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アロネの事情(2)



 姑は確かに若い頃はアロネのように働いていたのだろう。もしかすると、姑も妊娠中に倒れて子供が夫以外育たなかったのかもしれない。姑も大姑から同じように扱われてきたのかもしれない。

 仮にそうだとしても、自分が辛い目を見たのだから嫁にも同じように辛くあれと思うのは間違っている、とアロネは思う。

 嫁にきた娘を虐げるために、夫はそうとは知らず『妻が夫と家のため休みなく働くのは当然』と考えていて、母親()から『妻を労ることはない』という風に言われていたならば――。

 

 アロネは頭を小さく振った。もし夫もまた搾取されるために生きていたのだとしても、アロネに今やっと自分()を思い出させるような扱いしかしてこなかった人だ。彼からもらったものは花一つない。心はおろか嘘でも言葉すらない。授かった子供たちが取り上げられてアロネが泣いて暴れても。生んだときも生まれたか、だけでありがとうとは言われなかった。代わりにどのくらいで手伝いに立てるか、と聞かれた。

 これまでずっとそんなことばかりで、なぜ自分だけがこんなに辛いのか、誰も助けてくれないのか、夫はなぜ――と心をすり減らしていたが、ある時考えるのをやめると心が麻痺してしまったのだろう、日々流れるままに任せていた。生きてはいるが楽しみは何一つない。そんな日々だった。

 

 彼女は顔を撫でる風と、尻や腰に響いて痛くなる揺れに身を任せながら、遠ざかる町に良い思い出とは言えない暮らしを思い出しては捨てていった。

 

 こんな風に自分から見ても他人から見てもあまり幸せではない結婚生活を送ったアロネが領主館で得た仕事とは、この地方で『領主さま』と呼ばれるダナレイが迎える妻になる人の付き人だった。

 

 ダナレイはアロネより少しばかり歳上だが、まだ嫁を迎えていなかった。それでイリヤ()婚約者()選ばれたのだと言う。

 ダナレイはそれが不服だったらしく、いつも文句を言っていた。イリヤは他国とはいえ王族の娘であり、血筋から見る身分では彼の方が劣るのも許せないらしい。

 

 本来なら他国の王族でもある婚約者(イリヤ)に相応しい付き人というのは身分もある教養の高い娘なり既婚女性がなるべきなのだが、彼は嫌がらせの意味から単なる民の中から決めることにし、アロネが選ばれた。

 

 現在の領主館や屋敷に勤める使用人たちは皆ダナレイ()使用人であり、イリヤには仕えさせないと。一方イリヤには『そちらからの付き人や使用人は不要』と通達してあるのだと言う。

 それを聞いたアロネの口がぱかんと開いてしまったのは咎められないだろう。

 

 そんな領主に困ったものだと思っても誰も口に出せない。

 

 先代の領主であった彼の父親にとって遅くに出来た末っ子であり、唯一の男子。唯一の嫡男。男子にしか家督相続の権利はないこの国だ。ダナレイは父親から、『お前は領主となる、(領内では)誰より偉いのだから立派に務めを果たせよ』と言われて育ったために違った意味で立派に育った。

 

 なので、使用人程度が諌めても当然聞くことはない。むしろ主に反抗的な態度を取ったとして即日叩き出されるだけだ。

 

 それもそうだろう、とアロネは納得している。

 自分たち使用人はどこまでいっても使用人。領主を教え導き、時に躾ることができるような身分ある家庭教師でも親でもない。ただ雇われているだけ。気分を損ねれば解雇(クビ)になるだけ。ならば噤むしかない。

   

 そんな風に短期間で色々と把握したアロネが、言葉遣いや立ち居振舞いなどを元家庭教師であり、現在は使用人頭であるミーナから学んでしばらく経った頃。

 身分のある女性の振る舞い方について講義を受けていると庭の辺りから黄色い声がする。

 

 きゃあきゃあと喧しい数人の女性の声に使用人頭の眉が顰められた。

 新たな使用人だろうか、若い娘ならついつい声が大きくなることもあるだろう、アロネがそう思って外に意識を向けていると、ミーナはテーブルの角を持っていた枝むちでこちらに注意を戻すよう叩いた。ちなみに彼女は躾用の枝むちを常に手にしているが、決してそれで人を()つためではない。『ここ』と場を示す時に便利なため使っている。

「良いですか、アレは領主さまの遊び相手の方々です。館のあちこちでああいう声が聞こえたならば速やかに聞こえない場に移動するか、見えない聞こえないフリをして仕事をしていなさい。あなたは子供を生んだ経験があるので、領主様方のお遊びが何かは分かるでしょう? イリヤさまがもしもこの館で奥様としてのお仕事をなさる時は、あなたがそれに気をつけて差し上げるのですよ、アロネ」

 

 ミーナの『あちこち()』や『もしもこの館()』という言葉の端々が気になったものの、とにかくイリヤが嫌な思いをしないようにすることが付き人となるアロネの一番の仕事なのだと彼女は心に刻んだ。

 

 そしてアロネが待ち望んだその日は白い雲がもくもくと大きく育った日だった。

 アロネはこれまでも領内にイリヤが顔を出した時はまだ勉強不足であったり、今回の結婚式には身内でないので立ち会えないために、夫婦が揃って領主館に帰ってきて初めて主の顔を見ることになる。胸がどきどきしていた。

 

 まるで、贈り物を開ける前のような高揚した気分と同じように大きく育った白い雲は激しい通り雨を運ぶ知らせだ。共に大きな雷を落とすこともよくある。

 嫌だわ、とアロネはぽつりと呟いた。

 花嫁になって早々雨に降られるのは何だか幸先が悪い気がする。だから降らない内に帰ってきてください、とアロネはまだ見ぬイリヤに呼び掛けていた。

 

 空がいつの間にやら(かげ)って暗くなり、白い雲はどんよりした灰色の向こうにまだ見えていた。太鼓を打ち鳴らすような雷の後にぽつり、ぽつぽつ、ざああと激しく雨が降り始めた。

 

 そろそろ帰って来られる時間だろう、雨に濡れているかもと思ったアロネは、使用人数人と共に拭き布を何枚も抱えてホールで今か今かと待つ。館中の使用人たちがホールに勢揃いしていた。厨房や厩舎や庭で働いている者以外全ているのだろう。

 

 激しい雨が屋敷を叩き、雷鳴が轟く音だけが響く中、ホールの扉が勢いよく開かれた。主と奥様の到着を知らせる者が慌てていた。

 

 すぐにずかずかと足音を立てて見るからに苛々と入ってきた領主ダナレイが、お待ちをと声を掛ける己の付き人たちにまとわりつかれながら入ってきた。ややあって、数人の女性に囲まれるように入ってきたのが領主の妻となり、アロネの主となるイリヤだった。

 アロネは彼女の前に慌てて駆け寄るも、間近で姿を見て立ち尽くした。

 

(白い、細い、小さい、かわいい……なんて、なんてきれいなの――!)

 おひめさまだ、とアロネは思った。緊張と興奮から頬に朱が上る。

 アロネが仕えることになったイリヤは、子供の頃に見た人形芝居のおひめさまのようだった。

 

 この領では馴染みのない彼女の牙色の髪はまとめ上げられてはいるがほわりと柔らかそうで、結婚式で着る栗色の袍服に良く合っている。

 アロネもそうだが、この国の女は大柄で腰も尻も厚みがある。けれどもイリヤは細く、小さい。十八歳と聞いていたが、それより幼く儚く見える。

 顔も小さくて、髪と同じ色の睫毛がくりくりとした猫目を飾っていた。

 

 それが庇護欲なのか、自分にあったはずだが取り上げられて消えてしまった母性からなのかは分からないが、『私がこの方を守って差し上げなければ』とアロネに決意させた。

   

 周囲にいる女たちが傘をさし、衣装の裾を持ち上げたお陰でイリヤは濡れていない。アロネは我に返ると慌てて濡れていた女たちに手早く布を手渡していった。イリヤはそんなアロネを見て目を丸くして言う。

「あなた、なんだかすごく、嬉しそうね」

 おひめさまの声は優しくて綺麗なんだな、とアロネは思った。

 

 




 

       

 

 

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