ピュア
それでも瞳は紀子と過ごす時間は嫌いじゃなかった。紀子の声は不思議と瞳の心を落ち着かせてくれていた。
「よく、ドライブに行ったわ。夫はスケッチをして、私は岬のカフェでコーヒーを飲んで……」
紀子は引き出しから1枚の写真を取り出した。そこには広がる海と青空、そして岩礁が写っていた。
「私、運転をしないから詳しい場所を覚えてないのよ。夫に聞いておくべきだったわね」
紀子の夫・雅一は一級建築士だった。郊外で小さいながらも贅を尽くした美しいオーベルジュに事務所を構え経営を両立させていたのだが、10年前病気で他界していた。
「私、探してみます」
「楽しみにしてるわ」
「いつも悪いね」
瞳は桜井に誘われてホテルのレストランで食事を楽しんでいた。それは、フランス料理のフルコース。前菜からデザートまで一品ずつサービスされる、とても豪華なディナーだった。
「お母さま、思い出の場所を懐かしんでいらしたわ」
食後のコーヒーは繊細な絵付けとクラシカルなフォルムが特徴的なコーヒーカップが使われていた。取っ手やソーサーの縁部分は金色で高級感があり、コーヒーの味や香りも高級品だった。瞳は一口飲んでそっとカップを置くと、バッグから写真を取り出した。
「思い出の場所?」
「岬のカフェです。お父さまと、よくいらしたとか」
「あぁ。確か、千葉の方だったはず。この灯台……」
遠くに白亜の美しい灯台が写っていた。
「私、お母さまを案内したいんです。厚かましいとは思うんですけど」
「そんなことないさ。調子は良さそうだし、俺から主治医に相談してみるよ」
「お願いします」
「俺は気が回らないから助かるよ―」
数日後、桜井から連絡があり、外出の許可が下りたことを告げられた。
「移動は?」
「タクシーを呼ぼうと思います」
ドアが電動スライドドアになっていて、助手席を折りたたむことで車イスでもバリアフリーで乗車できる介護タクシーを予約しておこうと思案していた。
「車は手配しておくから」
「わかりました」
「それじゃ、よろしく頼むよ」
「はい」
外出の日、瞳は動きやすいようにジーンズにスニーカー、ボーダーのTシャツに白のパーカーを羽織り、手荷物はリュックに詰めて病院へ向かった。
「こんなに甘えてよかったのかしら?」
外出の許可を得て喜ぶ紀子の姿を見て、瞳も晴れやかな気持ちになっていた。
「私も楽しみです。ただ、お体のことだけは気がかりですけど……」
「そうね。あなたに迷惑をかけないようにしなくちゃね」
「いえ、無理だけはされないでくださいね。なんでも、すぐにおっしゃってくださいね」
「ありがとう」
しばらくするとドアをノックする音がした。紀子が返事をすると若い男が入ってきた。
「ばぁちゃん! 顔色良さそうだね。あ、君は……」
桜井の運転手をしていた男だった。
「その節は、ありがとうございました。えっと」
ふたりはお互いの恰好を見て目を丸くした。
「あなたたち、お揃いね!」
紀子は楽しそうに笑った。彼はクロップドパンツにボーダーのTシャツ、そして白いシャツを羽織っていた。
「俺は小池徹也 (こいけてつや)。この人の孫だよ。あはは、今日はリンクしちゃってるね。しかし、社長もやるなぁ。いつのまに」
「まぁ……」
瞳は言葉を濁した。まさか恋人のフリをしているだけとは言えるハズもなかった。
「さて、参りましょうか」
徹也の車は9人乗りのワンボックスカー。車内は広々としていて乗り心地も申し分なかった。しかし、大音量で音楽を流していたので、紀子は呆れて「まるでディスコね」と茶化した。
「ごめんなさい。ボリュームを」
「あ、すんません。いつもひとりだからつい……」
紀子と瞳は顔を見合わせて小さく笑った。目的地まではアクアラインを利用して、約90分。平日なので渋滞することなく快適なドライブとなった。
「あなたたち、お仕事はよかったの?」
紀子が心配そうに尋ねると、
「俺は社長に出勤扱いにしてもらっているから大丈夫だよ。これも仕事の一環」
「私は、交代で休めますから」
それを聞いて、紀子は安堵した。
「海ほたるで休憩しよう」
西の方には横浜のみなとみらいのビル群と、その奥には富士山がハッキリと見えた。少し目を北側に向けると風の塔が見える。アクアラインの海底トンネルの通気口だ。
「見て!」
徹也は大きな声で空を指さした。羽田空港から離陸した飛行機が大きく旋回していた。
「ふふふ。あなたも変わらないわね」
「寒くないですか?」
360度を海に囲まれ、屋外デッキでは時折、激しい風が吹くことがあった。
「大丈夫よ。ありがとう」
海ほたるを後にして、目的地の岬へと向かった。
「懐かしいわ」
店内は広々としていて開放的な雰囲気。大きな窓ガラスの向こうにはテラス席があり、その先には真っ青な海が広がっていた。メニューはフレンチをベースにした魚介料理が中心で、魚介や野菜は地元・千葉県産の厳選素材。オリジナルのブイヤベースや、パスタ・パエリアなど、海の幸がたっぷりと使われていた。
徹也は窓の外を見ながら「ちょっと岩礁に降りてみようか?」と言ったが、瞳は即座に拒否をした。しかし、紀子はのんびりと、
「ふたりでいってらっしゃい。私はここで待ってるわ」
と、言って微笑んだ。
「それじゃ、少しだけ。すぐに戻りますから」
外に出た徹也と瞳はカフェを見上げると大きく手を振った。紀子も笑顔で答えた。
「ばぁちゃん、楽しそうだね」
「そうね。来てよかった……。待って! まだ行くの?」
徹也は足場の悪い岩場を、波打ち際まで進もうとしていた。
「ほら」
瞳は徹也の差し出した手を握ると、フラフラとよろけながらも後ろを歩いた。すると、徹也が大きな水たまりを飛び越えたとき、瞳も咄嗟に飛び越えた……が、その先の岩場は狭く、徹也は瞳を抱き寄せた。
「これが狙い?」
瞳は徹也を見上げて睨みつけた。しかし、徹也は悪びれることなく「バレたか」と言って笑った。
「社長と、いつから?」
「あのあと偶然会ったのよ。それで」
「それで?」
「いいじゃない。それより離してよ」
「離したら、話してくれる?」
「話すことなんて何もないわ」
瞳は徹也の腕をすり抜けると、となりの岩場にジャンプした。
「……社長って、あなたの?」
「叔父さんだよ。お袋の弟」
「そう。いつもどんな風なのかな……と思って」
「あのままさ。無口だし」
瞳は桜井のことを考えながらキラキラと光る波を眺めていた。
「社長と付き合っても苦労するだけだよ」
「なぜ?」
徹也に問いかけると、
「小姑みたいな女が側にいるからだよ」
と、言った。
カフェに戻ると、紀子は疲れたのか居眠りをしていた。
「ごめんなさい。お待たせしました」
「いいのよ。あまりにも心地よかったから……」
そのとき、カフェの店員さんが客の呼び出しをしていた。そちらに気を取られていると、
「……さん?」
瞳に話しかけたけど、まったく反応がなかった。少し大きな声で呼びかけると、瞳は慌てて右耳に手を当てた。
「あなた、耳が不自由なのね」
「……はい。でも、右の耳は聞こえますから安心して下さい」
「わかったわ」
絶景とおいしいコーヒーに身も心も癒され、遅くならないよう急いで帰途についた。その道中、
「耳は、いつから?」
紀子に聞かれ、瞳はいつもは『先天性』だと嘘をついていたが、
「12歳のときです」
このときは素直に打ち明けた―。