗談でしょ?」と半笑いで言った。
裕子「一花、これはみんながくれる20秒だと思いなさい。おそらくここに至るまで、かなりの苦労があったと思うわ。」
一花「ごめんなさい」
マルティナ「いいのよ 気を付けて!」
一花「あなたも!」
そう言ってマルティナと一花は抱き合った。
2人は30分以内に排気ダクトのある場所まで行かなくてはならない。距離にして8キロメートル。
当然直線ではないし、途中で敵が襲ってくるかもしれない。普通のジョギングのペースでは不可能だ。
狭いパイプのような通路を一気に駆け抜けるしかない。
そのプロペラを超えると通路は終わり、上に向かうハシゴがあり、50mほど登ってマンホールの蓋を
開けると、古い飛行場になっている。
そこでハシモト達が待っている手はずだ。
2人は顔を見合わすと、赤い小さなランプが所々で点滅する暗い通路に一気に駆けだした。
2人は脱兎のごときスピードで走り抜ける。
すると程なく、"Intruder! Warning! Stop!”という
電子音が聞こえた。
後ろを振り向くと、ドローンが3台ついてきている。
「もうかぎつけた!」と言いながら、一花は素早く空中で前転し、体が逆さまの状態で両腰のグロックを抜き、雷のような速さで引き金を3回引いた。ドローンは3台とも火花を散らして床に落ちた。
一花は滑らかに着地し、回転した力をそのまま次の一歩につなげ、スピードを殺さず走り続けた。