イリヤの事情(2)
イリヤの父は妻の怒りを見て戦になるかもね、と冗談交じりに苦笑していたが、それとなく水面下であちらとは話し合ったようで、どう収めようかと苦心していた。
そんな穏やかな父が、今回のことでイリヤに悪い噂が立つと『王の取り巻きが悪いのだから釘を刺しに行ってくる』と言って、渋い顔で王都へと旅立った。そして一月ほどして戻ってくると、困惑した様子で次の婚約者が決まったとイリヤに伝えてきた。
「とうさま? いくらなんでも早すぎやしませんか?」
「王が慌ててね。少しばかり歳の差はあるが、見合う男がいるらしい」
イリヤは内心ホントかしら、と疑った。多分父も本音は自分と同じだろうと彼女は踏んでいる。
イリヤの母は自国から良い縁談を都合して貰うつもりだったので、その目元を険しくする。
「ろくでもなかったらどうしてやりましょう」
「そのときは帰ってくればいい。離縁できなくとも別居すれば良いのだから」
ちなみにこの国とその周辺国の身分あるものたちに信仰されている宗教では、基本的に離縁を禁止している。
例外はある。血族でない結婚相手が家を乗っ取ろうとしたであるとか、犯罪者である場合など極端なものだ。だから、相手の暴力が酷く命を落としかねないとか、どうしても一緒に暮らせないなどの時は離縁でなく別居を推奨される。
だからイリヤは憂鬱なのだ。逃げた婚約者は暴力的でもなく、犯罪者でもない。
優しいとも違う、なんと言うか害にも利にもならないような、そんな青年であったのだ。だからこそのんびりと気を使わずに暮らせると。知らない人ではないから。知らない人はイリヤにとって良くない嫌な人かもしれないのだから。簡単には逃げられない。
だが決まったものは仕方がない。できれば次はイリヤも好きになれるような、そんな人ならいいなと彼女は願った。
だというのに。顔合わせした瞬間、残念ながら新たな婚約者は好きになれなさそうだと分かり、彼女はひどくがっかりした。
新たな婚約者であるダナレイは顔合わせにやってきた時点で不服そうな態度を隠しもしない。一応自分たちの間はこの国の王さまが取り持っているにも関わらず。
眉を顰めてイリヤを頭の先から足の先まで何度も頭を上下に動かし下品に眺め、鼻を鳴らす。イリヤは自分が何かしら値打ちを探られる商品のようだ、と心の中で思った。
ダナレイの見た目はこの国の者らしい大きな身体を持ち、髪は赤毛。顔つきも表情も元婚約者と違ってしっかりした意志が見え、強そうだ。目はやや垂れていて、優しげに見えなくもないけれど、眉間の皺とへの字口がそれを否定している。それさえなければ見た目だけは男前だ。
若いはずだが、既婚者の父より老けて見えることにもイリヤは気落ちしていた。
どんなに当人同士気に食わなくとも、王の介入された婚約だ。どうしようもない。
イリヤは余計なことをと、この先何度も王を呪う羽目になった。
この国での婚約期間はおよそ一年から三年。この間に相手の領地を訪れ顔を見せるとか、家政を学んだりする。相手によってやることは違うが、イリヤの家もダナレイの家も領主なので基本的なことは変わらない。
顔合わせは同じ領主でも、イリヤの家は他国の王女の降嫁先なので格が高いため、ダナレイにこちらの領に出向くよう伝えられていた。それもまた彼の気に触ったのだろう、不満がありありと顔に出ていた。
(せめて自分が介入したんだから王城に呼びなさいよね。同じ領主家で私が嫁に貰われるのに、うちが呼びつけたみたいじゃない。ホントあの王さまは頭が悪いわ。ましてかあさまはこちらに嫁いだとはいえ王女なのよ。黙って王族に迎えていれば体の良い人質だったのに、いつ国に戻ってもおかしくない領地なんかに出しちゃって。かあさまに私が愛されてないとでも思っているのかしら!)
イリヤは表面上は微笑みながら、内心でグチグチこぼした。
「次回からはうちの領に来てもらおう。今後の日程に条件は?」
ダナレイはイリヤを見下ろし、いかにも面白くないという感情をあからさまに尋ねた。
(お前みたいな子供に領地の何が分かる、と思ってそう)
イリヤは「特にはありません。いつでも大丈夫です」と微笑んで答えるに止めた。大人しく従順そうに見えるように。
婚約期間は三年みっちり取られた。
イリヤが不出来だと思われかねない期間であることに彼女も両親も怒りを通り越して呆れた。
これが普通の婚約であるならばまだいいだろう。
だがイリヤの場合は十五歳。本来なら結婚していておかしくない年齢、というか結婚寸前だったのだが。だから領地のことも新たに地名など知っておくべきことはあっても、土台が出来ているのに三年の期間は長いのだ。卵が孵るだの雛が出たなどと揶揄されてしまう。
ダナレイはイリヤより十以上も歳上のくせに、いまだ嫁も娶らずふらふら遊び歩いているクズではないか。男だと行き遅れと言われないのは納得いかないと彼女は憤った。
それに確実にイリヤを『領主の妻として問題あり』とダナレイの周囲の者に広く認識させるつもりなのだろう、ということも。
更に王を信用など全くしていない父が、ダナレイの身上調査をした結果、女遊びが激しいこともわかった。だがそれだけだ。不正などもしておらず婚約を覆すことは難しいと再確認しただけだった。
イリヤはこの男と結婚して、子供を成さねばならないのかと思うと気が重かった。
まあ無理に残す必要もない。離婚できなくても別居はできる。そんな風に破綻している夫婦は少なくないと聞く。両親だって、帰ってきていいと言っていた。そう考え少しは気が楽になったけれど、目の前の男の顔を見ればまた気が塞ぐという繰り返しをイリヤはしていた。
そんな彼女の内心など気付かず、ダナレイは上着の隠しから折り畳んだ紙を出し目を通している。一通り読んだのかまた紙を元の場所に戻す。
「ではこれから四月ほどずつかけて各領地を見て回ってもらおうか。ひとつの領地に一週間ほど、四月空けてまた次の領地に」
「その間はそちらの領主館に住まえば宜しい?」
イリヤの質問にぴく、と不服そうにダナレイの眉根が動く。
「君は自身の屋敷からこちらが指定する領地の別荘や別邸へ向かえばよい」
「……は? 私、だけでですか?」
イリヤの口から被っていた猫が飛び出し、思わず地を這うような低い声が出たがすぐに被り直す。ダナレイはそれに一瞬だけ目を剥いたが普段通りに戻った。
「護衛なり付き人なりは連れてきても良い」
「……そうですか」
別荘だの別邸だの、イリヤを婚約者として――妻として本邸では受け入れない、ということだと理解して頬が引き攣る。
これはイリヤを領主の妻として認めない、女主人として家政を取り仕切る仕事をさせないということだ。本邸で仕える者たちは婚約期間中に顔を合わせて挨拶ひとつすらないイリヤを妻として扱わないだろう。
しかも現地集合だなんて、せめてお前が迎えに来るべきだろう、一緒に行くのが嫌なら馬車を別にすれば良い、とイリヤは怒鳴りたくなるのを飲み込んで了承の意を伝えた。
(何でこんなに私がへりくだらないといけないの!? 家格はうちの方が高いのよ? 何もかも王のせい! なんであんなやつを立ててやらなきゃいけないのよ!! かあさまに言えば……)
イリヤの心の中では雷が落ち風が吹き荒んでいる。
イリヤの母はそもそも他国の人間で、この国には友好の証として嫁いできただけ。嫁いできた時のゴタゴタのおかげで、この国がどうなろうとどうでもいいのが本音だ。父がこの国を愛し領民のために働いているから、イリヤもそうだから留まっているだけ。
だから母に『こんな国どうでもいい』と泣き言をこぼすだけで母の国が難癖を付ける理由を与え、下手をすれば戦になる可能性が高い。
けれど無駄な戦はどちらの国も民を苦しめ悩まし、土地を荒らす。そんなことにはしたくないからイリヤは我慢する。
イリヤはこんな風に内心では愚痴三昧、表面上は微笑みをたたえたまま三年過ごし、結婚式を迎えることとなる。