賢者じゃなくなりました
賢者。その称号は世界中の人々、少なくともの魔法使いとして至高の存在であり憧れである。
その称号を持つだけで一生を遊んで過ごせるだけの大金と名誉が手に入る。しかし賢者はその金と名誉を自らの醜い欲望に汚されず、魔法の真理を追い求めるのである。
賢者から言わせてみれば、賢者などという称号はひとつの通過点であり、気づけばなっていたものである。
というのは一部のトップを走る賢者の戯言と、民衆が勝手に思い描く妄想であり、実際はそこまで立派な賢者などせいぜい半分位のものである。それでも、半分はそう思って真摯に魔法の研究を行っているのは素晴らしいことであるのは間違いない事実である。
しかし、その半分は自堕落な生活に溺れてしまうこともしばしばあり、自らを過信して力及ばずに賢者を剥奪される者、その力を悪い方向へ持っていこうとする者もいる。
そして、現在酒場で安酒をあおる黒髪の男フィルアは、今日をもって賢者の称号を剥奪された一人であった。
「聞いてくれよカイル。国王様は騙されている。俺ははめられたんだ」
フィルアの恨めしそうな発言に、金髪の20代に差し掛かるであろう好青年のカイルは困ったように頭を掻いた。
「ええと、まあ近々そうなるとは思ってましたけど……」
フィルアの楽そうな軽装は違い、カイルは清潔感のある軽装にロングコートを纏い、腰のベルトに綺麗な装飾が施された剣がぶら下げている。
フィルアとカイルは簡単に言ってしまうと飲み仲間であるのだが、カイルはフィルアの自堕落な性格を知っている。そんな彼が賢者の称号を剥奪されてしまうことは何となく分かっていたことであった。
「俺のコツコツと積み立ててきた貯金まで奪われてしまって……。俺は明日からどう生きていけばいいんだよ」
「ま、まあまあ。フィルアさんならいくらでも稼げるでしょ」
「俺はなあ、カイル。働くのが嫌だったから賢者になったんだよ。宮廷魔法士にでもなってみろ命懸けで国のために生きてそこそこの給料とか頭おかしいわ。騎士も騎士で何が楽しくて人守って安月給なんだよ。その分、賢者なんて楽なもんだったよ……。まあ、魔法の研究に勤しんでるやつは大変だろうがな」
「その発言、いろんな人に怒られそうですね」
不満そうなフィルアに、カイルは苦笑いしか出なかった。カイルはしがない冒険者であるため、憤りを感じることはないが、フィルアの発言を賢者や宮廷魔法士、騎士が聞けば殴られても文句は言えないだろう。それにこの事についてはフィルアが自堕落に怠慢を貪ったための自業自得。カイルはフォローの言葉が思い浮かばなかった。
安酒をぐびぐびと飲みながら、安いつまみを食べているフィルアの非想的な姿は、カイルにとって気のいいものでもなかった。
「フィルアさん。よかったらうちのパーティーに入りませんか?」
そのため、気を紛らわせるためと、酒の軽いノリでカイルは言った。
「無理。お前のパーティー弱いもん。しかも無名だし」
「酷くないですか!?」
即答で拒否された上に罵倒されたカイルは涙目で抗議する。冗談だとフィルアは笑い、カイルは腑に落ちないように眉を傾けた。
冒険者ギルドに属するカイルのパーティーは決して弱くも無名でもない。むしろ若くして高ランクのメンバーに恵まれ、最近ではそこそこ有名になってきたパーティーである。たった四人の少数精鋭のパーティーながら、その人柄と依頼の達成率からギルドでも評判がいい。
しかしながら以前にもちらちらとフィルアをパーティーに誘っているカイルなのだが、その返答はいまいちで、未だに飲み仲間程度の仲だった。
「にしてもだカイル。賢者落ちなんでどうでもいい。俺の才能を持ってすればまた金くらい稼げるはずだ。が、それ以上の不満がある」
そう言ってフィルアはずいっと身を乗り出してカイルを指さした。
「カイルお前、俺の知らないあいだにゴールドランクまで上がっているな。しかも巷で噂の実力派パーティーときた。賢者落ちの俺と比べたらもう上の人となってしまった」
フィルアは、カイルの順風満帆な下克上ぶりに焦りを感じていた。
「いや、まあ頑張ってますから」
「何? ギルドの人に体売ってんの?」
「何でそうなるんですか! コツコツと努力してるんですよ!」
「嘘つけ! お前が俺より上とかありえん!」
「全部フィルアさんの自滅じゃないですか」
声を荒らげて抗議するフィルアに、カイルはため息をついた。上位ランカーであるカイルだが、それも賢者と比べたら遥かに下の位だった。自らの怠慢のせいで身を滅ぼそうとしているフィルアは理不尽に文句を述べていると、柄の悪そうな甲高い声が酒場に響き、あたりの視線を集めた。
「おっ。これはこれは高名な賢者さんじゃないか! 随分とみすぼらしい格好をしてるが何かあったのか?」
耳の痛くなる声に怒りがこみ上げてくるフィルアが振り向くと、長髪のひょろ長い男が嫌な笑みを浮かべていた。この酒場によく訪れる、デニアスという長髪の男に、フィルアは一瞥して言う。
「うるせえハゲ。すっこんでろ無名雑魚」
相手にしていないフィルアに、デニアスは青筋を立てるが、すぐに持ち直したように口角を上げる。
「おうおう、賢者落ちがよく言うぜ。もうここらで話題になってんぞ。もう俺たちにでかいツラできねえよな。なあ皆! この賢者落ちに散々馬鹿にされてきたんだ。袋叩きにしようぜ」
デニアスがでかい声を張り上げると、店中から笑い声が上がり、そうだそうだと客がわめきたてる。
「もうただの一般人だ! 俺たちの鬱憤を晴らす時が来た!」
デニアスの煽りで、客たちがヒートアップし、喧騒に包まれる。場の雰囲気が悪くなってきたことで、フィルアが鬼の形相で震えているのをカイルは見た。
慌ててフィルアをなだめようとしたとき、デニアスが鈍い音と共に吹き飛び、他の客席へと突っ込んだ。デニアスを吹き飛ばした張本人であるフィルアは、グラスを叩きつけて立ち上がった。
「よし! お前ら全員滅ぼす! かかってこい有象無象どもが!」
フィルアは簡単な魔法をデニアスの意識外から放ち、吹き飛ばしたのだが、当のデニアスはピクピクと震えていて立ち上がる様子は見えなかった。しかし、その事をきっかけに、酒場が荒れた。
一触即発を通り過ぎ、その場の全員が武器を持ち、立ち上がる。もうカイルにはどうすることもできず、安全圏に逃げて見守ることにした。
「全員死ねえええええええっ、――ぶっ!」
「何がかかってこいだ! 俺の店で暴れるんじゃねえ!」
フィルアが無残に殴り飛ばされて床に転がると、酒場の店主が怒鳴った。ハゲ頭にエプロン姿の筋肉隆々とした酒場の店主は、獣のような眼光を店中に振りまくと、しんっと場が静まり返る。その姿は熊のようで、誰も逆らおうともせずに何事もなかったかのように席についてそれぞれの会話に戻っていった。
「だ、誰だ。俺に極大魔法を放った奴は……」
「フィルアさん、殴られただけですよ」
よろめきながら身を起こしたフィルアをカイルが支える。それを見て店主はフィルアの胸ぐらをつかんで無理やり持ち上げた。
「よお、フィルア。店で暴れんなって前にも言ったよな」
「うるせえ本物のハゲ。客に暴力振るうな」
あくまで反抗的なフィルアの態度にさらに眼光を強めた店主は、フィルアの数センチくらいの距離まで顔を近づけで声色を落とした。
「賢者落ちだけじゃなくて命も落としてみるか?」
ただの人間とは思えない店主の気迫に、フィルアは冷や汗を流す。フィルアよりも遥かに大きい筋肉の塊のような店主に殺されるビジョンしか見えず、声を震わせるしかなかった。
「ご、ごめんなさい」
絞り出した声は弱々しく、フィルアは静かに店を汚した罰として掃除する羽目になった。カイルに助けを求めるように視線を送ろうとする。
カイルはそそくさと帰っていた。