兆しの生まれた事情(1)
※汚れに関しての描写
※同性からの暴力行為があった描写
どちらもほんのり有
邸に到着して、アロネは腰を伸ばす。
いくらイリヤのためにあちこち手が掛けられていても、さすがに荷車は馬車と違って乗り心地は良くない。
しかも行きは下りだが、帰りは登り。
邸のある側の山の道は傾斜が酷くないので 馬も行き来出来るのはありがたいが、やはり山は山なので緩やかでも上がっていかなくてはならないので、必然的にしっかりどこかに捕まっておらねばならず、姿勢に無理がかかる。
イリヤがエドの助けで荷車を降り、シャルがアロネに気を利かせてイリヤを邸内に連れて行ったのを見届けてからの「ううーん、よいしょ」であった。
キャスはナイナと馬を連れて厩舎に向かっていったのも確認済み。
「……まだ若かろうに」
腕を上にあげて、前後左右に揺れているところを背後から笑いを堪えるゲイルに声を掛けられた。
「とんでもない。孫がいてもおかしくないので……」
慌てて上げていた手をぶんぶんと胸の前で振る。
「まご?」
「そのぐらいの歳なんです」
ふふ、と笑うアロネに目を丸くしているゲイルもそうか、と笑って頭をバリバリと掻いた。
「……孫か。俺もすぐ結婚していればいたのかもしれないなあ」
「ゲイルさんはおいくつなんです? ちなみに私は三十三ですよ」
「見えない! てっきりイリヤと同じくらいかと……しかも俺と同じ歳だ!」
本人は感慨深げだが自業自得の結婚の話題には触れず、若いと言われたところだけ遠慮せず受け取った。それで心持ち機嫌が上向き、ゲイルへ感じるものが少しばかり良くなる。
「もしかすると俺はアロネさんを釣書で見ていたかもしれないな。イリヤの――領主夫人の付き人となると、やはりこの領のどこかの家のお嬢さまだったのか? それとも別の領?」
これにはさすがのアロネも声を立てて笑った。
「とんでもない! 私ごときが領主のご子息の釣書に出てくるはずがありませんよ。私はしがない民の出なんです。イリヤさまとご縁がありましたから、こうやってお側にいさせてもらってますし、行儀作法なんかも上っ面をなぞるだけですが勉強させてもらえましたけど、本当なら単なる掃除婦程度ですよ」
あはは、と笑いが止まらない様子に、ゲイルは気まずげに頭を搔き毟る。
「……あ、そうだ! ゲイルさん、湯を用意しますから湯浴みなさって下さいね。そうじゃないと邸には入れませんから」
「いや……だが、君たちの手を煩わせるのは……」
「そもそもいいとこのお坊っちゃんが何を遠慮してるんですか。それにここは腐っても領主の別邸ですよ。イリヤさまは幼い頃からのお知り合いでしょうけれど、一応領主夫人なんです。きちんとした格好でお会いくださいね。用意が出来たらお呼びしますから。そうですね……とりあえずナイナさんと一緒にいて下さいね」
たくさんの湯を沸かして、入ってもらわなくては。とやる気に満ちたアロネはぺこりと頭を下げ、使用人たちに声を掛けるためにその場を離れた。
ひとり残されたゲイルは参ったな、と頭を搔きながらじっとアロネの背が去るのを見つめていた。
* * * * *
湿気で色が変わり、黒かびの浮いた板張りの浴室の大盥に湯が張られている。天幕は張られていない。
久々の湯浴みだった。
ゲイルは盥に足を入れ、そのままどかりと座る。
足先は冷えているからか、湯がより熱く感じた。じんじんとするそれが馴染むまで待てば、身体は次第に温まっていく。
側にあるキャビネットから身体を擦るためのスポンジ――植物の実を乾燥させたもの――を盥の湯で濡らし柔らかく戻して足元から擦っていく。
水浴びでは落ちきれなかったそれのせいで、湯が濁っていった。垢を落としていけば、濁るどころか真っ黒になった。
そろそろ湯を捨ててしまわないと。だが、とゲイルは躊躇う。
長い間人らしく過ごして来なかったこと、誰かに何かを頼めば罵倒されてきたこと、言葉だけで済めば良いが理不尽な暴力に曝されてきたせいで彼は昔当たり前に命じてやっていたことが出来なくなっていた。
ここが自分の家ではないことも手伝っている。
「……落ち着け」
昔、身ぐるみ剥がされた頃を思い出して身体が縮み震える。
あちこち擦り切れた服や靴は物盗りから、伸ばし放題の髪や髭、垢や汚れで饐えた臭いは相手を萎えさせ、ゲイルの身を守るのに役立った。あえてそのようにしていたのは心身を守る鎧だったから。
その鎧が湯に溶け出ている。
そう思うとダメだった。震えが止まらない。湯は温かいのに、心が冷えていくようで。思い出したくない光景が次々目の前を過る。ゲイルに向けて吐き捨てられた言葉が頭の中で囁かれているようだった。
受けた暴力の痛みは忘れても、その衝撃と断片的な記憶だけは残っている。
過去の記憶がゲイルを襲う。歯の根も合わず、ガチガチと鳴り始めたところで声が掛かって人の気配がして――。
「――お湯、足しますか?」
ゲイルは混乱していた。
聞いたはずの女性の声(女みてえな顔してんな)、今は来ないでくれ(服も上等だ)、出ない声と震える身体が(大人しくしやがれ)彼女に返事をすることを拒否していた。お願いだ見ないでくれ、女性にはこんなところを見られたくない――。
返事がないこと訝しんだのか、浴室に入ってきたその人はゲイルを見て驚く。
「大丈夫ですか? 具合が悪いの? 顔色が……!」
アロネは浴室の前でお湯を足すタイミングを見計らっていた。
あの様子ではお湯は数回変えなければ汚れは落ちない。髪には虱もいるし、手伝わねばと目の細かい櫛に麦の粉などを持ってきていた。
使用人は何人もいるが、男性の湯浴みを手伝える者はいない。
この邸の使用人たちは侍女だけでなく、イリヤの世話だけを目的として雇われている。
家事使用人は料理人だ。男性ばかりであるから力仕事なんかは率先してやってくれるが本来はそれも彼らの仕事ではない。まして見ず知らずの男性の世話など頼めるはずもない。
湯浴みの湯を樽に運ぶことだけお願いした。
シャルやノーラならば、彼女たちの今の仕事から逸脱するが、経験上男性を扱うのは上手いだろう。けれど夫婦ものであるし、こんなことが原因で拗れてほしくはない。
使用人に一人男性はいるが、彼もそういう仕事をしてきたことがない。
護衛をしている騎士に任せるのも何だかおかしい。
と、なるとアロネしかいない。
仕事は付き人だが、そもそもの出自は平民。やってきたことは家事や飲食店の手伝い。
だから重いものは今も運べる。酒樽くらいなら余裕で抱えられる。汚れ物にも触れるし、洗濯だってしている。大丈夫だろう。
湯浴みの手伝いはイリヤの世話で慣れている。男性の手伝いはしたことはないが、基本は同じだと考えた。
それで浴室の前にいたのだが、室内から音がしなくなった。
この浴室は邸の使用人用のもので、主たち用のものとは造りが違う。
入り口にだけ現在使用してある旨を示す布を垂らしているだけ。中の音は部屋の前にいれば筒抜けだ。
首を傾げて、声を掛ける。
ゲイルさん、と名を呼び、どうしましたかと伺うが返事はない。何度かそうやって呼び掛けたがやはり返事がない。
――まさか、倒れた?
平民の年寄りは冷えた朝の湯浴みや排泄中に倒れて亡くなることが多くある。
ゲイルは年寄りというほどの年齢ではないが、中年で栄養状態も悪い。長い放浪生活で体調も悪かったのではないだろうか――アロネの中では次々と悪い予想が浮かんで消える。
だから何度目かの声掛けの後、すぐに浴室へと足を踏み入れた。頭の中では最悪の事態が映し出されている。
知り合ったばかりの他人だが、目の前で命を落とすのは嫌だ、という気持ちだった。
それで中に踏み込めば、アロネの予想とは全く違っていた。倒れたりはしていない。
けれども、盥の中で身体を抱え小さくなってぶるぶると震える姿が先程までの彼とは正反対に見える。
濡れた髪は後ろにやられたお陰で見えた顔面は蒼白で、瞳は不安なのか縦に横に揺れていた。唇からは歯ががちがちと鳴っている音がする。
「……大丈夫? ゲイルさん、じっとして……大丈夫よ」
持っていた身体を拭うための長布を巻き付けてやる。
盥の湯は濁って汚かったし、まだ髪も洗えておらず、上半身も真っ黒なままだが、布を頭から被せた。
視界を布で覆って、その上からそっと抱きしめ背を何度も撫でる。
そのうち、布の下から嗚咽が聞こえてきた。
(十年近く物乞いのように彷徨っていたのだもの、本当に怖いことたくさんあったんだろうな……)
まるで幼子が泣くような、けれど静かなそれがおさまるまでアロネは大丈夫と声を掛けながら背を撫でていた。




