人には人の事情(1)
今現在、イリヤの真剣な眼差しはアロネの手元へと真っ直ぐ注がれていた。
朝食に添えられた果実をいつものように、いつもと全く顔つきの違うアロネが剥いている。
普段より手際が拙いので、やはり目が見えにくいのだろう。しかも今日は小さなナイフを持っている。イリヤの心は不安で一杯だ。
「……ねえ、アロネ。自分でやるから」
「いえいえ、イリヤさまのお手が汚れてしまいます。これは私の仕事ですし……」
「ああ! そうねうんうん。分かってる分かってる。だけどこのままじゃティータイムになってしまうかもよ」
イリヤは感情のこもらない棒読みでそう言うと、四つにカットされたイチジクと呼ばれる果実を動きが止まったアロネの手から奪い取る。
ほぼ皮は剥かれているが、完熟しているものは皮ごと食べても良いと村人から聞いて知っている。
「これすごい見た目よねえ。よくパイの中にお肉と入ってるのは食べるけど、こんな格好してたのね。アケビっていうのも虫っぽくてすごかったけど。イチジクってこう、怪物の口の中みたくない?」
美味しいんだけどね、とイリヤはかぶりつく。アロネがその行動を咎めないと知った上での振る舞いだ。
「言われると、まあ、確かにこう……」
二つ割りにしたものをチラリとアロネは見る。
中が熟れ少し空洞になっていて、つぶつぶしているところは歯のようにも見える。確かに得体の知れない怪物が大きく口を開けているように――アロネは頭をぶんぶんと大きく振った。
「食べられなくなってしまいますよ」
「そう? 美味しいわよ、この怪物。こんなに美味しかったら生きていけないわね、乱獲されちゃう」
くすくすと笑ってイチジクを摘まむイリヤにアロネは肩を竦めた。
イリヤは山に囲まれたこの村に来て、自分が口にしたものの本当の形に触れることが多くなった。
領地では領民と触れあうことは多かったが、それでも本来の姿形を知っているのはリンゴや梨、オレンジに葡萄やベリーなどの果実酒や蒸留酒になるものぐらいだ。
イリヤの育った領地は内陸地だ。
ゲイルやカイユの家は海を抱えているが、隣合う領地であっても領民は海を見たことがない者が殆どだろう。
そのイリヤの生家の治める領地は北寄り。
そのためダナレイの領地よりは比較的寒さが穏やかだ。雪もあまり積もらない。
そのさらに北にある遠い国とこの国は海を挟んでいる。
元々ひとつの国だったので陸続きではあるものの、海沿いに陸路を行くのはやはり険しい道となる。しかもその道の途中からは間の国の領地となるので、イリヤの母たちは海を渡ってやって来た。
「……そういえば母の国にね、ザクロっていう果実があるのよ。アロネに食べさせてあげたいわ。昔はよく食べたんだけどね。つぶつぶしてて甘くて美味しいの。本当は間の国の名産なんですって」
イリヤが何歳の頃までだったろう。
数年に一度、遠い国からティシアへと贈られてくる荷があった。
いつの間にか届かなくなったが、その中のひとつにザクロの果実が詰められている箱があった。傷んでしまわないように未熟なまま運ばれるが、熟すのは一部しかない。残りは未熟なまま傷んでいく。
イリヤの母ティシアが切ない顔でザクロを見つめていたことは覚えている。
ティシアからそれの食べ方を教わった際、もしこの国に生っていても絶対皮ごと食べてはいけないと注意されたことを思い出した。
それをアロネに言えば、アロネはうんうんと頷く。
「……ですから皮ごとはよくありませんよ、イリヤさま」
「村の人たちが平気だって言うんだからいいじゃないの。薮蛇だったわ!」
二人は笑い合う。
(なあんだ、いつも通りのアロネじゃないの)
自分の中の違和感に舌を出し、イリヤはイチジクを二個ぺろりと平らげ、アロネに苦笑された。
* * * * *
イリヤは朝食を自室で取る。その後片付けを終えたアロネは食器を乗せたワゴンをややぼんやりしながら押していた。
今日は特に予定はない。いや、普段からそんなものはない。アロネに仕事らしい仕事がないのはイリヤに予定がないからだ。昨日が特別だっただけ。
アロネはイリヤの付き人という位置にあるが、朝から晩まで一緒というのは本人が望まない限りない。
多くの身分ある女性と違い、イリヤは身の回りのことは自分でしたがったし、ある程度出来ることも多い。
遠い国の王女を母に持つイリヤだが、その母も生国では侍女や付き人がいても自分で出来ることは自分でする。あちらの国にはそんな習慣があり、母からそのように育てられてきたのだと言う。
だから付き人を募集したのも遅く、人を見る目がないから人選を間違えたのだろうと笑っていた。
高位身分にありがちな心身を懸けて忠義を全うするような人材を育てるならば、イリヤが生まれた時かもっと幼い時に選りすぐって付けるものだという。
そうしなかった時点で、両親はイリヤをのびのびと育てようとしていたのだろうし(領民と領都内を遊び回るのもそうだが)、結婚相手が幼馴染みで隣領の後継者になったことで慌てて探したのだろう。
相手は気心が知れる付き合いをしているとはいえ高位身分の家。使用人は家具であり嫁入り道具のひとつ。
婚約時代から裏でイリヤがダナレイについて、父の伝手を使って淡々と調査していたことを知ったアロネとしては、イリヤがここに来る原因となった元婚約者の駆け落ちで、一緒に逃げたイリヤの付き人の女性を調査しきれなかったということが実は信じられなかった。
そうイリヤに言ったことはあるが「いや普通に調査漏れはあるわよ? 遠回しに調べるのだから、間違った情報だったり大袈裟に報告されることもあるから。私も父も努力するし、謙遜じゃなく有能ってわけじゃないの。父なんて結構抜けててぽやぽやしてる人だし。父に昔から仕えてる使用人たちも人が好くてニコニコしてる人たちばっかり。父が使ってる調査員だってそうだと思う。じゃなきゃ対象の周囲に溶け込めないもの」と語っていた。
そんなことを考えながら、下の厨房に降ろすための昇降機を動かす巻上機に手を掛ける。
扉を開けてワゴンを押し込み、巻上機の大きなハンドルを回す。滑車に付けられた太いロープが動き出す。
結構な重労働で気は抜けない。
ハンドルから手が離れれば、ワゴンと食器は落下して滅茶苦茶になってしまう。
アロネが力を掛けてゆっくり回していると、急に軽くなった。
「……ゲイルさん」
隣を見ればゲイルがハンドルを持っている。
ここは客人が来て良い場所じゃないんだけど、とアロネはまずそれを思った。
イリヤの私室がある二階は男性と客人は当然だが立ち入り禁止となっている。
ここは二階。そして使用人が作業をする場所になぜいるのだとアロネが無の表情になるのも致し方ないだろう。
「……おはようございます、そしてありがとうございます。ですが、これは使用人の仕事なので――」
「おはようございます、でも俺に身分はないので」
手伝わなくて良い、と伝える前に挫かれる。
「――それはそうなんでしょうけど」
今はイリヤの客人だ。
「残念ですが諦めて下さい。それより、その顔。だいぶ大変なことになっちゃってますが……大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。本当に昨晩は失礼してしまって……」
残念だが諦めろとは何をだ、と心の中で突っ込みながらアロネは自分の失態を改めて恥じた。
泣いて泣いて、我に返った時にはゲイルに抱き締められていた。
その時点でずいぶん顔が重かったが、自分のことより現状だ。皿やカップは適当に洗い桶に突っ込んで片付け、逃げるようにして自室へと戻ったのだった。
あんなに泣いたのはいつぶりだろうかと考えるほどに泣いた。
昨晩のアロネは、これまであえて忘れようとして塞き止めていたものを決壊させてしまった。
ゲイルも浴室で泣きじゃくっていたので、それが伝染てしまったのかもしれない。
本年も宜しくお願いします
色々あって自分も周囲も落ち着きません
皆様にとって実り多い年でありますよう
今年はさらにゆっくりペースです┏(ε:)و ̑̑
たくさんある中から見つけて読んで頂きありがとうございます。
©️2024-桜江




