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イリヤの事情(1)



 アロネは大窓から微動だにしない(イリヤ)に声を掛けた。

「いくら窓を閉めているとはいえ、そのように近くにずっといらっしゃるとすきま風で冷えますよ」

 イリヤはそうね、と言ったきりで動かない。

 アロネはソファに置かれたショールを手に取り、彼女の側に寄ると肩にそっと羽織らせた。

 

「結婚式には山神さまが見にいらっしゃるそうですよ」

「ふうん」

「なんと初夜には花嫁を拐いに悪魔が狙うとか」

 そこでイリヤはアロネを振り返った。

 その猫のような目にきらりと好奇心が宿るのを見て、アロネも自然と口角が上がる。

 さ、とイリヤの手を取って大窓近くの椅子まで引いて座らせるとアロネも隣に腰掛けた。

 

「あの音は悪魔を寄せ付けないようにするためだとか。今は作っている最中だそうですよ。きっと上手く鳴るか試しているんでしょう」

「なんだか高く響くわりには重い不吉な音よね、憂鬱になってしまうもの」

「これを結婚して初夜から翌日まで家族となった家の人が交代で鳴らし続けるんだそうですよ」

「……それは……とっても煩くてとってもめんどくさそうよね」

 端正な顔を嫌なものでも見たように歪めたイリヤを見て、アロネは破顔した。

 

 

       * * * * *

 

 

 十五歳のイリヤは婚約者――今日から夫となるはずの人の屋敷の庭で、行儀悪く芝の上に身体を投げ出しぼんやりと青い空を眺めていた。

 結婚式で着る美しい刺繍の施された栗色の袍服にはまだ袖を通していない。

 

 なぜなら、婚約者が結婚式当日に逃げたから。

 ――それはいい。許せる。

 婚約者はイリヤの付き人をしていた女と駆け落ちした。

 ――それもどうでもいい。婚約者とは幼馴染み、イリヤの付き人に心を寄せていて、彼女もまた彼に想いを返しているのを知っていたから。

 

 だけど二人で逃げるなんて無責任よね、とイリヤは声に出さず呟いた。

 

 婚約者は隣の領の領主の三番目の息子で、気心が知れていた。三男だが後継となるので、弟のいるイリヤが嫁ぐ。

 イリヤの恋と言えないくらいに淡い初恋は、婚約者の一番上の兄である。そのくらい幼い頃から婚約者のことも家族のこともよく知っている。

 結婚が決まったことに対しての感想は『卵を割ったら雛(行き遅れ)じゃなくて良かった』この一点のみ。

 

 彼女は見た目こそ儚い少女だが、本来短気で激情家の面を持つ。領主の娘として良くない性質である。

 だが、母からもこれまでの家庭教師からも注意され隠さねばならないことと十分理解していたので、知らない人(・・・・・)と交流する際には出さないようにはできていた。

 だから、すぐカッとなりやすいところも早口で強い口調になりがちなところも家族や領民はおろか、小さな頃から交流のある家の使用人まで知れ渡っていた。

 そういった短所もまた自分を作る要素のひとつだと常日頃から婚約者に伝えていたイリヤは、隠さないで良いから楽で良かったと思っていたのがナシになってしまったことにのみショックを受けていたのだった。

 

 そんなイリヤが付き人との関係を許していたのに、それを彼女(付き人)は良しとしなかったらしい。

 

 相手らが残した手紙によれば、妾は嫌だとある。

 

 かといってイリヤを押し退けて妻になれる力は彼女にはない。例え既成事実を作ったとしても、処女性を重要視しているのは王族や準王族に対してである。民や地をよく治める領主という地位に重みはあってもそこまで血筋に拘りがない。

 ましてイリヤの付き人は父の血筋の分家からである。イリヤに流れる(たっと)き血には勝らない。

 

 だから二人で逃げる、と。

 

 イリヤ()が認めた妾であれば、離れで相手と仲睦まじく暮らせて、付き人でいるより良い暮らし向きであったろうに。

 もしかすると、金や地位ではないただ彼こそを望んでいたのだと、彼に友人以上の好意を持てないイリヤに『これが愛よ!』と見せつけるために駆け落ちを唆したのかもしれない。

 

 大した物も持たず駆け落ちして、苦労知らずの元婚約者がやっていけるわけがないのに、と苦笑しきりだった。まあ元付き人には愛があるのだから自力で何とかするんでしょう、とイリヤは彼らのことはもう考えるのをやめて、自分のこれからに頭を悩ませた。

 

 結局、元婚約者の家では王都王城で官吏として働いている二番目の兄が呼び戻されることになった。彼には既に王城で知り合った身元のしっかりした妻と可愛い子供たちがいる。

 イリヤが幼心にときめいていた一番上の兄は他国に教養を深めるため渡っていたが、数年前に行旅死亡人――いわゆる行き倒れになったという連絡があり、もう魂は空の上の人だ。

 

 イリヤだけが行き場もなく宙ぶらりんになった。

 

 イリヤの母は他国の王族で、父は領主という立場にいるが本来は国の中心で采配するような立場にいてもおかしくない人だったとイリヤは聞いている。

 イリヤの母はこの国の王に嫁いで来たはずが、ちょっとした行き違いという揉み消せないほどの王家の醜聞があり、なんやかんやでイリヤの父が娶ることになり領主の地位を賜った。

 イリヤの母にはこれっぽっちも悪いところはないのに、まるで厄介払いのように王都から離れたのどかな場所にイリヤの両親は押し込められていた。

 けれども二人はそれに文句を言うことなどない。仲睦まじく、領地のために頑張っていたので領民からも慕われる良い領主であった。そしてイリヤと弟と二人の子に恵まれた。

 

 イリヤは家族や周囲に愛され育ち、隣領主の息子と婚約し、二年後。十五歳になっての結婚式当日、夫に逃げられた。

 更に追い討ちをかけるように他領にて『イリヤは婚約者に逃げられた間抜け、逃げられるほど容姿の醜い女、婚約者と付き人の愛を邪魔する横槍女』などと悪質な噂を流された。この噂もイリヤの母を良く思わない者たちの動きによるものだが、当のイリヤは気にしていなかった。

 

 だが、イリヤの母は違う。彼女は自邸で当たり散らしていた。心ない悪意しかない噂も、逃げた婚約者にも、付き人にも腹を立てて怒り狂っていた。イリヤの性質は確かに母から受け継がれたのだと分かるほどに。

 隣合う領で家族同士仲が良い、そこに元婚約者の一家は甘んじていると。娘をある意味傷物にされたことに謝罪らしい謝罪もない。本当に何か欲しいわけではないが、慰謝料すらの話もない。用意するつもりがないのは悪いと思っていないからだと腹を立てていた。

 

 実際のところ、相手側にも言い分はある。イリヤの付き人が息子を誑かした、そういう人間を雇って見逃していたイリヤたちの側にこそ今回の責任があるが、お互い様であるのだからと忌々しく思うも口を噤んでいただけだ。


 あちらはあちらで後継者が駆け落ちしたという醜聞を抱えることになって、足の悪い次男を利便性が高い王都から呼び戻した。


 領地を治めるとなるとあちこち駆けずり回らねばならなくなるのと、王城の官吏は狭き門を潜って手に入れた職であったために次男はかなり渋ったが、領地領民のため戻るしかないと戻ってきたのだった。





 



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