蒼い月と青い目
マンホールの半開きの隙間からから顔を覗かせたのは、顔に深い皺を刻んだ壮年の男だった。分厚いゴーグルを額に押し上げ、傷だらけの手で合図する。
「急げ、こっちだ」
一花が一瞬ためらうも、裕子がそっと背を押した。二人は雨に濡れた路地から地下の闇へと身を滑り込ませる。階段の先には、乾いた空気と、鉄と油の混ざった懐かしい匂いが漂っていた。
裕子は顔を傾けてその男を凝視する。
「あなたは……ハシモト?生きてたのね」
男――ハシモトは小さく頷いた。
「思い出してくれたか。十二年前、ネバダの研究施設で一緒だった。あの日、お前たちと一緒に逃げ出した一人だ。あんたの事はテレビや噂話でたくさん知ってる。俺たちのヒーローだよ。しかしあれからあんたは派手にやらかしたな、反日思想に反対する組織を立ち上げ、それが国際世論を変えたんだから。 アメリカ政府の恨みは相当なもんだぜ」 ハシモトは笑いながらそう言った。
「とりあえず まずはユウコ、君の手当だ」
先ほどの爆風により腹に怪我を負ったが、傷は血の量ほど大したことはなかった。
シックスパックの腹筋に5センチほどの切り傷があったが、もうほとんど血が止まっている。
ネコ科の動物とのハイブリットらしき女性のホムンクルスが手当てしてくれた。
「血はほとんど止まってるようね。やっぱり日本人はすごいね」
地下は、秘密基地のような構造になっていた。壁には使い古された配線や無線機器、床には医薬品や食料が積み上げられている。薄明かりの中、十数人の影が動いていた。その姿は人間のものもあれば、異形のものもある。――ホムンクルスたち。かつて研究所で共に生き延び、いまもこの地下で息を潜めている者たちだ。あの頃(研究施設時代)はあまりお互いしゃべる事はなかった(許されてなかった)が不思議な連帯感があった。監督官の目を盗んで、目くばせやジェスチャーで皮肉や冗談を言い合った。
「ここは闇の中で道を照らすために作られたレジスタンス組織だ。俺たちは、ネバダから逃げ延びた被験者のうち、生き残った者たちで構成されている、組織に名前はない。名前から足が付くからな。」
一花が目を見開いた。
「施設の爆発の時、助けてくれたのはハシモトさん?」
「厳密には俺じゃなく俺たちかな。あの日、研究所は地獄と化していた。だが同時に、奇跡が起きた日でもあった」
ハシモトの目が細くなる。
「――研究施設を攻撃したのは、日本軍だ」
作業をしていた者たちの手が一瞬止まり、室内に緊張が走る。
「三基の動力炉を、ピンポイントで破壊した。犠牲を最小限に抑え、施設を機能不全にした。使用されたのは、軌道上からの衛星レーザー兵器だった。誤爆なし。ほぼ完璧な作戦だった」
裕子が小さく震える。
「あの時……私たち、実験室に閉じ込められていたの。制御装置が狂って、火災も起きて……でも、急に、ドアが開いた。誘導してくれたのはあなただったのね!」
「間一髪だった。あの攻撃が数分遅れていたら、君たちは実験体として細切れにされていたかもしれない。なにせ……」ハシモトは声を潜めた。
「君たち二人は、東蒼月が特に“重要視”していた被験体だったからな」
「……」
「なぜ彼は私たちを執拗に追うの?」一花が問う。
「おそらく、君達の中には“特別な因子”がある。あの施設では、単なる人体実験ではなく、“進化因子”の抽出と再設計が行われていた。そして、それは軍事利用のために、アメリカと東蒼月が裏で共同開発していた」
「……!」
裕子の眉が強く寄る。
「彼は、日本人のために研究をしていると嘯いていた。でも、裏ではアメリカ軍と癒着し、被験体の培養した身体の一部を“輸出”していた。しかも、その中には日本国内で拉致された人々も含まれていた」
「……腐ってる」
「君たちが無事だったのは、単に運が良かっただけじゃない。日本軍は、東蒼月の裏切りを見抜き、施設を潰すために動いた。だが、それを公にはできなかった。国家間のバランスを崩すからな」
部屋の奥で、誰かが機器に信号を受信したらしく、警告灯がぼんやりと点灯する。
「時間がない。追っ手が迫っているかもしれん。君たちはしばらくここに身を隠すといい。我々も準備を進めている。日本へ帰るための」
裕子が顔を上げる。
「できるの?そんな事 ――」
地下の奥まった作戦室。薄暗い照明の下、レジスタンスの幹部たちが集まっていた。ハシモトはテーブルの中央に地図を広げ、その上に小さなビーコンを置いた。
「――これが、我々の“脱出ルート”だ。目的地は、**日本列島・南西端の無人島。**そこから自衛隊の協力者に引き渡してもらう」
ホムンクルスの一人が、声を潜めた。
「ハシモト……日本政府は、俺たちの亡命を受け入れてくれるのか?今の日本は出るのは容易いが入るのは至難の業だと聞く。ましてや俺たちは、あの施設で“製造された側”だ。あいつらにとって、俺たちは“存在してはならない”証拠だろう」
「今の日本は中央政府が取り仕切っているのではなく、あくまで個人の判断に委ねるという国民性になっているという事だ。そしてホムンクルス達が一緒に暮らす街や村があるという事だ。そしてアメリカと癒着した東蒼月の存在が、内部の“裏切り者”として日本政府が警戒している事がスケープゴートとなるだろう」
「まず、お前たちには、知っておいてもらいたい。……東蒼月が、なぜ“日本を敵視しているのか”を」
その場に静寂が落ちた。
裕子が静かに問う。
「……あの男は、昔は日本の未来を語っていた。何が彼をあそこまで歪ませたの?」
ハシモトは深く息を吸い、語り始めた。
「その姿は嘘さ。奴は初めから歪んでいる。まずは東の出自から説明しないといけない。
かつて、東家(蒼月のじいちゃん、ひいじいちゃんの時代だな)は日本の旧財閥の分家として、戦前・戦中にかけて政商や兵器産業に深く関わっていた。特に、生体実験や人種研究などの“影の国家事業”に従事していた過去がある。そこで日本人だけが持つ特別な因子が初めて発見されたと聞く。そして、その因子を目覚めさせるウイルスを偶然開発したらしい。だが第二次大戦後、日本政府はアメリカの介入を受けて“進化研究”をすべて否定、証拠隠滅のために関係者を粛清、東家も見せしめとして資産を凍結・没収され、家系は崩壊した。
蒼月の父は官僚に見せしめとして冤罪で投獄され、獄中死。母は世間から「人体実験家族」として追われ、蒼月を抱え自殺。蒼月だけは生き残り孤児院で育ち、しだいに「日本の“建前の正義”のために、真実が抹消された」と強く思い込むようになる。じかし実際は日本国内において東家が行っていた進化因子の研究は秘密裏に進められていたらしいのだ。さらに彼自身、孤児院時代に進化因子を持つ“候補児”として政府により拘束された過去があるが、因子が不安定だったため廃棄対象となり、間一髪で脱走。以降、日本国家の道徳や倫理を装った偽善的な国民性に対して激しい憎悪を抱くようになった。
その後苦労して東京大学に入学、アルバイトを掛け持ちしながら生命工学を専攻し、トップの成績で卒業。その後、政府系の研究所に勤め、日本政府の次世代医療プロジェクトの中心人物になった。彼は“再生因子”の研究で世界的な注目を集めるようになる。でも、十七年前。ある事件が起きた。彼の研究施設に所属していた助手の若い女性が、内部告発を試みて死亡した。再生因子の臨床実験が、法を逸脱していたと告発書を作成していたらしい と。
東は無関係を主張した。だが、政府は蒼月をスケープゴートとし、突如としてプロジェクトを打ち切り、研究費の大部分を凍結。逮捕には至らなかったが、色々な謎が明らかにされないまま事件は風化し、蒼月は学界からも追放され、全てを失った。……そして、東は姿を消し、数年後にはアメリカの軍事施設で再登場した。」
ホムンクルスの一人が小さく呻いた。
「……そりゃ、恨むだろうな」
ハシモトが続ける「東にとって、日本政府は『自分や一族を裏切り、理想を潰した国家』なんだ。憎悪とは裏腹に彼は日本のために命を削って研究していたと信じていた。だが、またもや国家は彼を切り捨てた。……そして、アメリカは彼に手を差し伸べた。“自由に研究を続けさせてやる”と」
裕子が声を低くする。
「その代償が……人体実験」
ハシモトは頷いた。
「彼は科学者としての良心を、アメリカの戦略と引き換えに封印した。そして今や、“進化因子を使った民族選別”という狂気に取り憑かれている。彼の最終目標は、“日本人の淘汰と、自分が作り出した種だけの新しい支配国家の建設だ」
一花が口元を押さえた。
「じゃあ……私たちは……その材料だったの?」
「お前たちは“鍵”だった。特に裕子、お前の因子は、当時の研究所でも“完全適合”に近かった。……君が日本人とフランス人の混血であることも関係しているのかもしれない。つまり、東にとって君たちは――**“新しい人類の雛型”**だった」
室内の空気が重く沈む。
ハシモトが再び地図に目を落とす。
「だからこそ、我々は亡命する。日本は今、孤立ているが、東も敵視している。それは、唯一の救いだ。そして君たちが日本に帰還すれば、“記憶”と“因子”が、あらゆる証拠となる」
裕子は、小さく頷いた。
「……帰らなきゃ」
一花も、その手を握った。
地下の灯りが、静かに揺れた。




