恋患う事情(1)
山間にある邸に冬の訪れは確実に近付いてきた。
じわじわとゆっくり近付いて来るのではなく、一気に駆け足で。
天候によっては、冷え込み度合いも全く違う。
今日は天気が一日悪そうだ。
山には靄がかっていて、下の様子は全く分からない。
早朝、イリヤは自室の窓から外を眺めていた。
いつもは遠い上にある雲が、まるで下に降りてきたようで、その不思議な光景に見入っていた。
こうして毎日眺めているのに、今のところ飽きることはない。
毎日違う景色が望めることが新鮮だった。
見ている場所は変わらないのに、日々違う色が見える。
自領でも、ダナレイの持つ他の領地でもそうは思わなかった。
様々な色は目に映っているのに、常に一色のような認識だった。
「……違うわね」
――見ている景色を変えてくれた人がいる。
ゲイルの優しい笑顔を思い出して、胸がきゅう、と痛む。
恋すると人はこうなるのか、と新しい発見だった。
今なら恋に狂って周囲が見えない人たちの気持ちも汲める。
これは、夫になるはずだったカイユにも、夫であるはずのダナレイにも生まれなかった感情だ。
今はそれで良かったと思う。
どちらに恋していたとしても辛い想いしかしていなかった。
カイユは自分ではない女を選んで逃げて、ダナレイには最初から自分の入る隙間すらなかった。
ゲイルは彼らと違ってフリーだ。
妻や恋人のように決まった相手がいるわけではない。
今はまだ。
自分の見た目は悪くないと自分で思っている。
幼い頃から両親や侍女たちが褒めそやしてくれていたからだ。
肌が抜けるように白いところ。
柔らかな髪。
高貴な猫のような瞳と顔つき。
薄く形良い小さな唇。
永遠の少女のような清らかさ。
この国の女性が持たない特徴は、幼い頃は仲間外れのようでとても劣等感を煽るものだったけれど、今は自身を他より目立たせるものだと前向きに飲み込んでいる。
この数年、ダナレイに回らされた領地のあちこちで呼ばれた夜会などでも、人妻と分かっていても生まれを知っていてもイリヤを口説いてくる輩はそれなりにいた。
彼らに靡くことはなかったけれど、女としての自信に揺らいでいたので、お世辞混じりの言葉であってもそれで補強することができた。
例え自身の中身がどうであれ、すました仮面を被って真っ直ぐ前を向いて佇み、視線を流すだけで上級の女らしく見せる技も持っている。
でもそれらはゲイルにきっと通用しない。
そういう女が好みならば、彼はとっくに人のものだろう。
おそらく彼が女に求めているのは、仕事への理解と支え。支えには精神的だけでなく、経済的な面もあるはずだ。
綺麗事だけでは世の中やっていけないことなど、知っている。
イリヤはそのどちらも支えていける自信がある。
それにそもそも、初恋はゲイルだった。
当時は優しいお兄さん、という憧れのようなものだったけれど、結婚するならこの人がいいと少女ながら本気で願ったのだ。
その人と偶然再会するなんて、これは運命と呼ぶに相応しい調えられた舞台のようではないか。
もちろん邸にイリヤ以外の女はいる。
けれども皆所帯持ちで、ゲイルにとって対象外だろう。
――アロネ以外は。
アロネも今は独身だけれど、ゲイルをそういう意味で気にしている様子はない。
「……それに」
それにとても嫌な言い方をすれば――身分のある者としての生き方を知っていて寄り添えるのは、やはり同じ身分ある者でないと難しいこともある。
イリヤはアロネを貶めたいわけではない。
どうしてもこの世に生まれた時から生きる場所が違っていたための価値観の相違のようなものだ。
価値観は補えるとするならば、別の言い方で、理解はしても分かりあえない、そういう感覚。
「……」
相手より優位に立とうと考えてしまうことに気付いて恥じ入る。
(アロネに下がってもらっておいて良かった……口に出してしまっていたかもしれない)
アロネの献身を穢したようで、ゲイルを想うのとは別の痛みがある。
心の中に垂れ込めるものは、窓の向こうに見える暗く重い雲のようでイリヤは痛みをこらえるように渋面になると、厚手のガウンを胸元でぎゅっと握った。
* * * * *
「――それはヤキモチですねえ」
ノーラが屈託なく笑う。
その手が遠慮なくイリヤのために置かれた焼き菓子に伸びるのを、シャルがぱしんと軽く叩いて落とす。
「行儀が悪い」
「……はぁい」
「いいのよ、気にしないで食べて。どうせ私たちだけじゃない」
イリヤの言葉で、ノーラはしょんぼりした顔を綻ばせ、やった、と小さく快哉の声を上げると目標に向かってまっしぐらに手を出した。
この小さなお茶会はイリヤが仕事中の二人に、「あなたたちの今日の仕事は終わりよ」と声を掛けたことで急遽始まった。
天気が悪いので、二人ともさほど忙しくない。まあこの邸で忙しいのは来た時の最初だけだったが。
「……一応私たちにも同じものがおやつとして出るんですから」
シャルが苦笑混じりに言う。距離が近いとはいえ一応主従の関係だ。なあなあにしていて良い時もあれば悪い時もある。
これが当たり前になって、他所でやってしまってからでは遅い。線引きは必要、というのがシャルの考えだ。
決して、この優しい主人の好意を無にしたいわけではない。
それも、初恋の相談を茶会と称してこっそり自分たちに打ち明けるなんて少女のようで、なんとも可愛らしいところのある彼女の顔を本当は曇らせたくはないけれども。
それでも許されたので、シャルも相好を崩しノーラと共に相伴することにした。
「ヤキモチ、なのかしら。わりとこう自分勝手な考えに陥ってしまって……それでまた自分が嫌な女になった気がするしで……」
ぼんやりと宙を見つめたイリヤに、シャルとノーラは目を合わせて苦笑する。
この場にアロネを呼んでいないことがもう全てを語っている。
この話題――ゲイルに恋したようだという――がもたらされた時、二人は内心で「やっぱりね」と頷いた。
イリヤの目は正直で、常にゲイルを追っている。
彼と話す時は頬も薔薇色に染まり、身体中で幸せな雰囲気を振り撒いている。
そして一方、アロネを遠ざけているのも丸分かりだった。
これまで二人はべったり、当然離れている時間もあったけれども、日がなべったりというのが自分たちの総意だ。
イリヤがアロネを離さないというよりは、アロネがイリヤの世話を焼きたくて一緒にいるという感じの。
母鳥が雛の面倒を見ているような。
それがゲイルという新顔の男により崩れた。
(女の友情は男で壊れるとは言うけれど)
シャルは困ったようにノーラを見る。
(まあ二人の場合、友情とは違いますからねー)
ノーラは焼き菓子を頬張りながら視線を返す。
(雛が巣立つ時が来たというか――でも問題は)
二人の心の中の声が一致する。
「ゲイルは私をどう思っているかしらね、私としては丁度良いとは思うの……」
(あああ~キタキタ、この話は難しいよう~)
ノーラは口一杯に焼き菓子を入れて、話せませんアピールをする。
――これはハッキリ言えない。
ゲイルが想うのはアロネ――ほぼ、いやきっと、絶対そうだということを。
想いの方向を示す矢印があったとすれば、イリヤ→ゲイル→アロネ、と傍から見ている分では皆一方通行に思える。
シャルをちらりと窺えば、彼女もお茶に口を付けている。
分かっていないのは質の悪いことに当人たちだけで、この邸にいる他の者は皆それを把握している。




