220 邪魔をするなら……
獲物を追い詰めた顔のエストとエマに、ブラッドルフが恐怖してから六時間後――
その日は宿場町まで辿り着くことが出来ずに、使節団と護衛たちは街道沿いの平原で野営をする事になった。
馬車で壁を作った安全地帯に、ブラッドルフと十大氏族の使者たちがそれぞれの天幕を張る。その周囲をロズニアの戦士百五十人が固めて、さらに馬車の壁の外側では、聖王国の騎兵三百人が護衛役を務める。
これほど厳重な警護体勢であれば、襲撃しようと考える者自体が稀であり。たとえ襲撃を掛けたとしても、護衛を突破するのは容易でないと思われたが――現実は違った。
「魔族が人族と手を結ぶなど……なんと滑稽な事か! 裏切り者どもに……我らが鉄槌を食らわせてやるわ!」
闇が濃縮するようにして人の姿を形作ったのは、人族でも魔族でもなく。艶やかな闇色のコートを纏い、鋭い牙と長い爪と蝙蝠の翼を持つ彼らは――始祖吸血鬼だ。
金色の髪と蝋のように白い肌。始祖吸血鬼は『冥府』の魔力を司る魔神の眷属であり。人族や魔族に擬態する事で太陽という唯一の弱点を克服し、昼間でも強大な魔力で千や二千の敵など蹂躙出来る力を持っているが……
本来の姿に戻る夜であれば――最上位の天使や悪魔に匹敵する力を、存分に発揮する事が出来る。
忽然と現われた異形たちに、聖王国の兵士たちは剣を抜いて身構える。異形が放つ肌を切り裂くような殺意に彼らは恐怖し、馬車の壁の内側にいるロズニアの戦士たちも戦慄を感じて息を飲んむが……それは悪夢の始まりに過ぎなかった。
「愚かな魔族と人族に……死の洗礼を!」
始祖吸血鬼たちを率いるのは、肩まで伸びる豪奢なプラチナブロンドと金色の瞳の持ち主であり、全ての者を魅了するような妖艶な美貌を放つ男――不死王ギュネイ・コールドフィン。『冥府』の魔神に最も愛された最強の不死者の一人だった。
あらゆる系統の上位魔法を操り、精霊銀の鎧すら容易く切り刻む剛力と、音速を超える俊敏さを併せ持つギュネイは、さらには細胞の一つさえ残れば復活できる圧倒的な回復力を持ち合わせていた。
まさに個としても勇者や魔王に比肩する強大な力を持っているが――『不死王』の名は伊達ではなかった。
冥府の領域よりギュネイが召喚したのは、青白い炎を纏う魍魎騎士や首なし騎士と、彼らが駆る常闇の黒馬……上位不死者だけで構成された軍勢の数は、優に千を数えていた。
「ば、馬鹿な……」
不死者に然程精通していない兵士たちでも、それらが放つ膨大な負の力を感じ取ることは出来た。目の前の一体一体が街を滅ぼすほどの脅威であり、その圧倒的な戦力は聖王国そのものを複数回滅亡させる事すら可能だった。
だから、彼らが死の恐怖に動けなかったとしても、責める事など出来ないが――
「……全軍、聖王国の兵士としての誇りを捨てるな! 死の瞬間まで、使節団の方々を御守りするのだ!」
護衛部隊の指揮官が、あらん限りの声を張り上げて部下たちを鼓舞する。彼はジャグリーンの直属の部下であり、この任務に就いたときから、命を捨てる覚悟などとうに決めていた。
「ほう……聖王国の兵士も、なかなか肝が据わっているようだな」
声と共に馬車の壁を飛び越えて姿を現わしたのは、血のように赤い髪の二メートルを超える魔族の偉丈夫――ブラッドルフ・ロズニア。彼の後からロズニアの戦士たちが、馬車の壁を乗り越えて続々と姿を現わす。
「ブラッドルフ殿下……どうか、お下がりください! 殿下の身に何かあれば……」
苦渋の顔をする指揮官に、すでに剣を抜き放っていたブラッドルフは豪快な笑みを返す。
「そんなことを言っている場合ではなかろう……それに、こんな面白そうな状況で指を咥えてなどいられるか! ロズニアの戦士たちよ! 薄汚い不死者どもに、ロズニアの実力を見せてやれ!」
ブラッドルフであれば上位不死者になど引けを取らないし、彼の部下たちも実戦経験が豊富な猛者ばかりで、数人掛かりであれば、何とか戦えるだろう。
しかし、千という敵の数は余りにも多く。そして別格である始祖吸血鬼たちと、さらに上を行く不死王ギュネイまでいるのだから、勝機など微塵も無かったが――生来の武人であるブラッドルフは、戦いの空気に身を躍らせて切り込んで行く。
「所詮は魔族か……彼我の戦力差も弁えぬ愚者が!」
ギュネイは冷徹な笑みを浮かべて、不死者の軍勢を解き放つ。
自らの力を振るうまでもなく、裏切者の魔族と矮小な人族たちを蹂躙するだけの結果に終わる筈だったが――
「『陽光聖域』!」
太陽を思わせる眩い白い光の壁が、馬車の壁の内側から膨れ上がってブラッドルフたちを包み込むと――光に触れた不死者たちは、一瞬で身体を焼かれて消失した。
「ブラッドルフ殿……今回は自嘲して欲しいと言った筈だが?」
闇色の空に浮かぶエストは、光沢を放つ白いローブに身を包みながら――眼下のブラッドルフにジト目を向ける。
彼女が放ったのは聖属性の失われた魔法と『聖域』を合成したオリジナル魔法であり、カイエと二人で研究した成果だった。
「いや……エスト殿がいるのだからな。多少羽目を外したところで、どうにでもなると思っていたのだ」
ブラッドルフは顔を引きつらせながら無理矢理に笑う。そんな事を言いながら……エストの助太刀など全く当てにせずに、あわよくば始祖吸血鬼の一人でも仕留めようと思っていたのだ。
エストの方もブラッドルフの思惑など当然お見通しであり。呆れた顔で溜息をつきながら――不死者たちが放った上位魔法の集中砲火を、身動き一つせずに防いだ。
「なるほど、始祖吸血鬼か……いや、そこにいる貴様は闇の貴族と呼ばれる不死王の一人だな?」
エストの碧眼が冷ややかに見るのとは対照的に――視線の先にいる不死王ギュネイ・コールドフィンは、憎悪の炎を燃え上がらせる。
「不死者の王である我を無視するとは……貴様が、勇者パーティーの賢者エスト・ラファンか? 確かに少しは使えるようだが……己惚れるな!」
魍魎騎士と首なし騎士を乗せた常闇の黒馬の群れが、闇夜を駆け上がってエストの周囲を覆い尽くすが――球体中に展開した光の壁が全ての不死者を飲み込んで、焼失させてしまう。
「不死王などと偉そうな称号を持っていても……学習する能力はないようだな。貴様の手勢では光の壁は越えられないと、先ほど見せたばかりだろう?」
エストには別に相手を煽る意図も侮るつもりもなく。至極冷静に状況を見据えていた。
「それに言い忘れたが、今の私の家名はラファンではなくラクシエル……エスト・ラクシエルという名を覚えて貰いたい」
その瞬間……何故か頬を赤くして目を逸らすエストの顔を――ギュネイは唖然として眺めていた。
「……ふ、ふざけるな! いくら勇者パーティーの一員であろうと、どうして、これほどの力を……」
ギュネイたち始祖吸血鬼は、これまで人族と魔族の国に潜伏しており。勇者ローズたちが魔王を倒した事も、復活した獄炎の魔神が倒された事も当然知っていたが……強者故の奢りのせいで、ローズたちの実力を侮っていた。
無論、本人的にはそれなりには警戒していたつもりであり。だからこそ配下の始祖吸血鬼たちを呼び集めて、上位不死者の軍勢まで召喚して、用意周到に攻撃を仕掛けたのだ。
しかし、魔神を倒せるのは神の化身だけ――つまりは神聖アルジャルスが獄炎の魔神を倒したのだと勝手に結論づけていたから。噂に聞くカイエの事も、勇者パーティーの実力も測ろうなどと考えもせずに。力で蹂躙できると高を括っていた。
(何故だ……何故、このような事態に……)
千体の不死者の軍勢が一瞬で消失するという信じられない光景を目にしたギュネイは、思考の海を彷徨っていたが――背後から聞こえた断末魔の声に、強制的に引き戻される。
「戦いの最中に油断したら駄目だよ……エストも吸血鬼くらいは私に任せてよね」
金色の聖剣を手にした銀髪の少女は――すでに始祖吸血鬼の半数を仕留めていた。
始祖吸血鬼を、普通に『吸血鬼』と呼ぶのは、単に長い名前を呼ぶのが面倒なのと。どちらもエマにとっては大差のない相手だからだ。
「えっと……不死王だっけ? わざわざ気づくように仕向けたんだから、本気で戦ってよね?」
今のエマであれば、十数体の始祖吸血鬼など断末魔の暇もなく殲滅させることが出来たが……実際、今喋っている間にギュネイ以外を全員仕留めてしまう。
「エマ……わざわざ相手に全力を出させるなんて、驕り以外の何モノでもないからな」
「解ってるよ、エスト。でも、今回だけは見逃してよね……だって私が戦う相手なんて、エストはほとんど残してくれなかったんだから」
圧倒的な身体能力を持つギュネイだから解る――先ほど見せたエマの動きは、ギュネイすら遥かに凌駕していた。身体強化と加速の魔法を発動しているのだろうが、それはギュネイも同じ事だった。
「そういう事か……我は貴様たちを侮っていたようだな。ここからは……全力で行かせて貰う!」
ギュネイが唯の始祖吸血鬼ではなく、不死王と呼ばれるもう一つの理由。『冥府』の魔神に分け与えられた負の魔力を全て開放すると――その身体は無数の目を持つ闇そのものと化した。
「そう来なくっちゃ……私はエマ・ラクシエルだよ!」
エマはギュネイを見据えて、不敵な笑みを浮かべる。
「冥府で魔神に会ったら言っておいて……私たちに喧嘩を売るなら、いつでも買うからってね!」
金色の聖剣ヴェルサンドラは――不死王を一太刀で消滅させた。




