アロネの事情(1)
見上げる空はどこまでも高く青く。
そこに虚ろで陰鬱な金属の音がろろろろんと反響していた。
祝いの魔よけが揺らされ奏でられる音。
「……ねえアロネ、あの音は何かしら」
大窓に手をやり、空を見ていた女が室内を振り返って問いかける。
問い掛けられアロネと呼ばれた女は微笑んで返した。
「麓の村では結婚式の準備をしているそうですよ、奥様」
「結婚式」
「ええ」
すてきね、とアロネの耳に小さく聞こえた後に溜め息が零れるのも分かった。
「……どうりで嫌な音だと思ったわ。幸せの音なんて」
先程までアロネを見ていた瞳はとっくに窓の外へと向けられていた。
「奥様の結婚式もすてきで――」
「……どうかしらね。少なくとも妻を捨て置くような男との式は思い出したくもないわ」
それを聞いてアロネは鳩尾で組んだ両手にぎゅっと力を込めた。
アロネが仕えている奥様――ダナレイ領主夫人イリヤはまだ若い。歳は二十と三。もう三十を過ぎたアロネから見れば妹のようだが立場や身分は全く違う。
現在もまるで少女のように細く儚げなイリヤは五年前に領主ダナレイの元に嫁いできた。
この領の出身ではなく、他領から。しかも他国の王族の血を引く。
そんなお嬢様をダナレイはわけありだからと手酷く扱い、とうとう領都から遠く離れた小さな村を見下ろせる高台の領主別荘に療養しろと押し込めてしまったのだ。
* * * * *
アロネは夫を流行り病で亡くしたばかり。
それなのに夫の母である姑がアロネに家から出て行けと宣った。夫の父である舅はそれに渋い顔をしたが、跡取り息子が流行り病を患った原因はアロネにあったと思っているので強く言えないのだ。
彼らが住んでいるのは自宅近くに構えた家で、アロネたち夫婦が住むより大きく過ごしやすい。そこに孫たちと暮らしている。
アロネと夫の間に九つと三つになった男の子が二人いたが、二人とも姑が乳飲み子の頃からしっかと抱き込んで離さなかった。そうなると当然腹立たしく、泣いて文句を言ったが何も変わらない。
気付けば後追いもせず、自分を母とも言わない思っていないだろう子供たちに育ってしまった。こうなると我が子といえどもどこか他人の子のような感覚しか持てず、後ろ髪は確かに引かれたが置いていくことにした。懐いてもいない母親と暮らすより、今までの暮らしの方が彼らも苦労は少ないだろう。
夫は町で飲食店をやっていて、そこそこ忙しかった。昼から夜遅くまでやっていた。
アロネはその手伝いに駆り出されるのが常だ。それは具合が悪かろうとお腹が大きかろうと関係ない。熱で倒れたとしても子供が生まれる寸前であっても。そこへもってきて家の仕事も彼女の担当だった。儲かっているなら人を雇って欲しいと頼んだことも何回もあるが、姑も嫁いでそうしてきたのだと言われれば何も言えなくなった。
過去そうやってきたはずの姑は何もしない。孫である子供を可愛がりはするし、働いている間は見てくれてはいる。夫からはお疲れさまの労いの一言すらなかった。
そんなある日アロネは流行り病に罹るも、熱に浮かされているのに客前に出なくていいから厨房の手伝いや掃除をやれと言われ、辛い身体をおして働いた。途中でやはり倒れ、ようやっと数日休むことができた。
治らなければいい、このまま死んでしまえたらいい、と高熱に魘されながらアロネは夢見たが、熱は引き体調も戻った。だが今度は夫が罹った。そして、の話である。流行り病であるので妻から移ったかどうかも分からないが姑はアロネのせいであると。
アロネは実家も絶えて久しい。両親と弟はこちらに嫁いですぐ、実家の辺りを大きな嵐に見舞われ巻き込まれ溢れた川に家屋ごと押し流されていってしまった。あの辺りに住んでいた者は皆見つからないままだ。
だから追い出されても行くところがない。自分に小遣いすら渡さない婚家はそれを知っているから手酷い扱いをするのだろう、と彼女は思っていてそれは確かに正しかった。
とにかく住み込みの仕事を、と求人の募集がないか知人たちに尋ねて回れば、皆アロネの事情を知り同情したのか『良い仕事があればアロネに回すからね』と言ってくれた。姑らは流石に夫を墓に葬ってすぐ嫁を追い出すのは外聞が悪いと気付いたのか煩く出ていけとは言われなかった。
夫が亡くなって一ヶ月経たない内に、宿舎のおかみが仕事先まで案内してくれることになった。この町よりさらに大きな街にある領主館での仕事だと言う。あまりに大きな仕事と案内までしてくれることに驚いたが、紹介制だからおかみさんが付き添わないといけないとのことで、アロネはただただ恐縮した。アロネたちの店は宿舎の客の食事も賄っている。アロネたちが忙しいということは宿舎もそうなので、申し訳ないという気持ちになる。
そのおかみが言うには、領主館のようなお偉いさんの屋敷では住み込みの仕事に給金は出ないのだと。衣食住を賄ってもらう代わりの労働力だからだ。けれどもお祝い事や新年、月頭などに心付けが振る舞われるから買い物にも行ける。辞めることがあってもこちらに何の瑕疵もなければ次の仕事をする紹介状も頂けるし、少なくない額のお手当てが給金代わりに貰えるとも教えてくれた。
「領主さまのとこの住み込みだから、あいつらにお給金をねだられる恐れはないよ。アロネを追い出したうえに子供まで取り上げといてどっかで働きだしたら金までせびるつもりだって聞いてね。それで慌てて遠いところでいい仕事がないか聞いて回ったんだよ。まあ領主さまのところも色々慣れるまで大変かもしんないけどね、あそこよりはマシだから」
荷馬車に揺られながら、おかみさんはアロネに言った。
「どうしてもね、私らはよその家のことには注意はできてもねえ、手は出せないからさあ。アロネは長いこと我慢したよ、えらかったね」
アタシにとっちゃ娘みたいなもんだからね、と笑う彼女にアロネはぎこちなく笑って頷いた。
他人がここまでしてくれるだけでもありがたいことだ。これが本当に血の繋がった娘ならもっと早くに引き離されていただろうし、あそこは嫁をこき使うと昔から近所で評判だったからそもそも嫁がせもしなかっただろう。
だがそれはどれだけ言っても仕方のないことだ。それにその分こうして手を回してくれた。
紹介料が彼女に入るから、ということは考えないでおこう、とアロネは視線を町に戻す。
――長いこと我慢した。
確かにそれは事実だ。けれども夫は優しくなかったが浮気をしたり、遊んでいたわけではない。
彼もまた毎日店のために起きている間は働き続ける日々だったと思い至った。
休日はあったが、夫は日々の疲れが溜まっていて寝てばかりいたし、店のある日は仕込みだ何だとアロネと共に早く起きて動いていた。これでよく二人も子供が出来て無事に生まれたものだとアロネは苦笑する。
あの店は舅から受け継いだもので、経費を抜いた売上は全て舅に渡していた。そこから夫とアロネたちの生活費を貰って――。
アロネはあの家から離れてようやく夫とその家族について思い返した。
©️2023-2024 桜江