捨てさせた側の事情(2)
あーちゃん、と彼は祖母をそう呼んでいる。
兄もそう呼んでいたし、祖母も自分を『あーちゃん』と呼びなさいと言うので何の疑問も抱かずそう呼んでいた。
だから彼の中では彼女は祖母でも母でもなく、『あーちゃん』という存在だと認識していた。父も母もいたらしいが記憶にない。
そして彼の六つ歳の離れた兄。嫌いではないが、いつも不機嫌で怖くて苦手だった。
祖父は兄と共に一日中店にいて――兄弟の父が亡くなった後に、店の近くにある父が住んでいた家に戻った――ほとんどいない。
なので、祖母と一日中共にいるのは彼だけ。
下の世話も何もかも彼に任された仕事なので、嫌だと思いつつも日常であったのでやっていた。
そして、なぜ自分だけという気持ちに駆られる。
特に今日のような日は。
けれど、祖母はずっと彼ら兄弟を育ててくれた人で見捨てるわけにはいかないし、もしここで自分が仕事を放り出して遊びに行けば、祖母は泣いて責めるだろうし、怖い兄と祖父からも叱られる。
家を出てしまおうかと何度も思うけれども、それは彼の妄想の中だけで、現実には出来ないのだと分かっていたのでその気はない。
第一、ここを出たとして行く宛も頼る先もない。
しかも外には子供を拐う人買いや悪魔や、彼の父を殺した病気を持つ者がうようよしているのだと祖母から脅されてもいた。
勝手に外に出れば、父のように土の中に埋められて何も食べさせてもらえず、一人きりで寂しく閉じ込められていなければならないのだ。
祖母はそれを「ひどくて可哀想」だと泣きながら言っていた。
彼女にとって父は一人きりの子供。
自分たち兄弟のことは父の子供で実の孫だからとても愛しているのだと言う。
そして、その父を冷たい土の中に送るきっかけになった女をとても大嫌いで恨んでいるのだと言っていた。
「ちっちゃい頃はあの子にそっくりだったのに、大きくなるにつれてあの女に似てきて、ほんと嫌だ!」
祖母は兄の顔を見た後、必ずそう言って寝台を拳で力任せにバンバン叩いてずっと恨み辛みを吐き続ける。
それでしばらくすると彼を呼んで、抱き締めて頭を撫で回す。
もっと小さな頃はそれが嬉しかったが、近頃は気持ち悪いしひどく臭いしで、やめてほしいなと心の底で願っていた。
『あの女』と祖母の間に何の確執があったかは知らないが、兄はそのせいで祖母から嫌われているようだった。
それでなのか、弟だけで済む用事もあえて忙しい時間帯の兄を呼びつけているフシがあった。
兄を庇えば弟に癇癪を向けるので(わざと尿を垂れ流すこともある)、弟は言われるままに兄を仕事場へと呼びに向かう。
それは今日という安息日も、だ。
家は店の真裏にあって、通りを出る必要がない。
通りは安息日だからか、普段の人通りとは違って、家の手伝いをしている子供たちが走り回って楽しげにはしゃいでいる声がよく聞こえた。
安息日は本来なら仕事は休みだが、宿舎に客がいれば店を食堂代わりに使うし、安息日だからこそ昼から飲み食いに来る客がいるので開けている。
それで祖父と兄は仕込みで店に行っていて、祖母は何が気に食わないのか仕事中の兄を何度も弟に呼びに行かせた。
祖父ではなく、兄をというところが彼女の狡いところ。
祖母が祖父に実は何度も叱られていることを彼は知っている。
特に祖父の仕事の手伝いをして忙しい時間帯を狙ってああだこうだと理由をつけて呼ぶからだ。
兄も彼も祖母の言うことを守ることは身に付いてしまっていて、なんだかんだ文句を言いつつ従ってしまう。
彼ははあ、と溜め息を零して通りに視線を向けた。
途端、後ろから走ってきた兄が酷く慌てた様子で「おい!」と声を掛けられ身が竦んだ。
* * * * *
「じいちゃん!」
鍋と中に入っていた食材がいくつかひっくり返っていて、その中に彼の祖父が倒れていた。
苦しそうな顔で、息も荒い。
このところ、身体が辛いと言っていた。
だから彼は『まさか』と思った。
まさか祖父まで自分たちを置いていってしまうのか、と。
寡黙だったが優しい父、関わることのなかったせいでこの家を出て行くことになった母、そして厳しいが彼を思いやってくれていた祖父。
祖母の理不尽な我儘に振り回されている彼を守ってくれる唯一の人。
この人がいなくなったら、自分はもしかしたら――。
「――お前、あれを連れて、ここを、出ていけ」
荒い息の合間を縫って、祖父は彼にそう伝えた。
「……な! じいちゃん置いて行けるわけないだろ!? 教会に行こう!」
平民の間では薬を調合する薬屋がいるが、病になったら司祭を頼る。
教会に常駐の医者がいる。それなりのお布施を支払うことで診て貰えた。
「……これ、を、司祭、に、お前に、は、店の、棚の二段、目……」
祖父は自分の腰に提げた袋を手で示した後、顔を歪ませながら呟いた。
途中から呂律がうまく回っておらず、祖父の言うことはほぼ何となくしか聞き取れなかったが、とにかく司祭の元へ連れて走ることにした。
その前に弟に伝えなければと思って、彼はまだ近くにいるであろう弟を追う。
「おい!」
彼が声を掛ければ、弟の肩が激しく揺れた。
石塀の向こう側を見つめたままの彼はどれくらいそこでぼんやりしていたのか。
兄から見て、どこか抜けたところのある弟は青い顔で跳び跳ねるように振り返った。
それに眉根を顰めながら言う。
「ばばあに、じいちゃんが倒れたって伝えろ。俺はじいちゃんを教会に連れて行く。今日は店出来ねえから、宿舎のおかみさんにそう伝えろ、分かったか? 分かったな、なら行くから!」
まだどこかぼんやりしているような弟が、おずおず頷くのを見て、兄は来た道を戻る。
大した距離じゃないのに、とても長い道のりを走ってきたような気持ちになった。
心と身体が離れているような、妙な具合。
しっかりしろ、と内心で自身を叱咤して彼は祖父の元へ行く。
祖父は最近物を落とすことが増えた。手が震え出すのだ。目も見えにくいと零していた。
でもそれは年寄りによくあることらしいと気にしていなかった。
彼にとって、兄弟にとって生活の、心の支えとなっている人だ。
重い祖父の身体を背負って、引きずるように教会へ向かう。
安息日に誰か呼んで手を借りるより、自分がそうして走った方が早いと思ったからだ。
教会への道を無心でひたすら走り通し、着いた時には何も考えられなくて、自分の上がった息しか聞こえなかった。
司祭や教会にいる手伝いの女たちに何か聞かれて答えたが、もう曖昧だ。
器に水を貰ったまま、ぼうっと座っていた。
着いてすぐ司祭に祖父の袋を渡したが、受け取って、中を確認していた気がする。
だから祖父の言いつけのひとつは守れたかな、とぼんやり思う。
(じいちゃんがいなくなったら困る)
と、彼は思った。
彼にはまだ九歳の弟と、足腰立たない祖母がいる。それを世話しながら食堂もやるということは中々難しいだろう。調理は出来なくもないが、現状を維持していく自信がない。
自分勝手かもしれないけれど、家族の情よりもそちらが先に来てしまって自己嫌悪でげんなりした。
このままで、将来嫁の来手もあるか分からない。
あったとして出て行かれたら――母の顔がふと過った。
今は母より祖父だ、と思い直して頭を小さく振る。
外はもう暗い。
安息日だが、教会はその扉を閉ざさない。
彼が今いるのは祈りの間ではなく馴染みのない場所、教会に住んでいる人たちが寝起きする場の一角だった。
司祭がランプと簡単な食事の乗ったトレイを手に彼の元を訪れた時には、外には星が瞬いていた。
「大丈夫ですか? 食べられますか?」
父ほどの年齢の司祭に言われ、小さく頷いてトレイを受け取る。
「……じいちゃんは、どうですか」
背中越しに祖父の身体が痙攣していたことも、嘔吐していたこともまだ覚えている。
ここに連れてこられたのはその汚れを拭うためもあった。着ているものは教会に住む者に与えられる簡単な袍服だ。
着替えてもまだ背中に祖父の重みと震えがあって、その命が消えそうな不安がそこにずしりとのし掛かっている気がする。
「……とりあえずは山場は越えられました。後はおじいさんの気力次第です――が」
ホッとしたのも束の間、祖父に何が起きたのだろうと訝しげに顔を上げた彼に、司祭は困ったように微笑んだ。
「……君たちには遠い場所に行ってもらわねばなりません」




