存在
中華街でラーメンを食べた帰り道。瞳は改めて桜井の振る舞いを追究していた。この不可解な状況を冷静に解明しようと試みるが、答えは見つからなかった。連絡先を交換してみたものの、口数の少ない桜井の胸の内を把握することなど出来なかった。
「……さん?」
「え?」
瞳は大きな声を出してしまい恥ずかしくなってうつむいてしまった。
「送るよ」
「はい」
夕暮れが早まり、辺りはすっかり暗くなっていた。食事をして体が温まったのも束の間、瞳は夜風に吹かれて身震いしていた。
「寒い? 急ごう」
桜井は瞳の肩をそっと抱いてパーキングへ向かった。助手席に瞳を座らせると、自販機で缶コーヒーを購入して戻ってきた。
「ありがとう」
「あぁ」
沈黙が続く車内。瞳は何か話そうと思っていても、上手く言葉に出来ずにいた。訊ねたいことはたくさんあったが、無情にも車は自宅へと到着してしまった。
「ありがとうございました。また……」
瞳はペコリと頭を下げた。
「ちょっと!」
カルチャーセンターの受付に興奮した受講生の姿があった。クレーマーとして有名な桃山梓 (ももやまあずさ)だった。
梓はフィットネスのクラスを受講していて、受講生の多くは梓を含め年配の女性だが、数名の男性受講者もいた。最初のクレームは男性受講者の氷室が、自身がオーナーシェフを務めるフレンチレストランの宣伝を繰り返し行っているとの事だった。しかし、休憩中の雑談の範疇だと判断をして問題にはしなかったのだが、そのことが梓の癇に障ったのか、抗議を頻繁に繰り返すようになっていたのだった。
瞳の後輩・村田紗季 (むらたさき)が平静を装って対応に当たった。紗季は梓の訴えに大きく頷き
「わかりました!」
と、元気よく返答した。
「今度はなんだ?」
坂本は呆れたといわんばかりにため息を一つ吐いた。
「料理教室の受講生の言動が気に障ったらしいです」
「やれやれ」
最初は『教室から漏れる笑い声が耳障り』だとか、もっともらしい言い分を述べていたが、最終的には『(遊んでないで)子供のために料理を作れ』などと言っても仕方のないことを延々と主張していた。
「あの人、SNSでも愚痴ばかりなんですよ」
紗季はスマートフォンで梓のつぶやきを表示させた。
「前にエントランスでカフェのドリンクを持って写真を撮っていたから検索かけてみたんです。そしたらヒットちゃって」
そこには、いわゆる『映え』写真がずらりと並んでいた。しかし、コメントは辛辣なものばかりだった。
『主婦がサボってコメントしてる場合か?』
『一年中さかりのついたオッサンからのDМ大迷惑です』
『ナンパか? ってやつは先手ブロックさせていただきました』
「言葉遣いは悪いし、いつも喧嘩腰で」
「承認欲求が強いのかしら? 相手を見下して……」
「自分の思想に逆らった人には容赦なく罵詈雑言を浴びせるタイプですね」
紗季のクールな分析、そして人が嫌がることを率先してやってくれる姿勢に瞳は感心していた。
瞳はあれからずっと桜井のことを気にかけていたが連絡出来ずにいた。美花に相談しても『こっちからアタックするしかない』の一点張り。しかし、気安く誘っていいものか悩みは尽きなかった。そんなとき、ふと紀子のことを思い病院へと足を運んだ。
「いらっしゃい。あら、ひとり?」
紀子は相変わらず笑顔で瞳を迎え入れた。
「カルチャーセンターで働いているの? カルチャーセンターって楽しそうね」
「はい。いろんな講座があるんです」
「そういえば、夫は……、あの子の父親は絵が得意だったわ」
自宅の寝室には今でも夫が描いた油絵を飾ってあるのだと微笑んだ。そのとき、ドアをノックしてひとりの女性がお見舞いに訪れたのだった。
「あら、お客様? こんにちは」
瞳は急いで立ち上がり挨拶をした。
「雅紀の……、大切な人なのよ」
「まあ! 雅紀さんも隅に置けないわね」
「いえ、そんな」
瞳は慌てて否定したが、照れているだけだと勘違いされてしまっていた。
「そういえば、お隣の吉沢さん。お義母さんの入院を知ってお見舞いに来たいって。でも丁重にお断りしておいたわ。お義母さん、あの人苦手でしょ?」
「ふふっ。ありがとう」
紀子はいたずらっぽく笑った。
「それじゃ、母のお相手お願いしますね。お義母さん、また来るわね」
着替えやタオルの交換をして早々に立ち去ってしまった。
「雅紀さんのお姉さん……?」
明るく朗らかな振る舞いに、瞳は感心しきりだった。
「義理のね。あの子は長男のお嫁さんなの」
と言って、瞳を驚かせた。
「すごく自然というか、隔たりなんて感じなかったから。ごめんなさい!」
嫁・姑の関係など上手くいくはずがないとの先入観が強すぎて口を滑らせてしまったのだった。
「そうね。とても気遣いの出来る素敵な女性だわ。夫は家族と疎遠で……」
紀子は自身が姑と交流がなかったと、悲しく笑った。
「お隣のお嫁さん、美人で明るくて、とても素敵な女性だったわ。だけど、お姑さんがいけなかったのね。あるときなんか、お舅さんがお庭から大声で娘さんを呼んだの。そしたら『嫁を使いなさい! 嫁を』って言ってたわ。お嫁さん、ショックだったと思うの。それを聞いた私でもショックだったもの」
「そんなことが……」
「結局、息子さん夫婦はお嬢さんを連れて出て行ってしまったの」
紀子は言葉を続けた。
「お嫁さんだって、他所様の大切なお嬢様なんですもの。お手伝いさんじゃないのよ。それを奴隷のように扱って」
紀子はお嫁さんに対して深い尊敬の念を抱いていて、だからこそ大事にされているんだと肌で感じたのだった。
しばらくすると、再度来客があった。そこに現れたのは堤真理子だった。真理子は簡単に挨拶を済ませると瞳にも帰るように促した。
「あなたも律儀ね。お芝居は1度でよかったのに」
「……」
「社長があなたに本気になることはないわ。まさか、玉の輿……」
「失礼します」
真理子の言葉を遮って、瞳はその場を立ち去った。
瞳の母親は看護師だった。医師である父と恋に落ち、妊娠を機に23歳で結婚。しかし、結婚生活は長くは続かず瞳が3歳のときに両親は離婚。幼少期は母とふたり慎ましく暮らしていた。
「玉の輿なんて、存在しないわ」
そう吐き捨てて雑踏に紛れ込んだ。
その夜、桜井から着信があった。お礼の電話だったが、それも義理なんだと思うと瞳はそっけない態度であしらってしまった。そして自分の存在価値もわからなくなってしまっていた―。