転落後
『誰が訓練を休んでいいと言った?』
『ちゃんとやれよ、奴隷。お前に、他に価値なんてないんだからさ』
母が死んだ日。
国王である父も、王太子である兄も、まともに弔おうとすらしてくれなかった。父は冷徹な目で、兄は蔑むように。母の死なんか関係ないと、剣の練習をしろと、ただ突きつけられた。
*****
「……ぅ」
意識が浮上する。いつ寝たんだったっけ、と思い出そうとしたけど思い出せない。体を動かそうとして、ズキッと全身に痛みが走った。
「セルウス!? 起きたの!?」
聞こえたのは、エイシアの声だ。心配そうで泣きそうな声に、俺はようやく崖から落ちたことを思い出した。
「エイ、シア……」
目をあける。どうやら、うつ伏せで寝かせられているらしい。どうにか顔だけ動かして、エイシアを見た。
「無事……?」
「バカなの、あんたは!」
怒られた。けれど、その目に涙がたまっているのが見えて、驚く。
「私は無事よ! 怪我一つないわよ! あんたがクッションになってくれたから!」
目から涙が落ちる。それを、俺はどうすることもできずに見る。泣いているエイシアを、初めて見た。泣きながら、エイシアは俺に怒っていた。
「私のせいなのに! 私が、後先考えずに前に進んじゃったせいなのに! なんであんただけが怪我してるのよ!」
「エイシア」
「ほんとうに…………ごめん、なさい」
消え入るかのような声だけど、確かに紡がれた謝罪の言葉と同時に、さらに涙が溢れ出たのが見えた。
どうしようと思ったけど、とりあえず、うつ伏せのままじゃ話もしにくい。
腕をゆっくり動かしてみる。問題なく動く。足も問題なさそうだ。強打したのは背中だから、なるべく背中に負担をかけないように、腕と足の力で起き上がった。
ピリッとした痛みは走ったけど、その程度だ。これならおそらく打撲だけで、骨は大丈夫だろう。
「エイシア、あまり泣くと、瞼がくっついて離れなくなっちゃうよ」
「……言うのが、そこなわけ?」
ややドスの利いた返事が返ってきた。
でも事実だ。これだけ寒いと、涙だって凍る。身も蓋もないけど、泣くのも危険な場所だ。
「ありがとう。エイシアのおかげで命拾いした。あれだけ高い場所から落ちて、こうしていられるのは、エイシアのおかげだよ」
「……雪だるまなんて、ワケ分かんないこと言ってたわね」
「分かってくれて、嬉しかった」
俺は笑った。
氷の巨人と戦ったとき、エイシアは雪だるまを出して、クッション代わりに受け止めてくれたのだ。それを思い出して、あの時咄嗟に叫んだ。
思ったより衝撃が少なかったのは、エイシアが出してくれた雪のクッションがあったからだ。それがあったから、死なずに済んだし、打撲だけで済んだ。
「エイシアのおかげで助かったんだよ。だから、謝る必要なんてないんだ」
「……だって」
「こんな場所だよ。どこに何があるかなんて分からない。エイシアのせいじゃないよ。気にする必要なんてない。泣かなくていいから」
「……ほんっとうに、バカ」
うつむいたままだから、どんな顔をしているか分からないけど、聞こえた言葉がいつも通りのエイシアっぽかったから、俺は安心した。そんなに言葉に自信があるわけじゃないし、これで立ち直ってくれたらいいなと思う。
俺は周囲を見回す。聞こえる風の音がひどい。一方は凍った岩肌だけど、他の三方は氷の壁に囲まれているから外は見えないけど、きっと嵐だろう。
「この氷の壁は、エイシアが?」
言いながら、体がブルッと震えた。背中に痛みが走って、顔をしかめてしまう。
おそらく傷を見るためだろうけど、上半身は上着を掛けられているだけで、何も着ていないから、寒い。
「ええ、そうよ」
顔を上げたエイシアが答えて、俺の服を手に取った。着せてくれようとしているんだと分かって、素直にそれに甘える。
顔に涙の痕はあるけど、もう泣いてもいないし落ち込んでもいなそうで、ホッとした。
「本当なら打撲は冷やすべきなんでしょうけど、これだけ寒いから止めたわ」
「あはは、そうだね。単に体温を下げるだけになっちゃいそうだ」
何もしなくても冷えてるんだから、確かにわざわざ冷やす必要はない。
まだ国にいた頃は、魔物と戦って怪我をした兵士の治療を、エイシアにもお願いしてた。冷やした方がいい怪我なんて、エイシアの得意中の得意だったな、と思う。
エイシアに手伝ってもらって服を着終える。とは言っても寒いけど。でも、この風の音を聞いていると、本当に氷の壁があって良かったと思う。
「俺、どのくらい寝てた?」
「寝てたんじゃなくて気絶でしょ。数時間程度かしら」
「寝てるのも気絶も、たいして変わらないよ」
笑って言い返して、考える。
「エイシアはこの壁の維持、平気なの? それから、ここは崖の下だよね? 周囲はどんな感じ?」
地面は氷だけど、それだけじゃ分からない。凍った岩肌もあるから、おそらく俺たちが落ちた崖の下だろうとは、想像がつくけれど、分かるのはその程度だ。
ああでも、この吹雪の中じゃ、そんなには分からないか。案の定、エイシアは首を横に振った。
「崖の下なのは確かだけど、後は何とも言えないわね。壁の維持は問題ないわ。この状況だから、逆にほとんど負担らしい負担もなく、魔法も使えるもの」
「なるほど」
自然から恩恵を受けることができる魔法。皮肉だけどこんな吹雪の中だから、氷の魔法を使うのに適した状況でもあるわけだ。
「そして多分だけどね、ここは海だと思うわ。海が凍ってるだけ。とはいっても、かなり深くまで凍ってるから何も心配はいらないけど」
「海、なんだ……」
氷をコンコンと叩く。全く海という感じはしない。
「じゃあもしかして、俺たち北の果てまで来ちゃったってこと?」
「知らないわよ。海の向こう側にも陸地があるって話もあるじゃない」
「それは別の海の話じゃないか」
でもまあ、ある可能性も十分あるのか。
一応、国にいたときに遠征した先で海を見たことはある。その海で、魚を捕る仕事をしている漁師と会ったこともある。船という水に浮かぶものに乗って獲っていたけど、見ていてハラハラした記憶がある。
もっと沖にいくと強い魔物がいるから、海の向こうに行った人はいないけど、海の向こうからやってきた人はいる、という噂話だけはある。
「そんなの、どうだっていいわよ。とにかく心配はいらないから、あんたは少し休みなさい」
「うん……、そうだね」
エイシアの、心配と罪悪感が入り交じった目に、俺は素直に横になる。そうしたら、少しその目に安堵が帯びる。やっぱりそれなりにダメージが大きいのか、俺自身も横になったらホッとして、目を瞑った。
「死んだりしたら、許さないわよ」
「……?」
ポツリと、エイシアの声が聞こえて、目をあける。
「あんたはいつも、自分のことより他人のことばかりなんだから。自分が損してそれで済むならいいって思ってるでしょ。少しは自分を大切にしなさいよ」
エイシアの視線は、俺を向いていないけれど、でもその言葉が俺に掛けられているというのが、分からないはずもない。
言いたいことは分かる。自分でもそれに気付いていないわけじゃないから。でも、その上で俺は言う。
「――エイシアがいてくれるから、死なないよ」
心から俺は笑う。俺の、一番大切な人。その人が、俺を一番に大切にしてくれている。
母を亡くしたあの日、こんな風に思える人が俺にできるなんて、考えてもいなかった。




