別邸行きの事情(1)
高い山にぐるりと囲まれた村。
村にわりと近く、山の中腹に建てられたさほど大きくはない屋敷――村の家々に比べれば十分大きい――はこの地方を治める領主ダナレイの別邸だ。
とは言うものの、領主やその家族がこの別邸を使うことはダナレイに代替わりする前からなくなって久しい。
現在別邸を管理するのは代官だが、その代官もまた村長の一族に何となく任されていた。長く人の気配のない屋敷なため、熊や動物が入り込んで荒らさぬよう、たまの見回り以外に村長は何もしていない。
もし領主から連絡があれば、すぐに村の衆の手を集め掃除などをするつもりではいる。
領主であるなら、領地を視察し手を入れたり話し合うのも仕事のひとつだが、この村はもうずっと放置されていた。
本来ならば、税を納めるなり兵役に就くなり国、領地と何らかの関わりがあるものだ。だが村にはそれがない。
言葉も金も同じものが普及しているし、定期的に商人が来てあれこれ売買することもある。村人同士は金のやり取りはあまりしない。物々交換や助け合いで成り立っている。
このような古くからある村はダナレイが治める地にも、他の領地でも幾つか点在していた。
彼らは国の民であり、いずれかの領に含まれる領民ではあるが、厳密に言えば国の管理下には置かれていない。
彼らは外には村長より偉そうにする人がいて、村長より偉い王さまがいるということは知っている。
そして村を出てしまえば国という大きなものに組み込まれ、村には戻って来られなくなることも知っていた。
そんな村は昔からの暮らしを守って日々をのんびりと過ごしていた。
畑を耕し、山の恵みで生きていることに感謝する。
言い伝えや掟を大事にし、山神を信仰している。
同じ中だけでは絶えるものだと知っているから、近隣の山などにある同じような村の若者たちを交換して、血を継いでいた。
たまにふらりとやってきた身寄りのない者を迎えることもある。村人として受け入れても、上手く行かず去る者は多い。
そんなある日、村に領主の妻たちと名乗る一行がやって来た。
妻だと言う女はとても美しい少女で、村では見たことのない磨いた牙色の髪を持っていた。
それはこの村においては特別な色で、山神の化身である白鹿のものと同じなために村長は驚いた。
その側に控えるようにいたのは赤茶けた髪のふっくらした体つきの柔和そうな女。
更に護衛二人とその妻子、使用人が数人。
何の連絡もなく訪れた領主の妻たちに、村人たちは目を丸くするしかない。
「……連絡が、ない?」
村長の家の広間に領主の妻であるイリヤと彼女の世話をするための一行を招いた。床に直で座ることに戸惑った様子や文句のないことに村長は安堵し、領主からは何一つ聞いてないことを伝えた。
村長は「うーん」と声を絞り出し、腕を組んで天井を仰いだ。
「そう、代官と名乗るもんが領主さまとやらの書付を持って来るもんなんですが……」
それがない、と唸る。
村長としては、目の前にいる山神の使いをかの屋敷に案内しようと思っているのだが、領主の別邸に人を入れるのは領主の書付がある時という約束事に障る。
何か盗むにしても大したものもない屋敷だし――とたまに入る庭先から覗き見る内部を村長は思い出していた。
「まあ書付があっても儂らには読めませんが。そういうもんだと聞いとりますし、約束事を破るわけにはいかんのでね」
「……あンの性悪」
可愛らしいイリヤの口唇から紡がれた悪辣な言葉に、村長は目を真ん丸に見開いた。
「奥さま」
イリヤの隣に座っていたアロネが、彼女の膝をぽんぽんと優しく叩く。
「困りましたね、こちらのお方は確かに領主ダナレイの奥方イリヤさまです。私たちはこちらの別邸に移動するよう言いつかって、ずいぶん遠い道のりをやって来たのです。とは言え、村長どのも書付がないなら曲げられないのでしょう」
ええ、ええ、分かりますとも、とアロネが微笑んで頷けば、村長は苦笑する。
「書付に関しては必ずお持ちいたしますので、それまではあちらに滞在を許しては頂けませんか? この人数ではお邪魔になりますし、また道を戻るにも今からでは……」
移動の馬車は山に入る前に荷車へと変えた。馬車では山道を行けなかったからだ。荷車に何とか乗ってもらおうとしたがイリヤは断固として断り、皆と共に長い道のりを歩いて来た。おそらく足を痛めているはずで、アロネはそれを心配している。
もし戻れと言われれば、せめて一晩だけでも食い下がるつもりだった。
「それはもう、奥さま方がこんな山奥まで来るのは大変だ。儂としてはお屋敷に移ってもらって構わないんだが……」
村長が言いにくそうに言葉を切る。
「お屋敷はここより上で……山道をだいぶ上がってもらわんと行けんでな、ちょっと休んでいかれた方が良かろう」
その言葉に一行が崩れ落ちたくなるような心持ちになったことは言うまでもない。
はあ、と大きく溜息を吐いたイリヤはここに来ることになったそもそものきっかけ、五年ほど前の事を走馬灯のように思い出していた。
* * * * *
イリヤに与えられた自室で、彼女は実家に近況を知らせる手紙を書いていた。
彼女の意見が全く入っていないこの部屋に愛着などわきそうもない。品物自体は良いために文句のひとつも言えないのが腹立たしい。
領民たちが納めてくれた税や、この地の領主が代々運用してきた資産から出されているのだから。
イリヤは、ペンを置いて頭を上げた。
視線の先にいるアロネは俯き、黙々と手を動かしている。
彼女は文字を書く練習をしていた。こうやって練習していないと読み書きを忘れてしまうので、時々イリヤが教師となって練習している。
イリヤがそれをぼうっと眺めていると、普段は静かな本邸になにやらざわざわと複数の人の声がする。アロネが顔を上げると、同じく不思議に思ったのだろう。イリヤと目が合った。
揉めているのかもしれない。怒鳴り声が聞こえる。
イリヤは顔を顰めてうんざりと言い捨てた。
「……ああ、あいつだわ」
すっかり『あいつ・あれ・あの男』という呼び名が定着したのはイリヤの夫であり領主のダナレイだ。
「何を騒いでいるのやら」
「見てまいりましょうか?」
アロネが声を掛けると、イリヤは首を横にぶんぶん盛大に振った。細い首が折れるのではないかとアロネが心配したその時、扉が大きく開け放たれた。
「お前!!」
怒号と共にドカドカと荒い足音を立てて入ってきたのはやはりダナレイで、真っ赤になった顔と垂れた目が珍しくつり上がり、イリヤを睨み付け悪鬼のごとき様相となっていた。背後には真っ青な顔でこちらを縋るように見る彼の付き人や館の使用人たちがいる。
アロネは男性がここまで怒るのを見たことがないために恐ろしさで身体がすくんだ。イリヤを庇わなければと思いつつも場に縫い止められたように動けない。
イリヤのほうはその様子に驚いたものの、初夜をすっぽかしてからひと月以上。久々に会った妻に対しての第一声が『お前』であることにこちらも非常に腹を立てていた。
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