Coffe
作戦室での会議がひと段落し、ハシモトは古びた金属キャビネットから一冊の分厚いファイルを取り出した。ページの縁はすり減り、所々に手書きの注釈や付箋が挟まれている。
「君たちに、もう一つ話しておきたいことがある。進化――つまり、“因子”の階層構造についてだ」
彼はページを開き、そこに並ぶ名前のリストを指差した。手書きの文字が薄くなりつつも、読み取れる。
「進化は確かに、日本人すべてに起こった現象だ。思考速度、身体能力、代謝、治癒能力、老化耐性……それらは全体的に向上した。だが、実際にはそれ以上に重要な“個体差”が存在する。――因子の種類と、レアリティだ」
裕子が眉をひそめた。
「種類?……進化に種類があるの?」
「構造的には、同じ。ただし、その内に眠る“因子”が異なる。日本人に発現した進化因子は、いくつかのタイプに分類されている。そしてその中には、千人に一人、一万人に一人という確率でしか現れない特別な因子があるんだ」
「東蒼月。奴の一族が取り潰された時、研究データや資料、その他一切が焼却されたはずだった。しかし、特に重要な資料は秘密の場所に保管されていたらしい。その資料を基に蒼月は非人道的な実験を秘密裏に行ったらしいんだ」
ハシモトは手に持つファイルの一枚のページを開き、そこに記されていた名称を読み上げた。
「“タカミムスビ”。“アメノミナカヌシ”。“カグツチ”。“イザナミ”。……これらは、日本書紀に記された神々の名を冠した因子だ。例の東家の生き残った資料を仲間が命がけで書き写したこの資料に載っている名称のごく一部だ。」
「神々の名前と因子とに因果関係が?」
「それはわからない。実際、名前と現象の間に奇妙な一致がある。例えば、“タカミムスビ因子”の持ち主は、高度な神経制御と細胞再構築が可能とされている。これが伝承にある“造化三神”の力と一致する、と言う者もいる」
「そして“カグツチ因子”は、極端な発熱と破壊的な筋収縮力をもたらす。戦前の実験で持ち主は、一人で戦車を持ち上げ、焼却炉の中で1時間過ごしたという記録もある。……しかしその者は二年で神経が焼き切れ亡くなったとある。当時は進化が不完全だったのかもしれない。」
一花が震える声で言った。
「……それって、呪いみたい」
「かもしれない。だが、確かなのは“レアな因子ほど、性能が桁違い”ということだ。お前たちのような施設に集められた者は、たいていこの“神因子”持ちだった。そして、東蒼月はそれを利用しようとした」
裕子は静かに、ファイルの中の名前を見つめていた。そこには、見覚えのある名前が一つあった。
――“ユウコ・タジマ/イザナミ型” 評価:特A 適合度:98.3%
「……私の因子にも名前が?」
「“イザナミ”。死と再生を司る神の名だ。君は、おそらく“完全再生系因子”を持っている。内臓の再構成、組織の再生、老化遅延……アメリカ軍が一番執着した因子でもある」
「それって……私のせいで、娘まで巻き込まれたってこと?」
ハシモトは否定も肯定もしなかった。ただ、静かに言った。
「彼女もまた……おそらく、神の名を持つ因子の継承者だ。二代目として、君を超える可能性すらある」
一花は、震える手で自分の胸を押さえた。体のどこかに、“名前のついた何か”が刻まれている気がした。
ハシモトは言葉を続けた。
「神の名を持つ者たちは、なぜか特定の土地――祠や神社、古墳などに引き寄せられる傾向がある。君たちは何かに呼ばれるとか、不思議な声が聞こえるといった経験は?」
「うーん・・・無いかな」裕子が言った。
「私も・・・あ 不思議な耳鳴りがした時があったわ、たしか離れた実験施設に移動している道中よ。砂漠の真ん中だった。」続けて一花が言った。
「そうか、そこは先住民の居留地がある場所かもしれないな。」
「東蒼月も、因子の名に取り憑かれた男だった。彼は“天照”に至る因子だと聞く――そして他にも様々な因子を取り込み、神のような存在になろうとしている」
一花が息を呑んだ。
「じゃあ 私たちを取り込もうと?」
「恐らくは・・・ただ日本人の中には色々な因子を持つ人々がいる。俺も一花も何かしらの名前があるんだろうが今の時点ではそれを調べる術がない。東は知ってるだろうが」
「それと・・・蒼月が血眼になって探している因子があるらしい。」
「それは?」
「その因子の名前は "鬼” と呼ばれているらしい。どういう特性なのか何一つわかってない。それも神話の世界とはまたジャンルが違うしな、あるいは同格もしくは対になる存在なのか・・・」
裕子と一花にとって久しぶりの休息だった。
長年の逃亡生活では、いつも神経を張り巡らし、敵の襲撃に警戒する日々。2人同時に睡眠をとることは絶対になかった。
通常の人間であれば、こんなに長い逃亡生活は心も体も持たなかったであろう。
進化して、身体能力が向上したおかげで、色々な危険から回避することができたのだ。
そんな2人はこの基地に来てから丸一日、泥の様に眠った。
それから裕子も一花もほぼ同じタイミングで目を覚ました。
あてがわれた部屋には二人しかおらず、基地はシーンと静まり返っていた。
2人はあくびをしたり伸びをしたりして、ぼーっとした頭を元に戻そうとしていた。
その時、鉄の扉をノックする者がいた。
ゴンゴン・・・
「はい・・・」裕子が答えると。
ガチャリと扉が開き、先ほど裕子を手当てしてくれたホムンクルスがお盆を持って
入ってきた。
「コーヒーのいい香り!」一花が大声で言った。
「これ飲んで目を覚ましなさいな」
「ありがとうございます」二人はそう言ってお盆からマグカップをとり
匂いを嗅いで一口飲んだ。
―――いつぶりだろう―――
裕子は無類のコーヒー好きだった。
「おいしい。あの 差し支えなければあなたの名前を教えて頂けますか?」
裕子はそのホムンクルスの目を見て言った。
「マルティナ・ロレンソよ。」とにっこり微笑んだ。
「あら、スペイン系ね?」
「そうなの、バレンシア生まれよ」恰幅の良いその女性はにこやかに答えた。
「そうなのね いい町ね」優しい笑みで答えた。
「行ったことが?」
「ええ、父に連れられて一度だけね、おいしいパエリアを食べたわ。」
そう言うと、マルティナの口元こそ笑みを浮かべたままだが、瞳の奥が曇ったように見えた。
裕子はこれ以上踏み込むのは止めた。
マルティナも人間だった時があったはずだ
少なくともバレンシアで暮らしていた頃は・・・
どんな事情があったにせよ、生きるためにホムンクルスになる選択をしたのだ。
金か、人生を変えたかったのか、それとも強制的にか。
「ほかの皆はどこかへ行ったの?」裕子は話題を変えて聞いた。
「私と数人を残して出発したわ。」
「どこに行ったの?」
「飛行場よ」
アメリカ脱出計画は着々と進行していた。




