第十八話 次なる未来へ
「お前の相手はこっちだ」
突如、響いてきた若い男の声に、ガゼロははっとして背後を振り返った。
見ると、階段を数段下がったところに、キトン姿の青年が片手に剣を携えて立っていた。
「おまえは……」
慌ててもう一度祭壇を見上げてみたが、先程までそこで宙に浮いていた神官姿の青年と老人の姿はなかった。
「お前だけは、絶対に許さない」
キトン姿のダリアンは、先刻と同じ言葉を繰り返して、剣の柄を握る手に力を込めた。
そして彼は、刺すような視線と鋭く光る剣先を差し向け、一段、また一段と怯える男のそばへ近付いていった。
「ひい!」
青年から逃れようと、ガゼロは這うように階段を上り始めた。
最上段まで登りきると、ラーの足元に突き刺さる剣が、彼の行く手を阻んだ。
這ったまま、迂回してなおも逃げようとする男の眼前に、突如、鋭く光る剣身が現れた。
恐る恐る柄頭のある方向を見上げると、そこには冷酷に光るオリーブ色の瞳があった。
「あの方が、どのような思いでここにこの剣を立てたか、お前には一生わかるまい」
剣先を男の眉間に突き付けたまま、ダリアンは切なげな表情を浮かべて、コールの剣を見下ろした。
「コール様だけではない。ラ・ムーも、父アルデオも、この国と民を護るために自らの命を投げうったのだ」
噛み締めるようにそう言い、眉を寄せて閉じられたダリアンの瞳が、次の瞬間、再び大きく見開かれた。
「己の欲望のままに生きているお前に、人の上に立つ資格はない!」
「たわけ!」
ダリアンが発した怒号に弾かれるように、ガゼロはその場に立ち上がると、床に向かって唾を吐いた。
「この国と民を護っただ? はん! 空からラーが消え、外界から閉ざされたこの国に、この先いったいどんな未来があるというのだ。飢えと絶望の中滅びていくくらいなら、あのまま津波に飲み込まれた方がよかったのではないか」
神聖な祭壇を穢す行為と、王家や父を侮辱する男の言葉に、ダリアンの怒りが頂点に達した。
殺気に満ちた目で睨みつけてくる青年を前に、ガゼロも剣を両手で握り、構えの姿勢をとった。
「ラーはいずれ戻ってくる! この緋色の空は、ラ・ムーの慈悲の表れなのだ!」
そう言ってダリアンは剣を大きく振り上げ、強く床を蹴って宙に舞い上がった。
「言ってる意味がわからんな、大神官殿!!」
降下しながら迫ってくる青年を、ガゼロは刃を斜めに構えて待ち受けた。
ガキーン!!
次の瞬間、鉄の剣が激しくぶつかり合い、耳をつんざく金属音が広間に響き渡った。
鍔を絡め、そのまま二人は柄を握る手に全身の力を込めて押し合った。
互いに力を込めるたびに、十字に組まれた刀身が擦れ、ギリギリと嫌な音を立てる。
片方が圧せば、もう一方が圧し返す。
しばらくはそのような、一進一退の押し合いが続いた。
「ふんむ!!」
埒があかないと判断したガゼロは、一度剣を引き戻すと、素早く後方に飛び去った。
そこで剣を構え直した彼は、間髪置かずに切っ先を突き立て、青年目がけて突進していった。
辛うじて身を翻し、それをかわしたダリアンだったが、避けきれずに左腕を刃が掠り、白い床に赤い滴が落ちた。
痛みをこらえながら前方に目を向けると、剣を振り上げて再び迫ってくる男の姿が見えた。
攻撃に備え、頭上で水平に構えた刀身に、男の剣がぶつかり、激しい金属音とともに火花が散った。
その後も、方向を変えて次々と叩きつけてくる男の猛撃に、ダリアンは狭い祭壇の上を駆け巡りながら応戦した。
「いつの間にか、随分腕を上げたようだな」
戦いの最中、刃越しに青年の顔を睨み付けてガゼロは舌打ちをした。
以前、ここで兵に襲わせた時、なすすべもなく斬られていた彼とは明らかに違う。
剣の扱いも、身のこなしも、並の兵士なら歯が立たないほどに上達している。
「だが、まだまだ!」
助走をつけてラーの足元に駆け寄ったガゼロは、掴んだ支柱を軸にして体を回転させ、その勢いで後を追ってきたダリアンを蹴り付けた。
胸を強打された青年は、口から血を吐き、背中で床を滑るようにして、後方へ飛ばされていった。
着地したガゼロは、すぐさま倒れる青年のそばへ駆け寄り、彼の上に跨って、顔面に向けて垂直に刃を振り下ろした。
だが、ダリアンは寸でのところで、それを刃で払いのけた。
「ちっ!」
青年の上に跨ったまま、ガゼロは今度は首を狙って剣を振り下ろした。
再び刃で受け止めて、それを食い止めたダリアンだったが、体重ごとかけてくる相手の力に圧され、徐々に眼前に鈍色の刃が迫ってきた。
その時、広間の入り口からバラバラと男たちの群れが入ってきた。
ガゼロの兵を制したカスコ達が、ロギオスからの同調を受け、加勢しようとやってきたのだ。
「ダリアン様!」
広間に入るなり、祭壇の上を見上げたトトは、叫ぶような声をあげた。
彼は、青年に跨るガゼロの姿を見て、ダリアンの危機を感じたのだ。
慌てて駆け出しかけた彼の肩を、何者かが掴んで引き留めた。
振り返ると、カスコが真剣な表情を浮かべて、首を左右に振っていた。
「自身の手で決着をつけさせてやれ。幻影を使っていないということは、そういうことだろう」
「ぐふぉ!」
次の瞬間、ガゼロの体が前のめりに崩れ、被っていた兜が床に転がっていった。
ダリアンに腹を蹴りあげられた男は、それによりバランスを崩し、手元に全体重をかけていた分、勢いよく倒れたのだ。
慌てて膝をついて起き上がると、少し離れた場所で、口元の血を拭いながら、剣を構え直す青年の姿が見えた。
(まずいな)
激しく息をつきながら、ガゼロは焦りを感じ始めていた。
以前より格段に上達しているとはいえ、剣の腕は長年鍛え上げてきた自分の方が優っている。
だが、皮肉にも身を守るために装着した鋼鉄の鎧が全身にのしかかり、動くたびに己の体力を奪っていくのだ。
粗末なキトンしか身につけていない青年は、傷を負いながらも攻撃を身軽にかわし、こちらの動きが鈍るのを待っているようにも思われる。
「お遊びはこれまでだ!」
これ以上長引けば不利になると悟った男は、柄を強く握り直し、唸り声をあげながら青年に向かって突進していった。
「死ね!」
男の剣が直前に迫ったその時、ダリアンは素早く横方向へ身を翻した。
青年の姿が目の前から消えた瞬間、初めてガゼロはそこが祭壇の末端であることに気がついた。
だが、勢いのついた彼の体は、鎧の重みも重なって、自力ではもう留めることができなかった。
民家の三階分はあるであろうこの高さから、石の床にたたきつけられれば、間違いなく即死する。
体が宙に浮く感覚がした直後、男は己の死を覚悟して目を閉じた。
「?!」
しばらく経っても衝撃が訪れないことを不思議に思い、ガゼロはゆっくりと目を開けた。
足元に目を向けると、はるか下に大理石が敷き詰められた床が見える。
恐る恐る上を見上げた彼の目に、苦痛に歪む青年の顔が映った。
そんな彼の右手に、男の左手はしっかりと握られていた。
「お前……なぜ?」
巨漢な上に鎧を身につけた男の重量に耐え切れず、青年の細い腕は震えていた。
「お前を……このままでは……死なせない……」
額に汗を滲ませながら、ダリアンは絞り出すように言った。
「己の罪の深さを……思い知らせてからだ……」
そんな彼の手のひらにも汗が滲み出し、ガゼロの体は徐々に下方向へ滑り始めた。
(やはり、これまでか)
再び死を覚悟して目を閉じた時、男の体が何者かによってふわりと持ち上げられた。
(?)
そのまま、ずるずると壁面に沿って引き上げられた男は、気がつけば祭壇の上にうつ伏せで横たわっていた。
己の身に起きたことが理解できず、頭を持ち上げて周りを見回すと、そこには兵士や神官達が立ち並び、冷ややかな目で彼を見下ろしていた。
どうやら彼らに引き上げられ、自分は命拾いをしたらしい。
にわかには信じがたい事実に、ガゼロは驚きの表情を浮かべて男達の顔を見渡した。
「大神官殿、なぜこんな奴を助けるのです?」
男達の最前列で腕組みをした赤髪の男が、後方を振り返って言った。
するとそこには、少年に背中を支えられ、肩で大きく息をする青年の姿があった。
「助けたんじゃない……この男の悪行を白日のもとに晒し……本人にもその罪の深さを思い知らせてやるんだ」
苦しげに息を詰まらせながらも、ダリアンはガゼロの顔を睨み付けて言葉を続けた。
「そんな……楽に……死なせてやるものか」
「悪趣味ですな」
青年からガゼロに視線を戻し、カスコは不敵な笑みを浮かべた。
「せいぜい我々が、身をもって己の罪深さを思い知らせてやりますよ」
そう言ってカスコは、高く腕を持ち上げ、振り下ろしざまに元上司を指差した。
それを合図に、数人の兵士がガゼロを取り囲み、彼の両腕を担ぎ上げた。
「ほら、歩け。地下牢でたっぷり可愛がってやる」
「ま、待て! 待ってくれ! いっそこのまま死なせてくれ!」
口元に笑みをうかべながらも目が笑っていない兵士の顔を見て、ガゼロは震えながらダリアンに訴えかけた。
己が今まで虐げてきた兵士らの中に放り込まれれば、どんな目にあわされるかわからない。
彼らは自分のことを、殺しても足りないほど憎んでいるはずなのだ。
「黙れ。ほら行くぞ」
背後を歩く兵士に背中を蹴られ、ガゼロは引きずられるようにして祭壇の階段を下り始めた。
「いやだ! 死なせてくれ!」
階段を下りきり、広間の入り口まで進んで行く間も、男はずっと手足をばたつかせて叫び続けた。
その後、男の姿と声は戸口の向こうに小さくなってゆき、やがて闇の中へ消えていった。
「カスコ、命だけは……」
呼吸を整えたダリアンは、カスコの隣に並び、男が消えていった戸口を不安げに見つめた。
あの男に温情をかけるつもりは微塵もないが、本人の口から民に真実を語らせた上で罪を償わせたいと、彼は考えていたのだ。
今この場であの男の命を奪っても、真実が伝わらなければ、単なる権力闘争と人々に受け止められかねない。
ラ・ムーという絶対的な指導者を失い、外界から閉ざされたこの国を今後まとめていくためには、民にそのような疑念を持たせては危険なのだ。
同時に、真実が語られていく中で、ラ・ムーやコール、そして父が命がけでこの国を救ったという事実も、人々に伝えていきたいと思っていた。
戸口を見つめたまま、眉を寄せている青年の横顔を見て、カスコは再び鼻を鳴らして笑った。
「ご心配なく。兵達にも、死なない程度に可愛いがるようにと言い聞かせておきますよ。死なない程度に……ね」
一層不安そうに自分を見上げてくる青年の肩に腕を回し、カスコは細い体を祭壇の正面へ押し出した。
「さて、大神官殿、これからが本番ですよ」
そう言って男が指差した先に視線を移したダリアンは、思わず大きく目を見開いた。
ガゼロが消えていった広間の入り口から、今度はぞくぞくと人の群れが押し寄せてくるのが見えたのだ。
彼らは、兵士や神官だけではない。
男も女も、商人も、漁師もいる。
未曾有の大災害から生き残り、ガゼロの悪政に苦しめられながらも、この日まで力強く生きてきた老若男女の姿がそこにはあった。
「ダリアン様、あちらも」
驚いている彼の隣で、進み出てきたトトが広間の側面を指差した。
見ると、噴石により崩れた壁面の向こうでも、神殿に入りきれなかったと思しき人々が、彼の姿をじっと見つめていた。
「大神官様、これを」
不意に、背後から聞き覚えのある男の声がして、ダリアンは振り返った。
するとそこには、彼に向かって跪き、銀色の棒を差し出すアチャの姿があった。
「これは……」
ダリアンは震える手で、その棒を大男の手から受け取った。
それはあの日、父から受け継ぎ、ガゼロの兵に奪われた大神官の杖だった。
「町の再建中、瓦礫の中から見つけましてね。傷だらけで変色もしていましたが、これでもだいぶん磨き直したんですよ」
アチャはそう言って、ニヤリと笑って見せた。
ラーを象った装飾や、彫物が施された柄に指先で触れると、ところどころへこみや細かい傷があった。
あの日、奪われた後この杖は、混乱の中兵士の手から離れ、瓦礫の下に埋もれていたのだろう。
「ラ・ムーの杖も、このとおり」
続けてアチャが指し示した先には、金色の杖を持つ兵が立っていた。
それを目にした瞬間、ダリアンはそばに駆け寄り、愛おしそうに黄金の杖に手で触れた。
コールがラ・ムーから受け継いだ杖も、多少の小傷はあるものの、あの日と変わらず、眩しいまでの輝きを放っていた。
「ラーが消えたあの日、ダリアン殿は正式に大神官を受け継がれた」
ひときわ大きな声が広間に響き渡り、人々の視線が祭壇の下に立つ老人へ向けられた。
「誰か、証人となる者はいるか」
続けてロギオスがそう発すると、白装束を身につけた神官達がその場に一斉に跪いた。
彼らは、あの日神殿に居合わせた神官達の生き残りだった。
「我々神官はあの日、この目で、ラ・ムーと大神官の継承の儀を見届けました」
最前列の男がそう言ってひれ伏すると、彼の背後に並ぶ神官達も身を低くした。
「ラ・ムー」
ダリアンが銀の杖を手にして正面に向き直ると、神官達は両手のひらを額の前で重ね、祈りの言葉を口にしながら、上半身を折り曲げてひれ伏した。
「ラ・ムー」
「ラ・ムー」
そんな彼らに続いて、兵士や町の人々も跪き、同じ言葉を繰り返しとなえた。
その後も、祈りの声は途切れることなく、神殿の中だけでなく外からも、祭壇上にいる若者に向けて捧げられた。
しばらくは呆然と、波のように寄せてくる人々の声を聞いていたダリアンだったが、ふと何かを思い直したかのように表情を固めて、銀色の杖を天に向かって高く掲げた。
すると、祈りの声は一斉に止み、人々の視線は壇上の青年一点に向けられた。
「王家の剣輝く時、天より救世主舞い降りて、ムーにラーは蘇る」
静まりかえった広間に、張りのある若い男の声が響き渡った。
ダリアンはコールの剣の傍らに立ち、もう一度人々の方へ向き直った。
「この剣が輝く時、ラ・ムーは、再びこの地に帰ってこられる。その時、空にラーも戻るだろう」
その瞬間、人々の間に尻上りのどよめきが起こった。
「その日まで、我々は希望を捨てず、誇り高く生きていこう」
そう言って、キトン姿の青年が銀の杖を手に祭壇の階段を下りていくと、再び祈りの声が周囲に響き始めた。
「ラ・ムー」
「ラ・ムー」
青年が床へ降り立つと、人々の群れは中央で二つに分かれて道をつくった。
そこに居並ぶ顔を、一人ずつ見つめながら、ダリアンは戸口に向かってゆっくりと歩いて行った。
「ダリアン様、少し待っててください」
戸口のそばまで来た時、背後に続いていたトトが彼の歩みを止めた。
振り返って、人混みの中に紛れていく少年の背中を見ていると、間も無く彼は人波をかき分けて戻って来た。
見るとその腕には、金色の髪をした幼女が抱えられていた。
「この子は、あの日の妊婦の子どもです」
「……」
幼女の澄んだブルーの瞳を目にした瞬間、なぜかダリアンの体は固まって動かなくなった。
微動だにしない彼に向かって、幼女は手のひらをいっぱいに広げ、短い腕を必死に伸ばしてきた。
「ら、むー」
たどたどしく発せられた少女の言葉を耳にした瞬間、ダリアンの瞳から一筋涙がこぼれ落ちた。
思いがけない彼の反応に、トトは一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに笑って幼女の頭を撫でた。
「大きくなったでしょう? 親方の奥さんが、我が子のように育ててくれているんです」
「……」
「ほら、ニーメ。お前の命の恩人のダリアン様だよ」
そう言ってトトは、ダリアンの顔に幼女を近付けた。
すると、ニーメと呼ばれた幼女は、きゃっきゃっと声を上げながら、ダリアンの銀色の前髪を引っ張った。
「こ、こら!」
それを見て、トトは慌てて幼女をダリアンから引き離した。
「抱いても……いいか?」
ようやく我を取り戻したダリアンが、指先で涙を拭って言うと、トトは嬉しそうに頷いて幼女を差し出してきた。
「だ〜あん」
杖をカスコに預け、慣れない手つきで抱き上げると、幼女は彼の胸にしがみついてきた。
「だ〜あん」
「ふふ、まるであなたの名前を呼んでいるみたいですね」
その瞬間、ダリアンは幼女を腕に抱いたまま、その場にうずくまった。
「ダリアン様?」
驚いたトトが身をかがめて手を伸ばすと、彼の肩は小さく震えていた。
老若男女の祈りの声が響く中、若き大神官は幼女を胸に抱いたまま、いつまでも嗚咽を漏らし続けていた。