人には人の事情(2)
まるで子供のように泣いていたゲイル。
大人に戻った彼の動きを目で追う。
アロネより細いこの痩せた身体のどこから力が出るのか、これが男と女の力の違いなのかとアロネは内心で感嘆する。
ハンドルはゲイルが一人で回している状態になっていたが、ワゴンはもう厨房に降りたようだ。
アロネは手を添えただけ。
(うん? そういえば何だか変な感じ?)
はたと思い当たり、ゲイルの顔をまじまじと見る。
目は合わない。
「あの、どうして、私への言葉づかいが……」
丁寧になっているのか? と聞こうとすると、ゲイルはじゃあと言って踵を返す。
「え、あっ、ありがとうございます!」
慌てて礼を述べれば、
「……冷やしてダメなら、温めるといいかと」
自分の目元を指で軽く叩いて去っていくゲイルの背を見送る。
昨晩の出来事のせいか、お互い意識しすぎているのかもしれない。
だが、とりあえずは――。
「……よし、湯浴みはしてくれたみたいね」
立ち去ったゲイルの残り香は昨晩彼使った花油の香りだった。
「面白いことになってるね、アロネさん」
付近を掃除していたらしいノーラがひょっこり現れ、昇降機室から出ようとしたアロネを驚かせる。
「……び、びっくりした!」
「あの人いいオトコじゃない?」
「格好良いのはそうかもね、でも面白いことって何が?」
透けるような茶色の瞳を輝かせるノーラはダナレイの妾の内の一人だった。
五人いた妾たちの中で一番年若く、イリヤとは同い年で、アロネにすぐ懐いたのも彼女だ。
侍女よりも付き人のほうが使用人として格上だが、身分のないアロネと低位でも身分のある彼女たちは、表面上の立場は逆転している状態。
けれども、平民であるアロネのことを馬鹿にしたり、下に見てあれこれ命じることもない。これは辞めていった者も含め元妾たち皆に共通している。
「んー、アロネさんとあの男前よ」
ノーラは手に持った羽ぼうきでパタパタ辺りを叩きながら言う。
「……そんな面白がられることはないと思うけど?」
「アロネはにぶちんだからなあ~。覚えてる? 何年か前にアロネさんを巡ってオトコたちの熾烈な闘いがあったことを……!」
「私を巡った闘いなんてないし、あれは勘違いと誤解があったせいだって」
まだ妾たち全員がいた頃の別邸での出来事だ。
アロネは三人の男性からほぼ同時期に恋人として、結婚相手として、妾としてどうかと言い寄られたことがあった。
今でこそ笑い話だが、当時は大変だったと彼女は思い出して苦笑する。
思わせ振りな態度を取ったつもりはなかったが、相手は低位でも身分のある男性たちだったのが良くなかったというのが、後々ではあるもののイリヤを含めた周囲の感想だ。
アロネはどうしても平民の癖が抜けない。
下手すれば平民言葉を使ってしまうが、なるべく耐えている。ちなみにイリヤは気にしておらず、自ら率先して使ってしまうことが多々ある。
本邸や客人の多かった別邸にいた頃ならば気が抜けなかったため、アロネも自分自身を強く戒めていた。
そのせいでおっとりとした話し方になっていたため、元妾たちはアロネに甘えるようになっていたし、アロネは包容力のある優しい人物だと認識している。
とにかくアロネは遠回しな言葉や作法に疎い。
しかも領主夫人の――遠い国の王女を母に持つイリヤの付き人ということは、それなりの身分ある家の娘であると見なされることが常だった。
まして普段おっとりとしていたのも手伝った。ミーナの詰め込み教育の賜物だろう、上手く猫を被っていた。
イリヤが短気を隠そうともしないのとは逆に、何事にも動じず落ち着いた雰囲気を持ち、イリヤを甲斐甲斐しく世話して慎ましく控える態度(付き人として当たり前だが)。
それが災いして男性たちの目が狂って非常に良く映った――とアロネは思っている。
彼らに口説かれていても遠回し過ぎて分からない。
大きな花束をどうか受け取ってくれと捧げられ、どこかで見た花だなと思いつつ素直に喜んで受け取って――この国では夜を共にしませんか? の意味だとも知らず。
どこかで嗅いだ記憶のある香りの酒を飲みましょうと贈られれば、皆で頂きますと答え、相手は変な顔をした後に真っ赤になって固まって――初夜の晩に用意する特別な酒だと忘れていた。
これは私と妻からですと言われ差し出された木製の高価な石の填まった指輪は、見覚えがあるなと思いつつもさすがにそれは受け取れませんと断った。
木製の指輪は愛人や妾の印だ。見覚えがあって当たり前だった。元妾たちの指にも輝いていたことがあったと思い出した時には膝から崩れ落ちた。
様子を面白がっていたイリヤと元妾――現在の侍女たちも、さすがに男三人もが勘違いし始めたとなると慌てた。
平民でも遠回しな言い方をすることはあるが――主に嫌味や悪口で――身分ある者たちのそれとは違う。
贈られたものにはそれぞれ意味があるのだと教えられ、アロネは顔色を失くした。
当然アロネにその気はない。
それで改めてそれぞれにその気がないこと、悪気なく受け取ってしまったこと、自分は平民であることを告げた。
男たちは多少後を引いて揉めたようだが、アロネはイリヤの側を離れる気がなく、皆諦めるしかない。
「……あれが人生初で最後のモテ期だったわ」
「勘違いと誤解だけじゃないと思うけど……そーゆーとこよね。それで? あの人とはこの先がありそ?」
聞かれたアロネは、ん? とノーラに向かって小首を傾げる。
「この先? ……えと、それはない、かな」
ふと思い出したのは昨夜のゲイルの腕の強さと温もり。
あんな風に男性から優しく抱き留められたのも、慰められたことも、目が覚めてから気恥ずかしさに悶えたのも初めてだった。
何もなかったがアロネの警戒心は仕事をせず、彼の温かい手のひらが背を往復する度に涙が溢れて大変だった。
相手を拒むどころか受け入れ頼っていた。
ない、と言ってしまったことにアロネはわずかな惜しみを感じた。
「イリヤさまの客人だし、あの方はご縁のある方だっていうんだから」
心に小さな澱が沈んだ気がした。それを振り切るように明るい口調で言えば、ノーラがそれもそうねと相槌を返す。
「でも色っぽいって感じじゃないんだよね、奥さまとは食堂でも何だかおっもい話をしてたよ」
「……まあ、ゲイルさんは長い間迷子になってたようだし」
ノーラが迷子、と繰り返すと吹き出して笑った。
「自分も結構な人生歩んでる自覚はあったけど、奥さまとアロネさんも大概だなって。昨日奥さまたちが話してたことは私たちそんなに聞いてないけど、奥さまとっても怒ってたからあの色男にも余程のことがあったんだろうなと思う。私なんかこれまでの人生、雨風しのげる上に、食うに困らない寝るのもいい寝具でさ。大した事でもないのに本邸での暮らしは辛かったなって思っちゃって恥ずかしい……」
「……そう……でもそういう苦労とか不幸? のようなものって人それぞれ違うじゃない? 誰が一番辛いとかないと思う。ノーラの苦労は想像しかできないから分からないけど、辛くないってことはないじゃない。他人と比べて頑張れるなら『まだまだ大丈夫』でやればいいけど、本当に苦しいときは自分が一番辛いって甘やかしていいんじゃないかな?」
「……アロネさ~ん」
ふにゃーと猫の仔みたいな声を出して抱きついてきたノーラに苦笑しつつ、腕を回して背中をぽんぽんとあやしてやる。
「……大したことないなんて言わないで。お妾さんは主と妻を陰で支える大変な仕事だもの、恥じなくていいわ。ノーラが今幸せで、だからこそ過去を後悔してるんだと思う。でもね、そういう過去があったから今の旦那さんと出会えたんじゃないかしら」
その言葉を聞いたノーラは、彼女のふくよかな胸に抱かれながら何やらふにゃふにゃ言っていたが、アロネは聞こえない振りをしてあげた。




