理解できない事情(1)
アロネはひんやりと冷たいイリヤの指先を温めるように手を重ねた。
「こちらでは山の神さまがいらっしゃるようで」
「え、そうなの? 私たちの信じる神さまとは違うの? もしかして神さまって何人もいらっしゃるのかしら」
「私たち民の間では、地方によっては違う神さまがいるんですよ。イリヤさまたちのように身分ある方々が敬われるのは決まった神さまですけれど」
アロネはイリヤさまが信じる神さまには内緒ですからね、と言って微笑んだ。
「それで――その山の神さま、お祝い事がある時は山から下りて来られるんだそうです」
それを聞いてイリヤは小首を傾げた。
「ということは、その山の神さまは結婚式にも来られるのよね?」
「そう……です、ね?」
きょとんとしたアロネに向かって、やはりきょとんとしたイリヤは問いかける。
「悪魔が初夜を迎えた花嫁を連れ去りに来るんでしょう? 山神さまは村の神さまなのに、村人である花嫁を守ってはくれないのかしら」
「あら。確かに……言われてみればそうですね」
うろろろん、うろろろん、と揺られて擦れた金属が奏でる音が遠くに聞こえる。
二人見つめあったまま、その音を聞くとはなしに聞いていた。
先に口を開いたのはイリヤだった。
それも恐る恐るという風に、囁くように小さく。
「……ねえ、山神さまが悪魔なのではなくて?」
「まさか、神さまですよ?」
「山神さまは村の結婚式で幸せそうな花嫁を見初める。初夜で夫を待っていたら、山神さまに山へと連れさられてしまう」
「まあ」
「ねえ、どう?」
「とっても怖いお話になりましたね」
目を丸くするアロネを見て、そうでしょう、とイリヤは満足気に笑んだ。
「……でもそれもすてきじゃない? 好きでもない男から救ってくれる、強い男が現れるの」
「まあ、そりゃあ山神さまがすてきであればいいですけれど……」
これは山神さまに内緒ですよとアロネが言えば、イリヤは声を立てて笑った。
* * * * *
午から夕にかけ結婚式を終えると、主役である花婿花嫁は自分たちが暮らす家へと向かい、両家の親族は教会でお互いの家の繁栄を願う祈りを捧げて解散する。
イリヤたちは本音はともかく夫婦となった。これから領主館本邸に戻れば初夜となる。
本日から十日間はみっちり新婚の儀となり夫婦二人で過ごすと決まっている。客を招いてお披露目などをするのはそれ以降。
湯浴みをした後、夫婦の寝室に入る。
初夜の作法にのっとり、裸のまま寝具に潜り込んだイリヤはその冷たさにぶるりと震えた。
本来は夫が先に寝具に入っていて、ベッドサイドに用意してある醸造酒を妻に注いで二人で飲む。
どこかで嗅いだことのあるお香が焚かれていて、その煙のせいかうすぼんやりとした視界にランプの炎が揺らめく。
日常では見たことのない妖しげなムードにイリヤは緊張していた。
けれどもダナレイはまだ来ておらず、身体は冷える一方で、温まるためにイリヤは指を酒の入ったピッチャーに浸すと、指先の濡れた分だけの酒を舐めた。
「熱っ」
酒が熱いわけではなく、酒精の強さに喉と舌が焼けるように感じただけだが、その刺激でイリヤは顔を顰める。
「どうしよう、かしらね」
日中は汗ばむほどに暑いが、夜は冷える。火を熾すほどではないが裸なため当たり前だが肌寒い。
先ほど酒の触れた指先、喉や胸の辺りはなんとなく熱いが身体全体は温まらず、いっそ勝手に飲んでしまおうかとも思ったがそれも憚られる。
このままだと悪い病になりそう、とイリヤは枕の下に置いてあったショールをもぞもぞと羽織った。
(あいつが来たら隠せばいいよね)
これはアロネが気を利かせて忍ばせてくれたものだ。
イリヤの付き人としてダナレイ――採用したのはミーナだ――が用意したアロネという女性はなかなか仕事が出来そうで安堵した。
花嫁の介添に自分の女たちを用意するような男だから、きっと付き人も性悪だったりイリヤの母を敵視している家の者を呼び込んでいるのだろうとイリヤは覚悟していた。反して介添した女たちは性悪ではなく、むしろきちんとしていたけれども。
アロネはイリヤに優しく微笑み、イリヤに代わって雨に濡れた介添の女たちにも優しく布を手渡していた。
そしてその後付き人になるのだと挨拶を受けた。
アロネの第一印象は悪くない。
おっとり微笑んでいるが、それは本心を仮面で隠すようなものではなく、親しみを感じるものだったし、イリヤに心を砕いている様子だとすぐに分かるものだったから。
イリヤは湯浴みをして、身体と髪を乾かすごく短い時間にアロネの聞き取り調査を開始した。
付き人についてまでは実家の調査結果にはなかった。もしかするとダナレイの妾を狙っているのかもしれない。
妻からすすめてもらうほうが分かりやすく円満に希望が成すことが多いからだ。
閨を苦痛に思う、どうしても相容れないなどの場合、夫好みの女を宛がっておくのは自分の立場を脅かせないようにするためによくあることだと母から習ってきていた。
イリヤは『また最初から妾がいるのか、それも沢山』とげんなりしつつも受け入れているし、何も余計なことは言うまいと思っている。
そしてアロネができれば付き人から妾になるなら、自分の味方であることを誓わせたい。そのための聞き取りだ。
「アロネは私の付き人になるのよね? もしかして領主さまの妾になりたいとかそういう希望がある? あるなら私からすすめたっていうことにしてほしいの。できれば貴女は優しくて信用できそうだから、付き人としても続けてほしいのだけれどどうかしら? あと――」
アロネはイリヤの矢継ぎ早の質問に内心『奥さまは物静かな方かと思いきや、見た目と違って気取らない方なんだ』と驚きながらも素直に答えていった。もちろん妾になる気などないことは最初に伝えた。
「……そう、アロネは民だったの。しかもご主人が病で。それは大変だったわね。子は持ったの?」
「……ええ、男の子を二人。夫の両親が引き取ると申しまして。可愛がって下さってましたし、お願いしてきたんです」
町を出る前にせめて顔でもと最後に見た時、下の子は知らない人を見るような顔で、上の子はよそよそしく。そしてそんな二人に会っても、元気でとは思ったものの、その時はそれ以上の気持ちになれなかった。
お願いしてきたわけではなく、アロネは奪われたのだ。自分の母としての何もかもを。
我が子が可愛くないわけではなかったはずだが、彼らのことを思うとアロネの心と下腹にぽっかり穴があく。それを見ないように蓋をする。親子の絆など生まれなかったし、結ばせてもらえなかった。
アロネは町に捨ててきた気持ちをまた拾い上げてしまって、イリヤの髪に香油を塗りたくりながら腹の中で苦く笑った。
「では、アロネは妻業の先輩ね」
「つまぎょう、ですか?」
「そうよ、今夜が上手く行くコツを知りたいわ」
「……それが……実はですね」
アロネが言葉につまる。
なぜなら彼女は初夜の作法だの何だのというものを全く知らなかった。
彼女の時は、ただ普通に寝巻きに着替えて二人で寝たら隣でごそごそし始めて下を脱がされ――身体に触れられて。痛くてできれば何度もしたいことではなかったな、と捨てたはずのものをまた拾う作業に入る。
「民には初夜の儀がないの?」
「そう、ですね。初夜に順番があり、何をどうするかまでは私も勉強いたしました。ですが、その、その後のアレコレにつきましては私もどうやら経験不足なようでして。教わったことと、経験したことに差があるようなんです」
「……そ、そうなのね。痛みがあると聞いているし男性に任せるものだとは理解しているのだけど、不安で」
イリヤが頬を染め俯く。
結局イリヤの聞き込み調査は、殆どが閨の話になっていた。イリヤより年上で出産経験もあるアロネが戸惑っていることが分かって少し不思議に思いつつも納得した。
(人それぞれとは教えられたけれど、初夜に手順のない民も人それぞれっぽいし、不安になってちゃいけないわね)
こうしてイリヤは優しい付き人に気にせず休むよう伝え、冷えた寝室へと向かったのだった。
イリヤに教えられることなどないに等しいアロネも、初めては確かに半日ほどは痛かったはずだが、叫んだり失神するほどでもなかったことは覚えている。何度か経験しているうちに痛みは感じなくなっていた。良くも楽しくもないものだったが。
アロネの夜の夫婦生活がそんな風だったので、イリヤの場合難しくはないが事に及ぶにあたり作法や順序があると知り、色々と考えた。
まず夜は冷えるのに、湯浴み後に裸で寝具にというのがアロネの中でひとつ大きな問題となる。
身体が冷えて固まるだけではない、初めて身体を暴かれる緊張もある。それを酒の力だけでなんとかしようとする作法って本当に何なのとアロネは溜め息を吐いた。