食堂兄弟たちの事情(1)
司祭からの言葉に立ち上がりかけ、手に持ったトレイをひっくり返しそうになった少年は我に返ると、それを脇机に置いてから、なぜかと聞いた。
「そう、ですね。あなたの大元の根っこに頼るべきかと。おじいさんもそう願われてますし」
そう言って司祭はおもむろに彼の隣に腰掛け、ポケットから何かを取り出すとトレイにコロリと無造作に置いた。
「それが何か分かりますか?」
「……分かりません」
ボタンのようなものに見えた。小さくて、某かの模様が彫られていた。
「それは君の血の大元を示す証拠なんです。とっても面倒臭いことになっちゃって、私としては上の人に叱られちゃうんで見なかったことにしたいんですけどね」
「……司祭さまでも叱られるんだ」
少年がそう言うと、司祭は人の良さそうな顔を綻ばせた。
「そうなんですよ、そりゃもう怖い人がいましてね。私もまさかあなたたちが……んんっ、まあそれは今良いでしょう、それは追々。とにかく、おじいさんとおばあさんに関して心配は要りません。教会が力になりますからね」
よく分からないが、教会なら安心だと息を吐いた。
それでようやくトレイに乗せられたスープとパンと野菜と肉を焼いたものに手を伸ばす。
「どうされますか? と言っても、もう決まった道です。進むしかありません。もうひとつあるとすれば、この教会で働くくらいですかね……私が見て見ぬフリが出来たら、なんですけどね。でも私は神には逆らえないんです」
悲しげに微笑む司祭の様子と言葉から少年は察した。
教会に居させては貰えないのだと。
「……じいちゃんは家に帰れますか?」
恐る恐る聞けば、首を横に振られた。
「帰せません」
間髪入れず言われた言葉は帰れないではなく、帰せない。
「もしかして、ばば……ばあちゃんもですか?」
黙って頷く司祭に、嫌な予感がひしひしとやって来て、彼は口に入れようと手に取ったパンを力なく下ろした。
「何か、悪いことをしたんですか?」
誰が、とは聞かなかった。
祖母が何かしたなら分かると思ってしまった自分に嫌気がさす。司祭は彼の頭をそうっと撫でた。
「そうですね、悪いことではあったでしょうが、まあ同情の余地もありますし……詳しく聞きたいですか? 聞けばあなたのあちらでの待遇が変わってしまいますが耐えられますか?」
「たいぐう?」
「私が思わせ振りなことで、教えてほしいと苛々しているかもしれません。でも知ってしまえば私はあなたが自身の血を知っているということを然るべき方々に伝えなくてはなりません。知らなければあなたはあちらで現在のあなたのまま……そうですね、例えば下働きのような仕事をしたり恋をしたり、そこそこの自由があると思います」
自身の血、と彼は呟く。
それはもう言っているのと同じなのでは、と思う。
「私はハッキリと言ったわけではないのでね。見て見ぬフリは出来ませんが、言ってないことを言ったとは言えません」
司祭は真面目な顔で彼を見つめて言葉を続けた。
「もしかすると知ってしまうことで、厳しい教育を受け、歴史に残る書物に名を連ねることになるのかもしれない。けれどね、ただ名に与えられる栄誉から来る贅沢に何もせずに溺れることは許されないんです。特にあなた方兄弟は」
敏い子だ、と頭を撫でられて、彼は父を思い出した。
「あなたの選ぶどちらの道も幼い弟が道連れです。彼の未来がどうなっても、真実を知った時に恨まれるのはあなたかもしれない。もっと自由でいたかったと言われるのかもしれないし、もっと贅沢したかったと言われるのかもしれない」
「弟の……」
「迷わせてあげたいのですが、時間の猶予はありません。それにあなたのおばあさんを放っておくわけには行きませんし。もっと早くに知れればよかったのですが、おじいさんはあなたたちを遺して逝くことが心残りなんでしょう……この先、お二人を許してさしあげてください」
「……司祭さま、俺は――」
少年は迷わず答える。
* * * * *
国境地の領主宛に密書が届いた。
密書と言っても表向き堂々としたもの。
たまに届くそれは、印章の違いによって恐ろしく身分の高い者と分かる時もあれば、元高貴な身で現在は一地方領主として不気味なほど静かに過ごしている者からの時もある。
同一人物であるのに受け取り開けた時の緊張感が全く違う。今回は後者だった。
国境地領主であるグレイは、その密書を読みながらノックの形で執務机を激しく、それはもう手指の関節が潰れんばかりの勢いで叩いていた。
グレイの多くいた兄弟の中で、現在一人だけ生き延びている実弟のブレアは直立不動、口を真一文字に閉じたまま、彼の眉間に深く皺が刻まれていくのを見つめている。
「……クソが!!」
「兄さん」
「これを読んでみろ! すまし顔でいられるものか!」
ブレアは足元に投げつけられたそれをすぐに拾って読み始める。
紙が薄く三枚重ねになっていて、それぞれを外し、指定された順で読むことで本来の意味が見える凝った仕掛けになっているものだ。
グレイが先に読んでいるので、ブレアに紙を剥がす手間はないが順通りに読むにはやや時間を食う。
なんとか読み進めて表情には出さないが、うんざりした。兄の気苦労がまた増えるのだ。
「……甥が二人もいた! しかも知らないうちに異母弟がいて死んでいただと! ハハハハッ!」
グレイが己自身を嘲笑う。
だが、事情を知らなくても仕方ない、当時自分たちはまだまだ子供だったのだからとブレアは兄に言ってやりたいが、それで納得する簡単な男ではないことを知っているから黙っている。
責任感の塊のような男、神経質なほど己の行動や周囲を見るようになったのは父を反面教師としたからだ。
二人の父は愛妻家で名高かったが、一度の失敗で身を持ち崩した。
ブレアとしては一度くらいの浮気ならという気持ちが実際あるものの、父はその一度の度が通常考えられないほどに超えてしまったことを知っているので、恐らくそういう機会があったとしても行くことはない。
だから彼は現在も独身を貫いている。自身の血を信じることが出来ないからだ。
浮気相手の娼婦を使用人として家に雇い入れ、二人の間に出来た娘を腹違いの妹と伝えずに彼ら兄弟と母に紹介した。
母は男子しかいない領主邸に可愛らしい女の子が来たことを喜び、殊の外可愛がった。
更に浮気相手がしおらしく父に願って、娘を養子にしてくれと言い、それはすんなりと叶えられた。
血が繋がっているのだから、養子になるのは百歩譲っていいだろう。
だが、母が全てを知っているのと知らなくてでは天と地ほどの開きの差がある。
しかも真実を知ったのは、フィオが何をとち狂ったか、グレイとブレア以外の兄弟とこの国の王太子を巻き込んで、この地に混乱を巻き起こしたせいだ。
そのせいで五人いた兄弟は次男のグレイ、五男で末っ子のブレア以外皆死んでしまった。
表向きは流行り病を得て死んだことになっているが、この地で見ていた者は皆知っている。
箝口令を敷いたことで黙らせているだけだ。
母は狂乱したし、父は引責して領主を退いた。
グレイとブレアからすれば逃げた、が正しいが。
それでも半分は血の繋がった妹だ。
どれだけ腹立たしくあっても、もう養子として籍にも入ってしまっている。
しかも当時の王太子、現在の国王が『愛する人』と呼んで憚らないため、二人の兄弟たちのように簡単に『病を得た』と処分も出来ない。
彼らの異母姉妹であり兄弟の仇でもあるその憎きフィオ――現在は国王から名を与えられフィオーレと改めているが、彼女は父の実の子ではなかったと密書に記してあったのだ。
グレイが自嘲で高笑いするのも仕方ない。
元々、父――前国境地領主の子飼の部下であった男が、とある娼婦に入れ込んでいた。
その娼婦はある日前後不覚に酔った前領主と一晩共にして子を宿した。
娼婦は元々月のものもまちまちで、妊娠していることに気付かず、太ってきたなと思い込んでいた。
いよいよおかしいと思った時には手遅れで、産むしかなかった。
それを哀れに思った、事情を全て知る前領主の部下が女と子供を連れてこの街を出た――だけなら良くある話かもしれない。
問題は途中にある。
娼婦と領主を出逢わせた何者かがいて、全て仕組まれていたということだ。
領主と寝たのは娼婦。
フィオーレの生母である女ではない。
領主が目覚めた時に隣にいたのは女で娼婦ではない。
手引きしたのが、部下である男だった。
彼は娼婦に頼まれた。
「領主さまを慕っている、一晩だけ」と泣きつかれた。
惚れた弱みだった。元々娼婦だと理解していたし、敬愛する領主となら、と一晩の願いくらい我慢できた。
だが、彼もまさかその裏にまだ何かあったと思わなかったのだ。
読んでくださってありがとうございます。
お盆ですね
皆様にとって有意義な夏休みでありますよう
※不定期投稿中です(。-人-。)