理解できない事情(2)
ダナレイのあの様子から、イリヤの元へ来ない可能性もあると思い、アロネはショールを用意した。
来ない場合はイリヤに朝まで我慢せず、限界が来る前に自分を呼ぶよう伝えてある。
そのため、アロネははらはらしながら隣室で寝ずの番をしていた。
別室ではダナレイの付き人が控えているはずだが、人の気配はない。
おそらく自室で渋るダナレイを引っ張ってこようとしているのではないだろうか。
イリヤが寝室に入ってからずいぶん経っているのに
人の来る様子が一向にない。
夫婦の寝室とは言っても別々に眠るわけではなく、これからずっと二人は共にこの寝室を使う予定だ。
(まあ、領主さまがそれを素直に受け入れたりは……しないか)
この本邸にはダナレイ曰くの恋人が五人もいるのだから、これまでの状況が続けばイリヤは捨て置かれる可能性が高い。今夜ももしかすると初夜をすっぽかして、恋人――いや妾たちの元に向かったのかもしれない。そう考えが行き着いて、アロネは頭痛がしそうだった。
寝室を挟んで両翼のようにイリヤとダナレイの私室が用意されている。
イリヤがアロネを呼べば、すぐ彼女を温められるよう行火の用意もしてある。
『冬じゃないんだし、初夜だよ? 寒くなりようがない』と行火を用意するよう伝えた使用人たちには言われたけれど、使用人頭のミーナは『そうね、出しておいた方がいいかもしれない』と言ってくれたのだ。
先に寝具に忍ばせておこうかと思ったが、始まった場合邪魔になるし、盛り上がって布が外れ火傷されても困る。そんなことにはならない予感をアロネが抱いているのは置いておいて。
――毛布も準備してある。呼ばれればすぐに私が温めてさしあげますからね、イリヤさま。
アロネはぎゅっ、と鳩尾の前で組んだ両手に力を入れた。
冷たかった寝具は、イリヤの熱を奪って少しは温もりが感じられるようになっていた。
イリヤは元々領地でのびのび過ごしていたので、身分ある女性にありがちな冷え性ではない。ないが、やはり寒ければ冷える。ショールに包まれ、寝具を被りようやく人心地ついた。
たったひと舐めの酒で頭や部分だけ熱いという訳の分からない状況に、イリヤの心に酒は怖いものと刷り込んだ。
「……初夜、すっぽかす気ね。恥をかかせられるとでも思ってるのかしら。恥をかくのはそっちなんだからね!」
ボソボソと言い放つ。温まって疲れが出てきたのか、うとうと、とし始める。
何度か鈍くなる頭を振ったが眠気は取れず、眠いのに起きていようとすることに身体が反発しているのか苛々するのにイリヤは耐えていた。寝具の冷えた場所に移動しようかと思ったが、そこまでして目を覚ますのは何だかダナレイに負けた気になりやめた。
「……ど……でもいい……つか……れ」
イリヤは一人言をゴニョゴニョと口の中で呟いていたが、眠ってしまった。
「……」
イリヤが目を覚ますと、外はずいぶんと明るい様子だった。
一応隣を見たが、誰かいた様子はない。
だが、違和感がある。イリヤは首を傾げて辺りを見回したが変化はない。馴染みのない天井、壁、絨毯に寝具、調度品。窓とカーテン。
ならばと起き上がろうとして理解した。寝巻きを着込んでいたのだ。
「……?」
おや、とまばたきをしていると、寝室に続くイリヤ側の部屋の扉がそっと開いた。
「おはようございます。お声をかける前にお目覚めになられたのですね」
アロネが洗面用具を持って入ってきた。
イリヤに一通り朝の身支度をさせると、そうっとイリヤの手を取った。
「奥さま、ゆうべはお寒かったでしょう」
イリヤの返事を待たず、アロネはほっとしたようにひとつ頷いた。
「余計なこととは思いながら、寝巻きをご用意しましたので、手は冷えておられなくて……良かった」
そして、寝台の足元からごそごそと布包みを取り出す。アロネの用意した行火だ。
「朝食はどうなさいますか? 奥さまのお部屋にご用意しましょうか?」
「……ええ、そうね……そうする」
イリヤはアロネの持った布包みに『あんなものゆうべはあったかしら』と気を取られながらも返事をした。
結局この日から無事十日間が過ぎ、一ヶ月が過ぎてもイリヤの初夜はやってくることはなかった。
イリヤはむしろ清々している。ダナレイはイリヤが怒っているだろうとゲラゲラ笑っている顔が思い浮かんだので、お生憎さまと腹の中で舌を出しておいた。
「私は別にいいもの。放っておかれても困りはしないし」
今日もアロネがせっせと甘酸っぱい果物の皮を手ずから剥いてイリヤの皿に盛る。
「私を虐げているつもりなのかしらね? 夫婦としての繋がりを私が持ちたいと思っているのかしら」
果物をつまみながら、イリヤは肩をすくめて言う。アロネが手を止め顔を上げる。
「奥さまはこのままでよろしいのですか?」
「別に構わない」
アロネはミーナから、身分ある者にとって子供は重要であると習った。だがダナレイは来ない。夫婦の寝室に寄り付かず、妾たちと毎夜戯れている。きちんと彼女たちから丁寧な挨拶があり、イリヤもそれを認めたので正式に妾になった。
ちなみに、一度に五人の妾という王族でも類を見ない前代未聞の申請である。
目を白黒させた太守が書類を持って慌ててやってきたが、運が良いのか悪いのかダナレイは不在だった。天使もかくやな微笑みをたたえ崩さないイリヤが対応し、おほほほほとお上品にかつ高らかに笑いながら『まあ太守さま! 無理ではございません。私のような事情のある者にはこのようにおモテになる男が良いと王さまが! 誂えた結婚ですのよ、おかしなところがございますか? では王さまに! 是非とも。さあ、さあ!』とその場で認め王城に持っていくよう圧をかけたという背景がある。太守が半泣きになりながら王都へと向かったと一部で噂になった。
そんなこととは露知らず、ダナレイは妻にさしたる気遣いを見せることはない。ただ、これまでのように日中、館のあちこちでというわんぱくっぷりは控えたらしく、今のところ庭を散策したり、館のあちこちで女主人として采配し始めたイリヤがうっかりその場に出会すことはない。
だがこれでは到底――。
「私はあいつと子供なんて作れないし作らないの」
アロネの心を読んだようにイリヤが真顔で言う。
「『お願いいたします旦那さま、私と閨を共にしてください』なーんて頭を下げると思ったら大間違いよ! なんであいつに私が譲ってやらないといけないの? 妾を五人も認めたのに?」
イリヤが皿からひょいひょい果物をつまみ、ぱくぱく口に入れる。皿がきれいに空になると、水を張った小さなボウルで指を洗う。
お行儀は悪いが、アロネはそれを注意する気はない。可愛いし、アロネの前以外ではやらないから。アロネは畳んで置いてあった布をイリヤの手元にそっと広げ、水滴を拭う。
口の中の果物がなくなると、イリヤが肘をテーブルについて身を軽く前に出した。つんと細い顎に華奢な指を沿わす。
「私はこれでも場が場なら、王族の公女なの。面倒だなって思うことはあるけれど、プライドがないわけじゃないのよ? あんな男、こちらからお断りよ」
ふふん、と得意気に胸を反らすイリヤを見て、アロネはそうですとも、と大きく頷く。
だが。この数日後、イリヤは領主館本邸から追い出されることになる。