第十話 月とスフェラ ※挿絵
ある日の夕食後、宮殿の中庭に面した回廊を歩く隼の耳に、明るく話す少女たちの声が聞こえてきた。
立ち止まって振り返ると、中庭へ続く階段に並んで座り、夜空を見上げている莉香とニーメの背中があった。
「月って、本当に日に日に丸くなっていくんですね。不思議」
「今日は満月なのかな。もう、ほとんどまん丸よね」
嘆息まじりに話すニーメに続いて、莉香の弾むような声がした。
「満月を過ぎると、今度は逆に細くなっていって、半月ほどで全く見えなくなるの。それからまた細い月が現れて……。それ以降は、ずっとその繰り返し」
莉香の説明に、ニーメはもう一度「不思議」と呟いた。
「私、夜って闇しかなくて、何も見えない怖いものだと思っていました」
ニーメがそう言うと、莉香も大きく頷いて再び空を見上げた。
「私たちが住んでいたところでは、夜も町が明るすぎてね。月の光だけでこんなに明るいなんて、私も知らなかったわ」
そこで一旦顔を見合わせた少女らは、次の瞬間、弾けたように肩を震わせて笑いだした。
そんな二人を遠目に見ていた隼は、ほっとため息をついた。
ここに来てからは、彼自身色々なことがありすぎて、正直、莉香のことを気にかけている余裕などなかった。
自分が神学校へ行っている間、彼女がどう過ごしているかなんて考えたこともなかったが、この様子だと世話役のニーメと仲良くやっているようだ。
(でも、こいつらは恋敵なんだよな)
ふと、嫌なことを思い出したと舌打ちをして、隼は再び歩き始めた。
(なんで、よりにもよって二人揃ってあんなおっさんを……)
「メシアもお月見ですか」
彼が早足で歩き始めた直後、目の前に長身の男が立ち塞がった。
(出た)
嫌な予感がして顔を上げると、やはりそこにはダリアンが立っていた。
「あら、矢沢くん。ダリアンさんも」
ダリアンの声に気がついた莉香が、嬉しそうな笑顔を浮かべて手を振った。
(三角関係のいざこざに巻き込まれるなんて、まっぴらだ)
そう思った隼は、ダリアンの前をすり抜けて、再びその場から立ち去ろうとした。
「お待ちください、メシア。あなたに伺いたいことがあります」
肩に手を置いて呼び止められた隼は、肩越しに眉をひそめて銀髪の男を見上げた。
「この前、月についての講義中、何か言いかけていましたよね。何を言おうとされたのか、よかったら教えていただけませんか」
「講義中?」
隼は顎に手を当てて、しばらく記憶を探った。
「……あ、ああ、あれか」
初めて神学校でダリアンの講義を受けた時、その内容からある推測に至った彼は、思わず声を漏らしてしまったのだ。
あの時も、ダリアンに訳を問われたが、「なんでもない」と流した。
ここが本当に太古のムーなら、21世紀の常識はおそらく通用しない。
だから、話したところで彼らが理解するのは難しいだろうと、その時も思ったのだ。
「あんたたちが、宇宙についてどれだけの知識があるのか知らねえから、説明しにくいんだけど……」
口ごもる隼に、ダリアンはほっと息をついて、微かに表情を緩めた。
「言葉で全てを伝えようとなさらなくても大丈夫です。あなたの中にあるイメージを見せてください。それを我々が読み取りますから」
その言葉に思い直した隼は、深呼吸をひとつついて、ゆっくりと口を開いた。
「俺たちがいた世界では、月が彗星だったんじゃねえかって説があるんだよ」
そう言って隼は目を閉じて、宇宙空間に浮かぶ巨大な氷の塊を思い浮かべた。
それは、地球の衛星になる以前の月の姿だ。
その頃の月は、核を中心にして、その何倍もの直径を持つ氷に覆われていた。
彗星には白い帯状の尾が生えているように見えるが、その成分の多くは、表面の氷が太陽熱により蒸発してガス化したものだ。
ある時、偶然地球のそばを通った月は、その強大な引力によって自由を奪われてしまう。
結果、近距離で太陽熱にさらされることになり、月の表面の氷は一気にガスと化して、地球の引力に吸いとられてゆく。
それは表面だけに留まらず、核の中に混じる水分までをも奪い去り、カラカラに乾いた軽石のようになった残骸が現在の月の姿なのだ。
月から地球に流れ込んだガスは分厚い雨雲となって空を覆い尽くし、やがて大量の雨が地上に降り注ぎ始める。
その後、絶え間なく降り続いた大雨により、地球上の海と陸の割合はほぼ逆転した……というのが、この説の概要だ。
「聖書に出てくるノアの箱舟で語られている大洪水も、この時のことを言ってるんじゃねえかと言われてるんだ」
「その大洪水によって、低地にいたネフレムや竜は流され、滅びてしまったのですね」
驚きに目を大きく見開きながら、ダリアンは呟いた。
今、隼が話した内容は、彼らの知識の及ばないものだったが、彼から送られてくる視覚的なイメージから、ほぼ全てを理解することができた。
ダリアンの様子から手応えを感じた隼は、ほっと息をついて話を続けた。
「おそらく。でも、それ以前に彼らが生きていたこと自体、ありえないと唱える学者もいるんだ。現在の重力では、恐竜のような巨大生物が立って歩くことは不可能だと。でももし、月の水を取り込んだことで質量が増え、地球の重力が増したと考えれば……。つまり、恐竜が生きていた時代は、重力が今よりもはるかに軽かったとすると、その謎も解けるんだよ」
『スフェラの力には、重力が関係しているのではないかと、私は推測しているんだ』
その時、ダリアンの中に昔コールが口にした言葉が蘇ってきた。
当時は理解できなかったが、隼から送られてきたイメージと照らし合わせると、皇子が言っていたこととも合致するような気がした。
「つまり、スフェラには、身につけたものの重力を変える力があると……」
「そう考えるのが、妥当じゃねえかと思うんだよ」
真剣な表情で語り合う隼とダリアンに、それまで離れた場所から黙って見ていた莉香が声をかけてきた。
「すごい。矢沢くん、どうしてそんなこと知ってるの?」
珍しく尊敬の眼差しを向けてくる莉香に、隼は少し顔を赤くして目をそらした。
「お前が無知なだけだよ」
「ひどい。これでも矢沢くんより、偏差値は高いはずなんだから」
頬を膨らませる莉香に、後ろ手で手を振りながら、隼は回廊を再び歩き始めた。
「勉強だけできても、世の中のことを知らねえ奴はバカだ」
そう言って闇に消えていく隼の背中に向かって、莉香は右手の拳を振り上げて憤慨した。
「バカとは何よ! 私、あの保くんと同じ特進クラスなんだから!」
「莉香様……」
莉香をなだめようとするニーメの肩を、何者かが背後から掴んで引き留めた。
驚いて振り返ると、目の前にダリアンの真剣な眼差しがあった。
「お前にも、メシアのイメージが見えたかい?」
まっすぐ自分を見つめるオリーブ色の瞳に、鼓動が早まるのを感じながら、ニーメはゆっくりと頷いた。
「やはり。いつの間にかもうあの方は、同調で自分の思いを伝える能力を身につけたようだね」
そう言ってダリアンは身を翻すと、隼とは逆の方向へ去っていった。
現代。
A市。
ピンポーン。
不意に鳴ったインターホンに、男は紐を握っていた手の力を緩めた。
(不動産業者か?)
腕まくりしていた袖を直しながら玄関ドアに近付き、首を傾げて鍵を開ける。
重い鉄の扉を押し開くと、初夏の眩しい太陽を背にして、制服姿の少年が立っていた。
「君は?」
黒縁のメガネを人差し指の背で持ち上げて、男はすらりと背の高い少年を見上げて尋ねた。
白い半袖シャツに、赤と紺のストライプ柄のネクタイを締めた少年は、少し緊張した面持ちで軽く頭を下げた。
「水里保と言います。隼くんとは、同じ中学に通っていました」
「水里……。もしかして、君はあの水里保くん? 君が隼の同級生だったなんて……」
一瞬、目を丸くした男だったが、間も無く笑顔を浮かべて部屋の奥へ少年を招き入れた。
一礼して中に入った保は、脱いだ靴を揃えてから、フローリング敷きのワンルームに足を踏み入れた。
玄関の左手にユニットバスと小さなキッチンが並び、その奥の引き戸の先に8畳ほどの洋室が広がっている。
部屋には備え付けのロフトベッド以外には、背の高い本棚と小さなローテーブルが置かれているだけで、他に家具らしいものはなく、生活感が感じられるようなものもほとんどなかった。
ただ唯一、本棚に並べられた書籍のタイトルが、この部屋の主のこだわりを物語っていた。
「この部屋には食器も何もないからね。缶ジュースぐらいしか出せないけど……」
そう言って男はシンクの前に腰を下ろし、備え付けの小型冷蔵庫の扉を開けた。
「君のことは、米国の学者仲間の間でも話題になってるよ。IQ290の天才少年だってね。アメリカの大学からのスカウトもあったのに、それを蹴って日本の高校への進学を決めたそうじゃないか」
やや高揚した声で矢継ぎ早に話す男を、横目でチラリと見てから、保は味気ない室内をもう一度見回した。
ふと、足元に目を向けると、紐で縛られた本の束が、いくつも積み上げられていた。
「もう、この部屋を処分するんですか?」
少年の問いに男は一瞬動きを止めたが、やがてふっとため息をついて立ちあがった。
「あの子がいなくなって、もう半年以上経つからね。私たちは彼に親らしいことは何もしてやれなかったし、あの子が我々のところへ帰ってくることはないだろう」
そう言って矢沢明夫は、保にジンジャエールの缶を手渡した。
軽く頭を下げて缶を受け取った保は、それを両手で包むように握りしめた。
「奥さんは、随分悲しんでいたみたいでしたけど……?」
隼が失踪した当初、テレビのワイドショーはその話題で持ちきりだった。
ハリウッド女優の息子が、クリスマスイヴに少女と共にいなくなったというニュースは、駆け落ちではないかとの憶測を呼び、日本でも大きく報じられたのだ。
連日押し寄せてくるマスコミに対し、義母であるリズは、カメラの前で涙ながらに息子がいなくなった悲しみを訴え続けた。
「彼女は女優だからね」
矢沢がこぼした一言に、保が抱いていたわずかな期待も打ち砕かれた。
「ここにあった中学の卒業アルバムを見て驚いたよ。もう、こんなに大きくなっていたなんて。私が最後にあの子を見たときは、まだほんの子どもだった」
「……」
「リズがあの子のことを嫌ってね。幼かった彼を、仕方なく日本へ送ったんだよ」
赤の他人である自分に対してまで言い訳をする男に、保は唇を噛み締めて、缶を握る手に力を込めた。
『親父はあの女に頭が上がらないんだよ。研究を続けるためには手放せない、大事なパトロンだからな』
中学生の頃、隼が何気なく言っていた言葉だ。
矢沢氏のように、学問として正式に認められていない研究を続けている学者は、常に資金難にあえいでいる。
だから彼は、ドル箱女優であるリズと結婚したのだと。
そして、女優としての地位は確立したものの、学歴にコンプレックスを持っていたリズは、代わりに学者の妻という肩書きを手に入れたのだ。
「珠仙莉香ちゃんと隼は、本当に双子なんですか?」
ふつふつと湧き上がってくる怒りを必死に抑え、保は努めて冷静な口調で別の話題を切り出した。
それを耳にした矢沢は、明らかに狼狽した様子で息をのんだ。
「実は二人がいなくなったあの日、僕は彼らと会ってたんです。その時、莉香ちゃんが言っていました」
「そうだったのかい。なんという巡り合わせだ……」
そう言って矢沢は、混乱する頭を必死に整理しようとしてか、額に拳を押し付けた。
「間違いない。あの子たちは血の繋がったきょうだいだ。引き取った時にDNAも調べている」
「……」
「しかし、それを知った上で二人で消えてしまうなんて、どういうことなんだ。あの子たちが出会ったのは、偶然かと思っていたけれど……」
その口調から察するに、彼も二人は駆け落ちをしたと、本気で思い込んでいたようだ。
たまたま出会って恋に落ちた二人が、昔研究仲間と別々に引き取った双子だった。
二人の出会いに必然性を全く感じなかったのかと、保は呆れ顔でため息をついた。
いや、違う。
この男は、マスコミの言うことをそのまま受け入れられるほどに、隼のことを知らないし、興味も持っていないのだ。
「全く、昔からあの子の考えていることは、よくわからないな」
そう言って矢沢は、白髪混じりの髪をガシガシと掻きむしった。
そんな男の様子に、保の中で何かがプツリと音を立てて切れた。
「心を読まれることを恐れて、彼と向き合おうとしなかったから、わからないんじゃないですか?」
「君……。あの子の能力を……?」
驚きに歪む男の顔を一瞥して、保は本棚に視線を移した。
そこに並んだ背表紙を見ると、そのほとんどが矢沢氏の著書や、世界各地に残る巨人伝説に関するものだった。
「でも彼の方は、必死にあなたのことを理解しようとしていたと思いますよ」
コトリという音がして矢沢が振り返ると、そこにもう少年の姿はなく、キッチンの上に未開封のジンジャエールの缶が静かに置かれていた。




