秋麗
「これって漆器よね? 素敵!」
美花は重箱を持ち上げ食い入るように見つめていた。この日は美花と遅めの夕食会。受講生の池上喜代子からお手製のちらし寿司を頂いていた。
「こんなにたくさん、よかったの?」
「うん。今夜は食事の約束があったりと、みんな遠慮しちゃって。でも、残念がっていたわ」
「金曜日だもんね。しかし、私はラッキーだったな!」
美花が持参したシャンパンで乾杯をして、ちらし寿司をほうばった。BGMは美花の好きな映画音楽のメドレー。お気に入りの曲が流れると肩を揺らして上機嫌だった。
「さすがに余ったわね」
「小分けにして冷蔵庫に入れておくから、持って帰ってね」
「サンキュー!」
瞳がキッチンで洗い物をしていると、美花がシャンパングラスを片手にカウンターチェアーに腰を掛けた。
「それで? あれからどうなの?」
美花にはあの日の出来事を包み隠さず話していた。
「何もないわよ。そもそも、見初められた訳じゃないわ」
「え~! もったいない。ね、名刺見せてよ」
瞳は引き出しから真理子の名刺を取り出した。
「Sコーポレーションね。検索してみるわ」
美花は目を輝かせて、楽しそうにスマートフォンを操作していた。
「へ~、いろんな事業を手広くやってるのね。社長は桜井雅紀 (さくらいまさき)。ウィキペディアによるとリゾートホテル経営から不動産仲介、開発とか……。玉の輿じゃない!」
「玉の輿って、妻帯者じゃないの?」
「独身みたい。別の記事だけど独身貴族だって」
「ふふっ。独身貴族だなんて、死語じゃないの?」
「私が編集したんじゃないんだからね!」
ふたりで大笑いをして夕食会をお開きにしたのだった。
翌日、瞳は横浜の総合病院を訪れていた。プリザーブドフラワー教室の講師・中山夏帆 (なかやまかほ)がこの病院に入院したとの連絡を受けお見舞いにやって来たのだ。夏が終わり空高く晴れ渡る空。心地よく吹く風は木の葉を揺らし、とてものどかな秋の午後だった。
病室の前で名札を確認して、そっとドアをノックした。
「どうぞ」
聞き覚えのない男性からの応答だった。恐る恐る病室を覗くとベッドに横たわる夏帆と、見知らぬ男性の姿があった。
「この度は……」
「いいのよ、堅苦しい挨拶なんて。それよりこっちに来て座って!」
夏帆はベッドの下に収納されていた丸椅子を引っ張り出して瞳に座るように促した。
「ほら、あなた時間ないんでしょ?」
「あ、うん」
「この人、主人なの。こちらはセンターの紺野さんよ」
「妻がお世話になってます」
「紺野です。こちらこそ先生にはお世話に……」
「さ、もう行って」
夏帆は瞳の言葉を遮り、夫を病室から追いやってしまった。瞳は慌ててペコリとお辞儀をした。
「もう、イヤになっちゃう!」
夏帆は矢継ぎ早に左足を骨折した経緯を事細かに説明した。夏帆は多趣味で、プリザーブドフラワーに精通している傍ら、アウトドア料理も得意で、グランピングの世界でも引っ張りだこだった。料理はもちろん、プリザーブドフラワーを使ったインテリアなどの評判がよく、コーディネートの依頼も増えている。他にも、パドルヨガやトレッキングの経験も豊富だった。
「山で滑落でもしたのかと思うでしょ? 家で階段を踏み外したのよ!」
夏帆は豪快に笑った。
「あ、そのスカーフ!」
瞳は夏帆から貰った草木染のスカーフを首に巻いていた。夏帆が自ら染色したものだった。
「こっちに来て」
夏帆は瞳を手招きした。そしてスカーフに手を伸ばすと、慣れた手つきでアレンジを加えた。
「うん! この方がいい」
クローゼットの鏡を覗くと、首に巻いただけのスカーフがⅭA風のリボン巻きになっていた。
しばらく談笑を楽しんでいたが、夏帆の友人が数名やって来たので瞳は挨拶をして病室を後にした。ナースステーションの看護師に会釈をして立ち去ろうとしたとき、夏帆の大きな笑い声が響いたので瞳はクスッと笑ってしまった。
エレベーターで1階まで降りる。この病院のロビーは明るく開放的だった。土曜日なので閑散としていたが、併設されているコンビニはそれなりに人の出入りがあるようだった。ふと待合室のベンチに目を向けると、そこに桜井の姿があった。そのままやり過ごそうと思案したが、足は桜井の方へと向かっていた。
「こんにちは。先日はお世話になりました」
瞳が挨拶をすると、桜井は「あぁ」と素っ気なく返事をした。
「あら、あなた……」
そのとき、真理子が大きな花束を抱えて現れた。この日は黒のカシミヤのセーターにベージュのワイドパンツ、白いスニーカーとカジュアルなコーディネートだったが、上品でエレガントだった。
「あなたもお見舞い?」
「はい。もう、帰るところですけど」
「そうだ! それなら申し訳ないんだけど、お付き合い願えないかしら?」
真理子の突然の申し出に瞳は目を丸くした。
「社長のお母さまのお見舞いなの。いつも私が同行しているけれど、義務っぽいじゃない? あなたなら、恋人を装ってもおかしくないわ。ねえ?」
「えっと……、その」
瞳は桜井の怪訝な表情に、返答できずにいた。
「いや、いいんだ」
桜井が立ち上がったとき、瞳は思わず「私で良ければ!」と、口走ってしまった。
「どうします? 社長?」
真理子は二人を手玉に取って優越感に浸っていた。社長が断ると高を括っていたからだ。しかし、予想に反してあっさりと話がまとまってしまった。
「それじゃ、コレお願いね」
真理子は手にしていた花束を瞳に押し付け足早に病院を後にしたのだった。
「それじゃ」
「……はい」
瞳は途端に不安でいっぱいになった。安請け合いをしたことを心底後悔していた。しかし、桜井は気にも留めない様子で先を急いだ。
中央のエレベーターを通り越して奥の病棟へ向かっていた。そこは循環器科病棟だった。
「あら、いらっしゃい」
桜井の母・紀子 (のりこ)は、笑顔で二人を歓迎した。
「珍しいこともあるのね。あなたが女の子を連れて来るなんて」
「はじめまして。紺野瞳と申します」
きっと名前なんて覚えていないであろう桜井の心中を察して瞳は自主的に自己紹介をした。
「これ、どうぞ」
真理子から渡された花束を、恐る恐る差し出した。
「あなたが選んでくださったの? とても綺麗だわ! ありがとう」
紀子の屈託のない笑顔に、瞳は心を痛めた。逃げるように花束と花瓶を持って病室を離れると、廊下のシンクで花を生けた。
「よし。こんなもんかな」
カルチャーセンターで華道の先生から手ほどきを受けたことがあったので、それなりには形になった。
病室に戻ってからは紀子がひとり、楽しそうにおしゃべりを続けていた。瞳もそれとなく相槌を打って話を合わせた。
「私ったら……。もう行きなさい。あなたも忙しいんでしょ?」
息子にチラッと視線を送った。
「ほら、楽しんでいらっしゃい」
また会う約束をして、ふたりは病室を後にした。
「悪かったね」
「いえ……」
「送るよ」
桜井は駐車場を指さした。
桜井が運転席のドアを開けたので、瞳は助手席のドアを開こうとした。すると、桜井は一言
「こっち」
と言った。よく見ると、それは国産車ではなく左ハンドルの外国車だった。瞳は急いで桜井の方へ回った。
「すみません」
瞳は赤面した。
車内ではクラシック音楽が流れていた。ピアノ協奏曲だ。
「……」
「えっ?」
瞳は咄嗟に右耳に手をあてた。
「いや、食事でもどうかと……」
「はい。あ、いえ。そんな」
「遠慮しなくていい」
「……はい」
瞳は体を運転席に向け、言葉を聞き漏らさないように努めた。左耳が聞こえないからだ―。