第五十話 風間くんと姫宮さん
マズロー再登場。
「当たり前じゃない。あんなに素敵な子、そうはいないわよ。なにが不満なのよ」
「不満なんてありはしないさ。ただ不安なだけだ。もし、僕が彼女に恋をしたら、君と離れなければならない気がするんだ」
「そうなるでしょうね。浮気はいけないわ」
「浮気かどうか知らないけれど、僕は君とも同じときを過ごしたいんだ」
「口説いてるの? 正直に言って気持ち悪いのだけれど」
「厳しくない? そんなんじゃ彼氏できないよ?」
「いらないわよ。今のところね。だからごめんなさいあなたとは付き合えないわ月島さんとお幸せに」
え。なにその早口な台詞。僕振られたの?
「ちょっと待って。僕はまだ君に恋していない。月島さんにもだ。だから、お願いがある」
「なにかしら? セクハラしようものなら大声を出すわよ」
「ここでは出しても無駄なんじゃなかったっけ?」
「細かいことを気にするんじゃないわよ。それでなによお願いって。依頼ではないのよね」
「その通り。前とは違う。――えー、ごほん。姫宮燈火さん」
「はい」
「君に恋をさせて欲しい」
「・・・・・・はい?」
「僕はまだ恋を知らない。だけど、恋をするなら君か雫のどちらかだと思うんだ。だからどうか、僕に君を好きになる努力をさせて欲しいんだ」
「いやいや待ちなさいよ。あんた私のこと好きなの? しかも月島さんと選べないって? なにそれ。優柔不断じゃない。男として最低よ?」
「わかっているさ。小説の中でもどっちつかずの男は大抵悲惨な運命をたどったからね。だけど、僕はまだどちらを好きになるかわからない。どちらと恋に落ちるか未定なんだ。だから今度は依頼ではなく、君に改めてお願いがしたい。僕を君に惚れさせて欲しいんだ」
「月島さんはどうするのよ」
「マズローのピラミッドだよ。彼女は僕にもっとも近い異性だ。近いということは、それだけ関係が固まっているということでもある。マズロー氏によれば、安全・安定の欲求はピラミッドにおいて愛情欲求のすぐ下に位置していたはずだ。月島雫という存在は僕を構成する環境の一部となっているので、彼女もここに含まれることとなる。そうなると、いかに近しい異性と言えど、彼女を恋愛対象にすることはできなくなってしまう。なぜなら、そんなことをすれば僕のピラミッドが崩壊するのは目に見えて明らかなのだから」
いつか姫宮さんとした会話から導いた結論を、そのまま口にした。
僕は雫に恋はできない。
そんなことをすれば僕のピラミッドは跡形もなく崩れ去り、残るのは生物としての根源的欲求のみ。
それは獣であって人ではない。
姫宮さんを見る。
なぜかぽかんと口を開けて固まっていた。
一分ほど静寂を挟み、姫宮さんが口を開いた。
「あなた、それ本気で言ってるの?」
「? もちろんだ。至極論理的な帰結だと思うけど」
「これだから恋を知らない男は・・・・・・」
「なんだい? なにかおかしなことを言ったかな?」
「ええ。思いっきり言ったわよ。なーにがマズローよ。無理してよく知りもしない説を使うからわけわかんなくなるのよ。あなた、意外と馬鹿なのね。どうやら過大評価していたらしいわ。私としたことが・・・・・・」
「失礼な。僕の理論のどこに矛盾があるというんだ」
「別に理論自体が間違っているわけじゃないわ。間違っているのはあなたの考え方。簡単に言って頭が固いのよ」
「・・・・・・うん?」
「説明してあげる。あなたが言うに、月島さんは既にあなたの安定・安全欲求を支える環境要因となっている。だから愛情欲求という恋の対象にはできない。なぜなら、安定・安全欲求は愛情欲求よりも優先順位が高いから。ここまではいいわね?」
「ああ」
「よろしい。あなたの言いたいことはわかるわ。欲しいもののために、より大事なものを手放すなんて本末転倒。そう言いたいのでしょう。でも、それが間違いなの。なんで恋を、月島さんの位置を、引き下げる必要があるのよ。どうせなら一番必要な生理的欲求まで彼女の存在を高めればいいじゃない。君がいなければ生きていけない! そう言えるようになればいいのよ。それが恋ってものよ」
「・・・・・・」
「なにか言いなさいよ」
「・・・・・・君は天才か」
「アホ。恋する乙女なら誰だって知ってることよ。一応言っておくけど、あんたの妹じゃないわよ」
なんてことだ。僕は間違っていたというのか。
「つまり、恋はすべてを超越する?」
「さあ? 多分そうなんじゃない? 失恋したショックで体を壊す人もいるって聞くもの。でも、そこまで行くと最早愛よね。違いはよくわからないけど」
恋は他人を特別にする。
愛はすべてに勝る。
超素敵じゃないか。
「やはり僕の目は正しかった。姫宮さん。君は狭間くんと肩を並べる逸材だ。間違いない」
「間違いまくってるわよ! なんでいつもあいつが出てくるのよ!」
「ああなんてことだ。恋。そして愛。これこそ人類の生み出した究極の能力でなかろうか」
「知らないわよ。なんでちょっと中二入ってるのよ」
「姫宮さん」
「今度はなに」
「もう一度お願いする。君に恋をさせてくれ」
「・・・・・・なぜかしら。すごく嫌だわ」
「そんなことを言わないでおくれ。確かに僕は君も雫も好きだ。優柔不断と言われて当然だ。でも、君の話を聞いて気づいたんだ。僕は君に恋をしたい」
「月島さんはどうするのよ」
「もちろんないがしろにするつもりはない。でも、僕の心は決まった。僕が恋に落ちるなら、君しかいないと思うんだ。だからどうか、僕を君に惚れさせてくれ」
「・・・・・・ふーん」
姫宮さんはそっぽを向いてしまった。
なぜか指先で髪をくるくるしながら「ふーん。そうなんだ。へー」を繰り返す。
ちょっと頬も赤くなっているようだ。
これはもしや、脈あり! というやつだろうか。
次回、最終話です。
あと少しだけ、お付き合いください。




