碧空に尽き
よろしくお願いします。
本当に、ただ、純粋に。
喜ばせたかっただけなんだ。
“るり!見せたいものがあるんだ!こっちにきてくれ!”
可愛い妹が振り返り、雲の端にいる俺たちを見て首を傾げた。
俺とお揃いの青い瞳がきょとんと丸くなっている。
“みせたいもの?なぁに?”
“こっち、こっち”
幼なじみの琥珀がブルーアンバーの瞳を楽しげに細めて、優しく手招く。
瑠璃は招かれるままに、とてとてと歩み寄ってきた。
でも、俺たちのところまで辿り着く前に、ふと足を止めた。
“はしっこにいって、いいのかな?”
確かに、大人たちには子供だけで雲の端に行くことは禁止されている。
雲から落ちると羽が取れてしまうから、と。
でも、そんなの迷信みたいなものだ。
その時は、そう思っていた。
“だーいじょうぶだって”
俺は何の根拠もなく、瑠璃を安心させるように笑った。
隣で琥珀も笑顔で頷いた。
不安げだった瑠璃も好奇心が勝ったようで、そうっと俺たちに並んだ。
“っわぁ…!”
斜め下の雲は、花畑だった。
爽やかな空色の小さな花が、一面に敷き詰められている。
“すごい!きれい!”
瑠璃が輝く笑顔を浮かべて、手を叩いて喜ぶ。
この顔が見たかったんだ。
琥珀と顔を見合わせて、笑みを交わす。
“なんのおはなだろ?”
瑠璃に聞かれ、“なんだろうなぁ?”と小さな花に意識を向ける。
だから、気付けなかった。
瑠璃が、雲から身を乗り出していたことに。
“…っ!るり!!”
琥珀の切羽詰まった声にハッとし、瑠璃に手を伸ばしたときには、もう、瑠璃は雲の上にはいなかった。
“は…?”
“あおい!!るりが!!”
遅れて瑠璃の悲鳴が聞こえる。
瑠璃が、雲から落ちた。
驚いて固まった俺を置いて、琥珀は羽を広げて瑠璃の元へ向かった。
俺も慌てて続く。
瑠璃は、まだ羽が使えないんだ。
悲鳴が消えたのか、風の轟音に掻き消されたのか。
静かに、瑠璃が真っ逆さまに落ちていく。
風に逆らって必死に手を伸ばし、瑠璃の細い腕を掴んだ。
ぐん、と下に引っ張られた俺の腰を琥珀が掴まえる。
羽を大きく羽ばたかせて一番近くの雲までのぼると、瑠璃を横たえた。
その雲は、皮肉にも落ちるきっかけになった花畑の雲だった。
“るり!るり!”
気を失った瑠璃の肩を揺するが、全く反応がない。
周りの花と同じような青白い顔をして目を閉じる瑠璃。
まるで死んでしまったみたいだ、と恐ろしいことを考えてしまい、身震いする。
“あ、あおい…”
滅多に動揺しない琥珀の、震える声。
…嫌な、予感がする。
“るりの…、っるりのはねが…!”
ハッと瑠璃の小さな羽を見ると、白かった羽がどんどん干乾びるようにしぼんでいく。
雲から落ちると、羽を失ってしまう。
大人たちの言葉が脳内で反芻される。
今更、もう、遅いのに。
ぽろ、と、羽が、とれた。
しん、だ…?るりが…?そんな…そんなの…っ!
“……っ!”
きつく歯をくいしばる。
その時、声が、蘇ってきた。
『―――――』
なんだ、この声は。
誰の声だ。思い出せない。
唯一思い出せるのは、赤い瞳。
赤い瞳を持った誰かが、囁く。
『羽を失った天使にはね、―――――』
それは、悪魔のような囁きだった。
でも、瑠璃を生き返らせるには、その言葉に縋るしかない。
自分の背中に手を伸ばす。
“あおい…?”
呆然としていた琥珀は、自分の羽の根元を手にかけた俺に、目を見開いた。
“だめだ!あおい…っ!”
『―――――、生きている天使の羽をあげるしかないんだよ』
自分の羽を、根本から引き千切る。
身を裂かれる激痛に息が詰まって声も出ない俺の代わりに、琥珀が悲鳴をあげた。
おびただしい量の血が滑り落ちて背中を冷たくする。
鈍く生々しい音をさせながら、羽が完全に俺の背中を離れた。
“ぐ、っぁ…”
焼けるような痛みに喘ぎながら、捥いで赤黒くなった羽を、眠る瑠璃の背中に押し当てる。
琥珀は目を見開いたまま、ぼろぼろと涙を涙を流していた。
“もうひとつ…”
呟くと、俺は反対の羽にも血で汚れた手を伸ばし、―――――
「お兄ちゃん!朝だよー!」
はっ、と目を覚ます。
また昔の夢を見ていたようで、冷や汗が気持ち悪い。
乱れた息を肩で整えていると、彼女は何のためらいもなく部屋のドアを開け放った。
綺麗な真空色の髪がキラキラと輝き、眩しさに目を細める。
「瑠璃…」
「おめでと…って、あーっ!お兄ちゃんまた怖い夢見たんでしょ!だから私が一緒に寝ようかって言ってるのに!」
「この歳で妹と一緒に寝る兄がどこにいるんだよ…」
「妹って言っても双子でしょー!?」
「朝から元気だなぁ…」
ふあ、と欠伸をして起き上がる。
瑠璃はベットの脇にしゃがむと、俺の顔を心配そうに見上げた。
「…ほんとに大丈夫?」
不意に見せる不安げな瞳は昔から変わらないな。
息をこぼすように笑うと、瑠璃の頬を包むようにピアスに触る。
「おはよう、瑠璃」
俺が笑ったことで安心したのか、瑠璃も笑顔になって、俺の耳に手を伸ばした。
俺の耳にも瑠璃と同じ、青い石のピアス。
「うん、おはよ、お兄ちゃん」
お互いのピアスを触るのは、朝の習慣だ。
玄関の方から扉を叩く音がする。
こんな朝早くから家を訪ねてくるのなんて、一人しか思い当たらない。
「旦那様のお迎えが来たみたいだな」
「もうっ、お兄ちゃん!」
からかわないで!と真っ赤になった可愛い妹が、俺の手を離れて玄関に駆けていく。
さっきまで触れ合っていた手の平と片頬が妙に寒い。
伸びをするついでに、背中の羽もギギッ…と伸ばした。
…俺の背中にも、瑠璃の背中にも、ちゃんと羽がある。
廊下の先から聞こえてくる二人の談笑の声に、俺は笑みを浮かべた。
少し寂しいけれど、ようやく。
俺はもう、用済みだ。
「お義兄さん」
「殴るぞ?」
「ふふっ…ごめん、冗談」
碧、とちゃんと呼び方を改めた琥珀は、目を伏せる。
風が青白い花を揺らし、琥珀の透きとおるような白い髪をさらった。
「瑠璃は?」
「…ドレス、見に行ってる」
「あぁ…」
目を細める。
純白のドレスを着て、幸せそうな微笑みを浮かべる瑠璃が見えるような気がして。
言葉は、自然とこぼれていた。
「綺麗だろうな、明日の瑠璃は」
「っ…!」
琥珀の白い睫毛が震える。
「碧…、瑠璃には、やっぱり言わないの?」
「言えないよ、こんなこと」
自分の羽を触る。
十数年前、この花畑で偽物に代わった羽を。
あの日、瑠璃に俺の羽がくっついたとき、俺は消えるはずだった。
瑠璃の代わりに、死ぬはずだったんだ。
それを止めたのは、琥珀だった。
俺の手を瑠璃の羽に押し付けて、琥珀は“るりがしんじゃう!”と叫んだ。
自分の代わりに俺が死んだなんて知れば、瑠璃も死んでしまうと。
その通りだった。
そこで、偽物の羽をつけて凌ぐことにしたのだ。
幸い、琥珀の家は薬を扱っていた上に、琥珀は優秀だった。
傷口に薬を塗り、偽物の羽を背中につける。
そんなその場凌ぎの雑な方法で、俺は今日まで生きてきた。
たまに、皮膚を焼き切られているような激痛が襲ってくる以外は、何の異常もなく。
せめて、瑠璃が俺の手を離れるまでは、と。
自分が死にかけたことどころか、俺の羽が偽物だということすら、瑠璃は知らない。
教えるつもりも、ない。
「…結婚式を、延期する」
「…琥珀」
「そうしたら、瑠璃はまだ碧の手を離れてないことになるよね。だから、碧はここに居なくちゃいけない」
「…本当はお前も分かってるんだろ」
「何年、何十年、何百年でも…!」
「琥珀」
「何千年でも延期する!だから、ここに、」
「琥珀!」
一喝すると、言葉を途切れさせた琥珀が悔しそうに俯く。
「…ここに、居てよ…どこにもいかないで…」
延期なんかでどうにもならないことを、琥珀も、本当は分かっている。
だって、日頃俺の羽のメンテナンスをしているのは、琥珀だ。
きっと誰より、もう嫌というくらい理解しているはずの事実を、俺ははっきりと突きつける。
「合わなくなってきてるんだ、羽が」
明日、瑠璃の誕生日。
そして、琥珀と瑠璃の結婚式の日を待てずに。
俺の、タイムリミットはくる。
今夜、俺は居なくなる。
「式は延期するなよ」
白い頭が、小さく上下した。
「それとな、」
絶対に、幸せになれ。
俺の重い言葉に、琥珀の肩がかすかに震える。
俯いた琥珀はそのまま深く頷いて、涙を一粒こぼした。
「やっぱり!ここに居た!」
明るい声が降ってきて、斜め上の雲を見上げると、瑠璃が手を振っていた。
琥珀がさりげなく涙を拭うのを見て、俺は動きの悪い羽を羽ばたかせた。
あの日以来、瑠璃がここに下りるときは必ず俺か琥珀が付き添っている。
「下りるか?」
「んーん、早く帰って準備しなきゃ」
「だってよ、琥珀」
呼びかけると、琥珀が応じてすぐに飛んできた。
「瑠璃、ドレスはもういいの?」
琥珀の問いに、瑠璃は「うん!」と嬉しそうに返した。
そのやり取りを微笑ましく見ていたが、ふと気になって聞いてみる。
「そういえば、準備って何のだ?」
聞くと、二人は揃って驚いた顔をした。
「えっ、お兄ちゃん忘れてるの?」
忘れてる…?
首を捻ると、瑠璃と琥珀は顔を見合わせた。
二人は俺に背を向けて、ひそひそと話し出す。
「私のは絶対覚えてるのに、何でだろうね」
「碧ってしっかりしてるように見えて、たまーに抜けてるよね」
「うんうん」
「おい聞こえてるからな」
苦笑すると、二人は俺を振り返った。
「本当に覚えてないの?」
瑠璃の問いに頷くと、琥珀が呆れたように続ける。
「今日、碧の誕生日だよ」
「あ」
お兄ちゃんの誕生日会と、私たちの結婚おめでとう会だね!と数日前にはしゃいでいた瑠璃が頭に蘇った。
俺たちは日を跨いだ双子だ。
明日が瑠璃の誕生日なのは覚えてたけど、自分のはすっかり抜け落ちていた。
早く帰ろう!と満面の笑みを浮かべた瑠璃が、俺と琥珀の腕を引っ張る。
「三人ともお祝いあるのって滅多にないから、とびっきり豪華にしようね!」
「今日はみんなで一緒に寝ようよ!」
「嫌だ」
「なんでっ!?」
一瞬、答えに詰まる。
今夜出て行くから、なんて言えない。
「…何ででもだよ」
「ハロウィンのときは三人で一緒に寝たじゃん!」
「それは、そうだけど…」
あのときは、最近流行ってるからハロウィンしてみよう!なんて瑠璃が言い出して、仮装させられたりお菓子配ってまわったりで遊び疲れて寝落ちたのだ。
そういえば、二人とも子供みたいにはしゃいでたな、と思い出すと、可笑しくてつい笑ってしまう。
笑った俺に、瑠璃は畳みかける。
「それにさっ、明日結婚式なんだよ!今日くらい良いでしょー?」
お願い、と手を合わせられると弱い。
どう誤魔化すかな、と唸っていると、食器を洗い終えた琥珀が戻ってきた。
「なに、何の話?」
「琥珀、今日泊まっていくでしょ?」
「いや、今日は帰るよ」
帰り支度を始める琥珀に、瑠璃が目を丸くする。
「えっ、なんで?」
「今夜は家族水入らずで過ごしなよ」
「琥珀も家族みたいなものだよ」
「ありがとう。でも、」
琥珀がちらりと俺を見る。
「最後くらい、家族二人で、ね」
じゃあおやすみ、といつも通り穏やかに微笑んで、琥珀は帰った。
「…お兄ちゃん」
瑠璃が控えめに見上げてくる。
おそらく、自分が明日家を出ることを思い出したのだろう。
「…そうだな。今日は、一緒に寝ようか」
「やったー!枕運んでくるねっ」
鼻歌を歌いながら自室に戻る、楽しそうな後ろ姿を目に焼き付ける。
…瑠璃が寝静まってから、いけばいいか。
「…寝たか?」
声をかけても返事がない。
少し前までは、声を弾ませて取り留めのないこと話してたのにな。
さて―――いくか。
隣の高い体温に名残惜しさを感じつつ、それを振り払って身を起こす。
ベットを降りようとすると、くん、と後ろに引っ張られた。
「んん…おにいちゃん…?どっかいくの…?」
瑠璃に服の裾を握られていたようだ。
動揺を隠し、普段と変わらない声を出す。
「…水、飲みにいくだけだよ」
「そっかぁ」
瑠璃がふにゃ、と笑う。
でも、まだ指を離さない。
まさか、出て行くことを気付かれて…?
「ねぇ、お兄ちゃん?」
「…ん、何だ?」
動揺を誤魔化すように、瑠璃の柔らかい髪を梳く。
開ききっていなかった瑠璃の目が、さらにとろんと閉じかける。
「あのね、明日結婚するのは私と琥珀だけどさ」
「うん?」
優しく続きを促すと、瑠璃は猫のように俺の手に頭を擦りつけた。
幼いときから変わらない癖。
「三人で、しあわせになろうね…」
目を見開いて、息を呑む。
涙が、頬を伝った。
幸い、もう完全に目を閉じている瑠璃には気付かれない。
「……あぁ、もちろんだ」
応える声は震えていなかっただろうか。
瑠璃からの返事はない。
一定になった寝息に、俺はついに小さく嗚咽をこぼした。
ほんとうは。
本当は、いきたくなんてない。
大切な大切な可愛い妹も、優秀で不器用な幼馴染も、おいていきたくない。
三人で、幸せになりたい。
大事なんだ、二人とも。
今日まで二人をずっと焼き付けてきた。
楽しそうな笑顔も、嬉しそうな後ろ姿も、遊び疲れた幸せそうな寝顔も、不安げに見上げてくる瞳も、拗ねた横顔も、いかないでと震わせた声も。
好きなもの、嫌いなもの、怒られたときによく隠れる場所、お気に入りの服、足音、髪の柔らかさ、眠くなると高くなる体温、ちょっとした癖や仕草まで。
ぜんぶ、全部、鮮明に焼き付いてる。憶えてる。
頭をよぎる思い出の多さに、涙が止まらない。
偽物の羽を無理やり付けた背中が、急かすようにじくじくと痛む。
手放したくなんてない。離れていきたくなんてない。
しにたくなんて、ない。
俺が、二人をしあわせにしたい。
三人で、しあわせに、……なりたかったんだ。
「瑠璃…」
俺のかわいい妹よ。
兄の最期のお願いだ、どうか―――――
どうか、
「幸せでいてくれ…っ」
翌朝、瑠璃の隣に、碧は居なかった。
残されたのは、何も知らない瑠璃と、適当な言い訳の書き置き。
そして、お揃いの青い石のピアスだけだった。
【結婚おめでとう。
突然だけど、俺は遠くに行かなくちゃいけなくなった。
急だったから挨拶もなしで、ごめんな。
二人の結婚式が見られないのは本当に残念だけど…、
ごめん。
瑠璃、琥珀、どうか、幸せに。
遠くから祈ってます。
最後に。
誕生日、おめでとう、瑠璃。】
ありがとうございました。
この話はここで完結ですが、続きを書くつもりでいます。
次は琥珀目線の予定です。三人とも幸せにしたい。
この作品は都良(@tora_toyo)ちゃんの美麗イラストから生まれました。
お話を気に入ってくれた方も、私の力及ばずそうではなかった方も、元になった素晴らしいイラストだけは見に行ってくださると嬉しいです。
この子たちを書かせてくれた都良ちゃん、そして、ここまで読んでくださった方。
本当に、ありがとうございました。