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花絵は死んだ

作者: 夕暮れ散歩

死んだのは、花絵か《私》か。それとも同一人物なのか。


昭和の終わりの頃のお話。

#1 面倒な人たち#


何てことだ。

何が、何てことなんだろう。

見知らぬ影、赤い月、金縛りのように動かぬ体。

不思議だ、あったであろう筈の寒さも傷みも恐怖もない。

記憶がこれ以上薄れる前に、何があったのか思い出してみる。

目を瞑って、ゆっくりとで良い。

ここにいる前は………、

………そう、

まだ暖かい店の中………。


    ----------   


「おつかれー」

いきなり静かになった空間に響く声。

そしてライトアップ。

それほど暗い店内ではなかったが、陽が射したような灯りが点くと

甘い夢の世界から引きずり出されるような感覚。

数名の帰りそびれた客がいるがお構いなしに巻き添えだ。


店が終わって、きらびやかな社交さん達が忙しく帰り支度を始める。

お客と飲みに行く人、仲間同士で遊びに行く人、様々だ。

携帯など無いこの時代、店の黒電話もピンク電話も大混雑。

しかし花絵だけは風のように消える。

一度も寄り道をしたことがない。

今日も、既に姿はなかった。

「私」は花絵と仲が良いが一度も並んで帰った事はない。

花絵はこの通りだし、こちらは旦那が迎えに来る。

そして、一分でも早く帰りたい人がもうひとり。


とんでもない我が儘で口煩いが、可愛がってはくれる 姉…というか小姑のようなこの人、澪さん。


こちらを見た。

何か言いたげに近寄って来た。


「今日乗せてってくれる?」


迎えが来ることを知っている。

タクシーが捕まらないのだろう。

もちろん嫌とは言えないし、美人で勝ち気な澪さんは旦那も気に入っている。

機嫌が良ければ、あの偏屈男も喜んで送って行く。


ちょうど、その偏屈男から電話が入った。


旦那おとうさん)?」


と聞かれたので黙ってうなづいた。


「おぅ俺、今、浅野の店で飲んでるから来いよ」


知ってる店だ。浅野とは、旦那の友達。

いつもは飲んでる席に呼びたがらないが、楽しいのに迎えの時間になってしまったのだろう。


飲酒運転、今では非常識極まりない大罪だが、この時代あまりうるさくはなかった。

物凄い自信と素晴らしい運転技術により自己判断でヨシとしていた。

口など出したら怒鳴られた上に下手したら殴られる。

飲んでも乗るは当たり前で、捕まればただ終わるだけの事。

説教じみた言葉を吐こうが黙認しようが、やりたいようにやる。何も変わらない。


電話をしている後ろでは、澪さんが少しだけ苛々しながら待っていた。


いや困った、どちらも怒らせては面倒な人種だ。

何もなければ喜んで乗せて…いや、喜んで飲みに行く筈だった。

甘かった、こんな時には必ず何かある。


恐る恐る聞いてみる


「澪さんがね、送ってって、待ってるんだけど…」


このひとことで電話の向こう側のご機嫌な顔は一転、鬼の形相に変幻したのがわかった。


「俺は運転手じゃねぇぞっ」


耳を離す程の音量

運転手じゃんと突っ込みたくなったが我慢した。


それからも幾つか文句を言っていたが殆ど聞き取れなかった。

どれだけ気に入っている相手でも、自分のしていることを邪魔されるのは許さない。

そして「私」に当たる。

勝手に帰れ、だけ聞こえ、電話は切られた。


なんで「私」が怒鳴られる…と思いながらも

今度は澪さんに事情説明しなくてはならない。

こちらも気分を害している。

だがさすがに可哀想に思ったのか、イヤな顔をしただけ。


とりあえず、近くに

遅くまで開いているケーキで有名な喫茶店があるので、そこに行く事にした。







#2 水も滴る美女ビジョびじょ#


毎度の事だが、特に夜中のこの時間は近場に帰るとばれているのでタクシーは止まってくれない。


澪さんとお茶を飲みながら、喫茶店の公衆電話から、タクシー会社や旦那の友達の店に電話。

タクシーはまだ空き無し、旦那は電話に出てくれない。


電話台の脇のメモ帳に「ハナエ」と幾重にも乱暴になぞった落書き。

花絵もここでこの電話を使ったか。


雨までパラついてきてる。

そうこうしていると

数人の見た顔が入って来た。


「あれぇ澪さーん、どうしたの」


澪さんの仲間とりまきの性格のキツそうなお姉さん達。

こんな美女のかたまりも、私には黄泉の女神イザナミを囲む醜女しこめ軍団に見える。

いつもさっさと帰る澪さんが、こんな所にいるのが不思議なようだ。


澪さんをとても気に入っている太いかも(支払い最高!金持ってんぞ~ばら蒔くよんの客)と飲みに行くから、帰れないなら付き合ってくれ

と言っている。


こちらをチラと見て迷う素振り


「行きなよ、大丈夫だよ」


と笑って見せる。

不条理極まりないが

後々必ず、あの時お前がいなければ、という話になる。


最後にもう一度旦那に電話してみる。

機嫌が直ってるかもしれない。

雨も降って傘もない、タクシーも捕まらないと伝言。

ダメみたいだ。


あの落書きを、もう一度見ただけだった。

喫茶店も閉店なので外に出る。

澪さんはちょっと気まずそうな顔をして見るが

仲間のお姉さん達は、数の足りない傘を澪さんがひとりで使えるように譲っている。

数分の場所でも髪が濡れて崩れる。

さすが姉御、気を使われる。

そしてその人が、今度は気を使う素振り


「大丈夫?」


大嫌いな言葉。見りゃ分かるだろ全然大丈夫じゃない。


「大丈夫」


と笑って見せるが、悔しくて殆ど声にならない。


ゴメンネと申し訳なさそうな顔だけして行ってしまった。


仕方ないので歩きながらタクシーを探すが、一向に見つからない。

段々と雨が強くなってきた。

もぅどうでも良くなった。開き直って歩いて帰る事にした。

1時間はかからないだろう。

真夜中散歩も、いいもんだ。雨さえ降ってなきゃ。


しとしとと、雨が顔にあたる。

水も滴る良い女だぁ

なんて

つまらない慰めも始めのうちだけ。

また、雨の量が増えたようだ。


美容院でセットした髪は跡形もなく、見栄張りのスーツはビジャビジャ、

ブランドのバッグも靴もグジョグジョ。

負け犬、濡れ鼠…いやドブ鼠、そんな表現がぴったりなほど惨めな姿だった。


なんで、こんな目に合うかなぁ

と笑いながら、流れ落ちる冷たい雨に紛れてたっぷりと熱い涙を流した。





#3 濡れた女は外でしたくなった


いつもは人通りの多い道路だが、この雨じゃ皆さん建物の中に隠れてしまう。

夜道はちょっと怖い気もしたが…

大雨の真夜中に女ひとり傘もなく、ずっと歩いている画というのは、見ている方が怖いかもしれない。


「すみません、」


そんな怖い女に

車のウィンドから声をかける男がいた。

一瞬たじろいだが

物腰が丁寧だったので返事をすると、普通に道を聞かれた。


=すっぽり被ったフードが暖かそう=


こんな状態の女に道を聞くとか、よほど困っていたのだろうが、

この時間にうろちょろしてる奴っていうのは、自分も含めて変わりもんしかいないなと

ますますがっかりしながら、再び歩き出した。


まだ半分も来ていないが、雨にびっしょりと濡れた身体はかなり冷えていた。

喫茶店でガブガブと飲んだお茶も効いてきた。


=参った、家までまだまだなのに

こんな姿、誰にも見せられない

今日は人生最大の汚点になるだろな

もう少し我慢我慢=


神経までやられたのか、ぶつぶつ独り言を呟きながら、とぼとぼ。


それから20分程歩いただろうか、雨か涙か冷や汗か、もう見当がつかない。

鼻水も出て、自分でも泣いているのかさえ分からなくなっていた。

グシャグシャだ。


冷えきった身体は急速に、『行きたい』と主張しだす。



あと15分、あと10分、あと…


一歩踏み出すのも溢れてしまいそうな所まできていた。


限界。


限界だ。


ザーザー降りと暗闇のパワーを借りて

このまま[して]しまおうかと本気で考えていた。

顔色変えず止まりもしなければ分からないんじゃないか、


頭の中もどしゃ降りだ。

もしかしたら


=私は倒れているのではないのか=

とさえ思った。


=倒れたらもう迷いはないな、さぞやスッキリするのだろうな…=


ふらふらと足がもつれた気がした。

何度もしゃがみこんだ姿が浮かんだ。

何度も寝そべっている自分がいた。

地べたからの景色まで見えた。

その幻覚の瞬間は



全てが終わっていた。



=いい年をして、ブランドに身を包んだ女がお漏らしか=


想像したら口元が緩んだ。



頑張ってみた。

頑張って頑張って頑張ってみた。

人生最大の汚点の日は

人生最大の頑張りの日だった。


その甲斐あって家のまん前の公園まで辿り着いた。


やった、あと1分だ

その、何と嬉しかった事か!

しかし…





#4 幽霊を見たかとびびる#



しかし、しかし


その1分が持ちそうにもない。

エントランスのドアを開けてエレベータに乗って、廊下を歩いて部屋の前に着いたら鍵を開けて…

この何でもない一連の動作を無事に乗り切る事ができるか



もし途中で爆発したら…

誰か出てきたら…

防犯カメラがダミーじゃなかったら…

恐ろしい。




ゆっくり、ゆっくり

一歩一歩。


ダメ


やっぱりダメ


もうダメ



公園のトイレに行く。決めた。


真夜中の公園のトイレに行く。 決めた。


大雨の真夜中の公園のトイレに行く。

家のまん前の公園のトイレに行く。


信じられないけど行く。

怖い怖い怖い怖い怖い、いろんな意味で怖いが

背に腹は変えられないというもの。


悪寒が走る。顔は火照る。


できるだけ刺激を与えないよう、目の前の目的地に向かう。


軽く周りを見回し

灯りの付いた小さめのお家にスッと消えた。


比較的明るい室内で

少しほっとした気持ちになる。


個室に入り…


……………


……………


……ようやく


……………


………極楽浄土の気分を味わう。




=ほぉーぅっ=


=助かった=



こんなにホッとした経験も少ないが

ここでのんびりと余韻を味わってはいられない。



身体中びっしょりではあるが、手を軽く洗った。

変な所でピットインしたが、さっさと元の明るめのコースに戻りたい。


オアシスを出ると、異様な雰囲気に固まってしまった。

入って来た辺りにある木の影に、何か立っている。

人間?

であってほしいが、それもまた…。


その何かが何であるか分からないが、気持ちが悪いので離れる事にした。

奥に進まなくてはならない。急ぎ足で反対側の出入口に向かう。



再び、背中にぞわっと悪寒が走る。

未だかつて無いほどの我慢を強いられ、

未だかつて無いほどの至福の時を味わい、

その直後には、やはり未だかつて無いほどの恐怖を感じていた。


何か変なのは気のせいだろう、

あまりにも悲惨な体験をしたから、感覚が、どこかおかしくなったのだ、

とにかく早く帰って寝てしまおう、その前に熱いシャワー、いや肩までどっぷり湯に漬かる。


旦那が怒っていようがいまいが、 もうそんなのはどうでも良い。

再び至福の時を味わって

安心する自分を想像しながら、

断じて振り返るなどの愚かな真似はせず、治まらない悪寒は無視し、帰る事のみに神経を集中させ、

早足を小走りに変えた。





#5 月明かりの変身#



とにかく暗くて分かり辛いので、ちょこまかと動きながら奥に入ってしまったが、この高い木の群集を抜ければ道路に出られる。

多少のまわり道くらい、もう何ともない。


濡れた大きな葉がぺたりと顔について

驚いたり気味が悪かったりで、はやく抜けたい。

木々の隙間から道路の灯りがちらほら見えた。

今度は猪のように真っ直ぐ走っている。


一瞬、暗い視界の端っこに、闇にも関わらず影が見えた。

顔が無意識にそちらを向くが、足は慌てて灯りの方に向かっていた。


それどころではなかったので気づかなかったが、雨は止んでいた。月まで出ている。

少しはほっと‐‐‐


落ち着くどころか

満月を見て何かに変身するかとも思えるほど高ぶった。

影が近づいて来たのだ。

きっと知り合いが、どうしたのかと寄ってきたに違いない、そして、驚かさないでよ~と、オチがついた所で爆笑して帰るのだ、

そうに決まっている。


では知り合いとは誰だろう、

親しい人であれば良いな、

願いを込めて 月明かりが届く場所に来るまで待っていた。

というより、実は足がすくんで動けなくなっていた。



ずいぶん近くまで来て、やっとそれが人間の男だと確信したのは、

静かな声で話しかけてきたからだった。



「…サン、…ナエさん…花絵さん?」


なんだ花絵の知り合いかと、少しは安心して足も動いたが、まだ震えが治まらない。


「歩いてる?花絵さん………立った立った、花絵が立った」


血の気が引いた思いがした。

=何!?意味不明な事を言って= 

今はまだ物静かだが、すぐに暴れだすのだろう

益々震えがきた。


できる限り毅然たる態度で =違います= といい放つ。


「じゃぁ、なにえさん?」


何で‘○○え’限定なんだろうか

とにかく逃げたい

相手にせずに走りだそうとした途端肩をむんずと鷲掴みにされた。

顔が目の前にキタ


=すっぽり被ったフードが暖かそう=




       っ!?




あぁこの顔は…

あれから尾けて来たのか

なんて事だ最悪だ

何を盗る気か

お金ならバッグの中だ

悲鳴にならない悲鳴をあげ、バッグを押し付ける

それとも

こんな所で強姦され

そして殺される、

もしかしたら

その逆かもしれない


絶望…今日で終わり


たいした事もない人生だったが、まぁまぁそれなりに過ごしてきた。これから楽しくと思っていたけど、キツい人達に気を使って、振り回されて…

辛い事の方が目立つ毎日だった。





#6 先生、さようなら 皆さん、さようなら#



これで終わってしまうのか、あまりにも意味のない、可哀想な人生じゃないのかしら


そうだ、まだじゅうぶん楽しく生きていない、いやだっ

やっぱりいやだっ

しかもこんなバカらしい最期あるかっ



窮鼠猫きゅうそ ねこを噛むの例え通り、男も狼になったが諦めうなだれていた小動物は、地割れがするほどの叫びと共に牙を剥いた。


驚いて怯んだ男を突き飛ばし素早く逃げたが男も慌てて飛びかかってきた。

その勢いで木に激突

――強い衝撃、

腕を捕まれ、そのまま地面に叩きつけられた。

それだけでも二度めの強い衝撃だったが

何か固いものに後頭部をおもいっきりぶつけた。

倒された拍子に石にでも当たったか?

違う。

男が金属のような物で叩いたのだ。

何故そんな…訳がわからない、時間も感情も何の感覚もなくなった。


凶器は再び振り上げられ今度は額を狙い打ちされた。


朦朧もうろうとした意識の中で、男の顔に何かが飛んだのが見えた。


血…


男のものではない事はすぐに分かった。


やっと思い出した。何てことだ、とはこの事で

これを思い出すために時間を遡って記憶を辿り、そしてここまで戻って来たのだ。


やはり…終わりか


意外に冷静に思う。



小さい頃の自分、ニコニコ顔で帰り支度をする児童たち。

先生、さようなら

皆さん、さようなら


あ、あのこ、親友だったあのこ

会ってないなぁ



中学校の部活 じゃれあう子犬みたいな恋

黄昏時の下校


トワイライトタイムは

トイレットタイム、似てるだろ、じゃあなバイバイ また明日なー


バイバイ明日ね、似てるって発音が?

やぁね、トイレ行きたいの?

急いで帰らなきゃね

また明日、会いたいね、明日って何だっけ



高校の卒業式   仲良かったね、あんた、今どうしてる?まだモノマネなんかしてるのかな、


「卒業したからって

{おおまがどき}には帰るんですよ、」だってさ、先生

最後のお説教だって


逢魔時(おうまがどき)は「魔物に出逢いそうな夕暮れ時」、大禍時(おおまがどき)は「著しく不吉な夜の時間」だそうですよ

うける?

「皆さんお元気で」って涙ぐんでたよ

うける?


うん、うけるよ、あんたも面白い子だったよね、私たち、いつも笑ってた。

今更だけど、いい先生だったよね。

先生、お元気ですか

私は元気です。 でももう、ほんとのお別れのようです。

先生、さようなら

皆さん、さようなら




しかめっ面の父親の珍しく笑った顔が浮かぶ。

母親の、反抗した私に悲しそうに微笑んだ顔が忘れられない。

ごめん、幸せになれなくて。


意識は、夜空の先のもっと向こうへ飛んで行った。





#7 こんな夢を見た# 


静けさの中にいた。

待ちわびた平穏。

目を瞑ったままでも、

今更ながら闇夜から白々しく抜けようとする気配を感じた。

どうやら、辛うじて生きているようだ。



しかしこのまま横たわっているのは実に楽だった。

彼方からの風に微かにそよぐ枯れ葉みたいに軽い。


無理に起き上がって誰が喜ぶのか、この先、憂いの眉を開ける日がやって来るのだろうか、

いっそこのまま風になってしまおう。

まだ陽が上る少し前の、この一瞬の青の時間に。



綺麗なのだろうな、滅多に見ることもなかったこの空、澄みきった蒼穹(そうきゅう)のそれとは違う、静寂の中の凛とした青。



そうだ、この世の見納めに、ちょうどの景色を目に焼きつけて

深く眠っても良いかもしれない。

心に刻むのだ、

これで「私」は、安堵できるのだと。




そして、一度だけのつもりで、ゆっくりと目を開けた。





暫くは、

茫然たる前途に似合いの姿らしく、景色の一部となって

青だの風だの静寂だのに溶けていた。


定まらぬ焦点で空を見ていた。

瞳に、まだ強い光が届かない空の照り返しが映る。

鈍く輝く。



こんな、雰囲気の、映画か何か―――観たことがある…


はっとした。

今まで夢を見ていたかのように感じた。

ならば悪夢、覚めればうつつ、それもまた悪夢。




だが

帰らなくちゃ

帰らなくちゃ




いきなり、ありふれた現実に戻ると焦りだしたように立ち上がり すぐ近くの我が家に向かう。


身体中には血だのアザだの、痛みと不快で歩きにくい。

泥まみれで気持ちが悪い。

当初の予定通り、帰ったらすぐに湯に浸かろう。



痛い身体を引きずるように、しかし、

矛盾だが早く着きたいという一心からなのか、自分ではそんなつもりはなかったが、

走馬灯の影絵のようにするすると進んでいった。



気づくと、部屋のドアの前に浮浪のように立っていた。



開けようとするが、いつになく重い。疲れと痛みで力が入らないのだろう。

めいっぱいの気力で開けた。

そのまま倒れ込むように入ったので、壁にぶつかってしまい大きな音がした。


既に帰宅していた旦那は、居間でうたた寝をしていたが、音に気づいて玄関の方を見た。

怪訝そうな顔でじっと見た。数秒見つめあった筈だが、すぐに元の体勢に戻る。



まだ怒っているのだろうが、こんな悲惨な姿を見ても顔色ひとつ変えないとは、酷いを越えて

その頑強さに感心するばかりだ。





#8 大きな海に抱かれて#



いつでも別れていいと思っているのだろう、それならそれで構わない。

一緒にいて惨めになるくらいなら、ひとりの方が何倍も楽しい。


とにかく、今は風呂だ、何がなんでも風呂だ。

浴槽に湯を張る。


その間に、なるべく傷や打撲に触れないよう、少しずつそっと、服を外していった。


       ‐‐ イ タ タ タ …


あれだけの事があったのだから、半端な怪我ではない。

いくら汚れが酷いとしても、よく風呂に入る元気があるものだ。

今度は自分に感心。



シャワーで軽く汚れを流す。


=あったかい=




冷えた身体は優しい温水に蕩けてしまいそう。

汚れと共に流されないよう気をしっかりと保つ。

待ちきれず、浴槽に入りながら溜まるのを待つことにした。


だんだんと増えてゆく湯にふわりと包まれて眠くなる。

深い海の底にも温泉が湧く所があると聞いたが、

その海底とこの浴槽が、まるでリンクしているかのように吸い寄せられて行く。


広すぎる、しかも温かい海の中で、ただもたれているだけ。



役目を終えて、後は寿命が尽きるのを待つだけのタツノオトシゴみたいに、

ゆらゆらと揺れながら沈んで行く。

その先には何があるのだろう

天国かそれとも地獄


今となっては

そんな事はどうでもいい、このやすらぎがたまらない。



もう少し、

夢の中にいたかったが、風呂場の外側で大きなぼやき声が響いた。


『なんだこりゃあ、ビショビショじゃねえか』


水死体のような状態から、この場所が浴槽の中であることを思いだした。

いつの間にか湯が溢れていた。

流れきれない泥のせいで排水溝は詰まり、洗い場はプールになっていた。

ドアの外にも流れてしまったのだろう。

慌ててカランを閉める。

風呂のドアが小さく開いた。

文句を言いに来たのだろうが、無視していようと決めた。

だが、

小さく開いたドアからじっとこちらを覗くだけで何も言わない。

なぜ黙っているのだろう、不気味だ、まるで幽霊にでも睨まれているようで怖くなった。


結局何もせずドアは閉められた。


妙にほっとして、再び気持ちも身体もほわんとした。


そして海に戻り、いよいよ眠ってしまったようだ。


どのくらいの時間が経ったのかわからないが、

玄関の扉が閉まり、鍵をかけた音が聞こえた。

旦那が出かけた?仕事に行った?今日は何曜日?

何もわからない。





#9 咲いた花 枯れた花#



とにかく、

いつまでも此処に居る訳にもいかないので、出ようとしたのだがどうにも力が入らない。


立てないし、その前に動けない。

浴槽につかまって足を踏ん張って這い上がる。ずるずると滑りながらようやく出る。

随分と、ぶざまな格好だ。


起きようとしても、磁石のようにくっついてしまう、 或いは物凄い圧で押し潰されているかのようだ。


このまま動けなくなってしまうのかもしれない。

せっかく九死に一生を得て生還したというのに

あぁ、何てこった。


腕や足を使って体を引きずり、まるでホラーに出てくる怨霊のような姿で寝室まで辿りつき、無理やりベッドによじ上った。


=いいや、寝てしまえばいいや。

     このままになったとしても、そこいらで転がっているよりまだマシだろう=



季節が、そろそろ移り変わるのだと気づいたのは

向こう側のベランダに見える朝顔だか、夕顔だか、

薄曇りの弱い陽射しの中で必死に咲こうとする鉢植えがあったからだった。


その姿は

短い時間ながらこれから活躍すると言いたげに

まさに今、ラッパは開く為にあるのだと、得意気に見せつけている。


しかし

このけなげで可愛らしい開花も何の励ましにもならず


残すところ僅かで燃え尽きるであろう我が身は

まさに今、瞼は閉じる為にあるのだと、うなだれ確信している。




  ━━━━━━   


     ━━━━━━暫く恍惚としてやりすごしていたが


どうやら鉢植えは朝顔だったようで、雲は流れ明るい空になっていた。

居間で話し声がしている。

帰宅した旦那の声と



…澪さんだ、澪さんが来ている、顔も出さずに寝ているわけには、

だが起きられそうもない。

仕方がないのでそのままでいたが、どうもいつもと雰囲気が違う。

会話が、途切れとぎれに耳に入ってくる。

遠めの声からでも、数少なく打つ相槌からでも、二人の動揺した様子が伺われる。


=どうしたんだろう、いったい何があったのかしら=


神経を集中させる。



『…大雨の降った日…私はね………だから…襲われ…………この前の……夜中の…』



=大雨、この前って?昨日じゃない?まさか、おかしいよ、襲われたって、澪さん襲われたの?=



すぐには理解できなかった。そして、フードの男の顔が浮かび、恐怖がよみがえる。



『…あんな酷い…可哀想に……痛かったろうに……花絵、死んだなんて…』


=えぇっ、花絵が死んだっ=



枯れた瞼に溢れる涙はとどまる事がなかった。





#10 儚い思い出#



花絵と自分は、見た目も生活環境も似ていて姉妹のようだったが、


どちらかと言うと控えめで臆病、家で過ごす方が好きな自分、それと真逆の彼女は、

快活で度胸があり、いつでも何処でも話のイニシアチブを取る立場にいた。



本当は澪さんは、 そして旦那も 花絵の方がお気に入りだった。


だが、強い者は扱い難い事もあり、妹分のようにするなら、女房にするなら---

という所だ。

そんな対照的で妙な間柄でも、ひがんだり悲観したりする事などない、実に素敵な友だった。


なのに

そんな酷い目に合うなんて

なのに

もう二度と会えないなんて

なのに

=どうしても思い出せない=

なんて


話をした事、感触、しぐさや香り、声や顔さえも、何ひとつ思い出せない。


=「私」の中から消えてしまうのか花絵=



居たことすら忘れてしまいそうに、あやふやな存在になる。


居た堪れず、ベットから這い出る。

二人の所に行って話を聞きたかった。


寝室まで来るのに

あれほどの苦労をしたにもかかわらず、今度は雲の上でも歩いているかのように、ふわふわと進んで行った。



あの時、公園から家まで早く着きたいとだけ願い、気づくと着いていた。

今また、一心に願っただけでこんなに軽くなる。

<病は気から>みたいなものなのか、

不思議だ。



居間に行くと、澪さんはもう帰っていた。

旦那は、ストレートでお酒を飲んで眠っているようだ。

グラスとボトルだけが出ている。



出会った頃は、酔い漬れたこの人に、よく文句を言ったりした。


どうかなと遠慮がちに話しかけてみる。



=風邪ひくよ、ちゃんと寝なさいよ=


「…うん…ああ…」


返事をした。だが寝ている。寝ぼけているのか、夢を見ているのか、それとも寝たふりをしているのか。



すると、かすれそうな声で続けた。


「---悪かったな…やり直せればな…時間が、戻ればな…」



そろそろ機嫌も戻る頃だが、花絵の事でナーバスになっているんだろう。

ずいぶんと気弱だ。


「…どこにも

行くな……


そばに……いろよ…」


それから後の言葉は、言葉というにはあまりに波動的で聞きとれる事はなかったが、

感じたまま受け止めた。


毎度の事と思いながらも、情けない女だが涙が溢れそうだった。



ただ横にいるだけの平和な時を暫く過ごした。





#11 墓参りの話#



そういえば

幼なじみと、共通の亡き親友の墓参りに行くのが年に一度の行事になっているのだが、そろそろ時期だ。


墓石とその周りの掃除をして水と花を手向けたら、好きだった煙草を供え、可愛らしい柄付きの小さな紙コップにブラックコーヒーを注ぎ献杯をし、

暫くの間、墓前で時空を越えてのガールズトークに花を咲かせる。



いつもの待ち合わせ場所は、メトロに乗って、

【つづき】という町の

【新し羽】という駅。

そこからタラタラと、できた頃にはさぞお洒落だったであろう遊歩道を進み、老人施設らしきを横切り、

実に小さな公園【神隠し公園】を抜ける。

あの公園も、こんなに小さければ、あんな事にはならなかったろうに。

だったらどうという事でもないが、何でもかんでも、ただ悔やまれる。

この世の友とあの世の友に無性に会いたくなって、

旦那に墓参りに行きたい旨を話そうとすると


「うん、そうだな、墓参りの相談をな」


まだ話しかけてもいないのに、突然ぼそっと呟くと、するりと立ち上がり出かける様子。


自分も慌てて………、  そういえばあの時、ズルズルと体をひきづりながらようやくベッドまでたどり着いた時、何かを着た記憶はない、じゃあ今は何を着ているんだろう。


とんでもない事のような気もするが、裸でいる感覚もないので

さほど意識もせずに、我が亭主について外に出る。


ーーー例の、あの、公園に近づく。前を通る。

何か嫌だ。

怖い。

この人の陰に隠れて歩くのは、だからという訳ではない。

何の不思議もない、いつもの風景だった。


ところが、妙にこちらをじろじろと見ている男がいた。

喧嘩っぱやいこの人が、怒りだすのではないかと、その方を心配した。


だがすぐに道の向こうから手を振り呼ぶ声がした。


「おとうさん、こっち」


澪さんだ、良かった、これで気が逸れる。

少しほっとして声をかける。


=澪さん、おはよう=


「おぅ、澪ちゃん、悪いな」


続いて旦那が声をかけると、返事をしてくれる。


「おはよー」


今が何時なんだか見当もつかないが、その日初めて会えば私たちはこれで良い。


「見て見て、ここならお墓参りにも行きやすいでしょ、」


=誰のお墓?=


澪さんが広げた冊子を旦那の肩越しに覗きこむ。


「そうだな、景色もいいし、ここなら花絵も喜ぶだろうなぁ」


花絵の墓なんだ、ほんとうに素敵な所。

うっとりと眺めたが、急に寂しくなってしまった。


ほんとうに、花絵は死んだのだと実感してきた。





#12 再生の記憶#



話をしている旦那の背側に、じろじろ男はいた。

澪さんが気づき横を向いたまま小声で、見た事がある奴だ、云々 、 と言う。

あの辺りでウロウロしていた奴というのはこの男なのか、と思った。

するとその言葉が終わるか終わらないかのうちに、案の定旦那はくるりと振り向いてソイツを睨みつけた。


じろじろ男はサッと後ろ向きになり、うつむいたまま そっと、誤魔化すように再び振り返る。

今度はフードで顔を覆っている。

=すっぽり被ったフードが暑苦しい…=

アツクルシイ?

 …‥アタタカソウ?

 …スッポリ カブッタ


             フードガ アタタカ ソウ…


                   スッポリ カブッタ フード ガ

…… …… …… …… ……  …… ア

…… …… …… …… …… タ

…… …… …… ……タ

…… …… ……カ

…… ……ソ

…… ウ………。  



体が痙攣した、腰が砕けそうになった。

誰もが知るところの名画のような恐ろしい叫び顔になった。


そしてそれを見たじろじろ男はーーーーー恐怖の表情で後退りをし足を絡ませ転倒。

じろじろ男は、あの、フードの男だった。


悪事を見透かされた犯人と犯人を見た被害者が怯える横で、旦那は独り言を喋りだした。


「あいつか…‥…、  やっぱりおまえ、そばに、ずっと、俺の、……悔しくて悲しくて、 ずっと ……」


息をつまらせながら涙をためて震え出す。

殺してしまいそうな勢いで男に掴みかかっていく。

その姿に澪さんが驚いて声をかける。


「どうしたのっおとうさんっ」


=やめてやめて、そんな事をしたって どうにも ならない =


この場にいる全員のアドレナリンがドックンドックンと沸騰しだした。

ことに犯人と被害者の興奮度は尋常ではなく


異様な空気は竜巻になりグルグルと周りながら襲いかかる。


あらゆる光が体の中からビッグバンかのように飛び出して行く、

そしてこれが!フラッシュバックというものなのだろうか、瞬間、ひと場面が現われ またひと場面が現われ それらは 一瞬であり スローであり

記憶の糸を辿るように若き頃へと戻り、赤子時期まで遡ると母の笑み と父の はにかみ を確認し再び元の時代へと向かう。


友と戯れ、初恋に心焦がし、あらゆる仕事を経て この人達と出会い、バカな事嫌な事楽しい事、ひとつひとつが今はっきりと思い出される。


そして ーーー


澪さんといたあの喫茶店。

電話を片手にメモを書く自分、

幾重にも乱雑になぞっている文字は

今その場でガチャガチャと八つ当たりのように書いているその文字は


== ハナエ ==


書いていたのは自分自身であった


深夜の土砂降りに倒れ、道路にぴったりと顔をつけ、飛び跳ねるしずくを眺めていたのは幻覚ではなく


==自身の視線==


そしてよたよたと立ち上がり歩きながら


こんな自分はいやだ、こんなのは自分ではない、自分はもっと生き生きとして賢く、幸せな女のはずだ、

これは誰、なぜここにいる、本当の自分に戻る、今すぐに!


精神の館の真ん中に立ち大声で叫ぶと頬に流れる大粒の涙の温もりが甦る。

本来の自分に戻る為に全てを否定した。

そして

公園で瀕死の状態で横たわっている可哀想な女から遠ざかる。



途端に世界は爆発し消滅した。



       ∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵


         


         ∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴




気づくと …


変な言い方だが自分はいない。

世界は創世記から同じ歴史を繰り返し、

この時代まで進んだ、かのように何もかもが自然だった。



何があったのだろう、旦那が、旦那だったような気がする人が

誰かの写真を見て物思いにふけっていた。


ーーー 全部済んだ。


ぼそり呟く。


ーーー 何処にも行くなよ。


あぁ始まった。自分だけ機嫌が直って自己満足の独りよがり。

つまらない事でいきなり沸騰して、くそみそぼろくそに潰しまくって

何日も辛く当たったかとおもえば、唐突に機嫌が直る。

そして何事もなかったかのように通常の生活に戻り、こちらの対応も決して間違えさせない。

どれだけ傷つけたかなんて考えやしない。

相手の感情などおかまいなしだ。


<私> は、初めてはっきりと<私>という。

そしてこれからは

きちんと <私>を認めてくれる人達とその世界を見つけたい。

だからあなたの元へは、もう帰らない。

あなたに別れを告げ、何処へ行くのだろう。

何もわからない。

気づくのが遅いかもしれないけれど、心配はいらない。

取り戻した<私>があるから。


あなたがいたから、気がつけた。

ありがとう。

でも、さようなら。

ここには居られない。

あなたと過ごした時間も、喜びも哀しみも、怒りも憤りも、愛も夢も、全て捨てていく。

さようなら、あなたのわたし。


さようなら。


,

,

,

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,

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…………………………

…………………………



だって、


花絵は死んだ のだから


































《私》は自立できたのでしょうか。

精神的なお話で、分かりにくかったかもしれません。


ありがとうございました。


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