密内感染
「森下ぁ、旅行行こうよ」
「行きましょう」
四人で、と言葉を続けた佳苗さんはわたしを期待させるのが上手だ。行けるかわからないよ、と木崎さんが言ったから、佳苗さんは不満げに膨れた。
「ちょっとくらい空けてよ」
「空けれたらね」
「また三人で行っちゃうよ」
「それはほんと許さん」
木崎さんの拗ねた顔を見て、くくく、と佳苗さんは笑った。缶ビールに口をつける。くるくると変わる佳苗さんの表情が好きだと名木くんも言っていた。わたしたちはきっと同志だ。彼女に憧れている。彼女はもうすぐいなくなるらしい。だから余計に、綺麗に見えるのかもしれない。
名木くんが欠伸をした。木崎さんは足をモゾモゾした。炬燵の上では締めのラーメンがグツグツと揺れている。時計を見るともう4時を回っていた。
わたしたちがこうして深夜に木崎さんの家に集まって鍋をするのはもう何度目になるか分からない。バイト終わりにはお腹が空くし、鍋をみんなで囲んで飲みたい、というある日の木崎命令が、いつの間にか恒例化されていた。
「ところでなぎちゃん、いつ彼女出来るの」
木崎さんが意地悪を言う。いつでしょうねと名木くんが笑う。名木くんのそういう話は聞いたことがない。というか、この人達のそういう話は佳苗さんの元カレの話ぐらいしか知らない。
「なぎちゃんのタイプってどんなの? 森下とかどうなの」
低く透明な声と共に炬燵の中で向かいに座る木崎さんの足がさらりとわたしの足を撫でた。わたしが足当たってますと言うと、何事もなかったかのように彼はビールを飲み干した。
「わたしは森下と付き合いたい」
佳苗さんは穏やかにこの場を繋ぐ。佳苗さんが居れば、なんだって自然になってしまう。シャンプーの匂いみたいなひとだなと思う。いつもふわりと、空気を撫でる。
「女ってすぐそういうこと言う」
「男だって言うじゃん」
「うっせばーか」
「ばーか」
佳苗さんと木崎さんのお決まりの言い合いに名木くんが笑う。いつも楽しそうに言葉でじゃれる彼らを微笑ましいと思ってしまう。ラーメンが煮立ってしまう前に器に移すと、二人の生き生きと跳ねた言葉がたくさんくっついた。わたしは気付かないふりをして熱々の麺を啜る。木崎さんの足がまた伸びてわたしのふくらはぎに触れたけれど、気づかない振りをして炬燵の中で座り方を変えた。
独り暮らし用のこの部屋は、お世辞にも綺麗とは言えない。たくさんの本や漫画やCDがところ狭しと並べられ、脱ぎっぱなしの衣類が小さなソファの上に横たわっていた。ああ、生活しているんだなあというのが第一印象だった。人間臭い。わたしたちみたい。
ふと、この部屋には不釣り合いなほど大きなテレビがぼんやりとわたしたちを映していることに気付いた。新しいテレビが欲しくて、選ぶために佳苗さんについてきてもらったのだという42インチのテレビ。決めるのに二時間半も掛かったんだよ、と佳苗さんが困ったように笑ったのを思い出す。佳苗さんはわたしにたくさん木崎さんの話をする。木崎さんは関係ないことばかり話すけれど、いつも最後に少しだけ佳苗さんの話をする。その度にわたしは少しだけ、空しくなる。
「森下、ビール取って」
わたしは炬燵から抜け出て、小さな冷蔵庫を開ける。閉じ込められていた冷気が溢れ出て顔に当たった。思わず目を閉じる。買ってきた缶ビールは残りわずかだ。わたしと名木くんはあまり飲めないから、ほとんどを木崎さんと佳苗さんで飲んでいることになる。木崎さんはお酒が好きだけれど、強いわけではなかった。今日はもうそろそろ寝てしまうだろう。
どうぞ、と手渡そうとした先には、すでに寝転がってしまっている木崎さんがいた。
「木崎さん、ビールもういらないですか?」
「いる」
木崎さんは一ミリも体勢を変えないまま、少しだけ甘えた声で返事をした。続けて、取って、と甘い命令が向けられたのはわたしではなく佳苗さんだった。
佳苗さんはわたしの手に冷気を染み込ませ続けている缶ビールに手を伸ばした。ありがとう、と笑った佳苗さんに缶ビールを手渡す。木崎さんには何も言わずにテーブルの上に置いた。
「この人もうだめだ。ラーメン食べよ」
トロンとした目が閉じられたのを確認して、佳苗さんは木崎さんの頭をポンポンと撫でた。佳苗さんはラーメンを名木くんの器に取って、森下も食べる? と聞いてくれた。
アルバイト先のこの人達と一緒に仕事をする時の居心地のよさと、こうして炬燵に入りながら鍋をつつく時の居心地のよさは全然種類が違う。仕事中の彼らは全くといっていい程に戯れない。それどころか、教育係役の木崎さんにわたしたちはよく怒られる。それでも木崎さんは端々でわたしたちのことを気に入っているし助けてくれているのが分かるから、みんな彼のわがままな末っ子気質をも好きになってしまうのだ。
彼らと一緒に働くのは楽しい。好きな人たちと同じ空間で動くというのは煩わしいことが何もなくて澄んだ気持ちになる。そしてこの部屋にはその清涼感の欠片も浮かんではいない。
仕事を介さずに戯れる時の彼らはただの人で、佳苗さんがどれだけサバサバしていようと、木崎さんや名木くんがどれだけ恋愛には無関心だろうと、ここにいるのは独り暮らしの男の部屋に集まるただの男と女でしかなかった。生温い空気が充満した部屋に、名木くんの声がふわりと乗っかった。
「佳苗さんって木崎さんと付き合ってるんですか」
ああそうか名木くんは知らないから。
佳苗さんと木崎さんはそういう関係じゃないことは、わたしが一番知っている。木崎さんが一方的に佳苗さんを気に入っていて、佳苗さんはそれを上手く流しているのだ。新しくアルバイトが入る度に、何度も同じ質問を耳にする。
少なくとも、半年ほど前まではそうだった。
「付き合ってないよ」
ほら。
佳苗さんが笑う。
最近の木崎さんは、佳苗さんを気に入っているというよりは、当たり前のように隣に置きたがる。佳苗さんは穏やかに嫌な顔をするけれど、それすらも面白がっているように思えて嫉妬する。彼女がすることはなんでも楽しそうに見える。
彼女はわたしたちに表面ばかり見せる。その表面はほんとうに綺麗でいい匂いがするから、彼女がほんとうは何を考えているのかなんてことは気にならない。嘘、気にしないようにしている。ふわりと香る甘い匂いを追い続ける程無駄なことはないって知っている。
「でも木崎さんは絶対佳苗さんのこと好きですよね」
ね、と名木くんがわたしに同意を求める。わたしもそうだと思うけれど、わたしの中の小さな反発心が邪魔をして首を縦に振れなかった。そうかもしれないけど。そうかもしれないけど。
お気に入りと好きは違うから。
「未だに怒られてばっかりだけどね」
「仕事は仕事でしょ」
「うーん」
佳苗さんはそれはそうだけどさ、と笑った。
「でもほら、わたしもうすぐ辞めるから」
「佳苗さん辞めるの寂しいです」
思わずさらりとそう口走ったのはわたしだ。卒業しないでください、と言うと佳苗さんはえへへと笑った。
鼻の奥に美しい潤いだけを存分に与えてひらひらと消える。彼女が居なくなると、この空間もきっと無くなるだろうなと予感した。だってこの空気の半分は彼女だ。
そしていつか同じような匂いに出会った時、鮮明に甦る彼女の空気はきっとわたしを狂わせる。こんなに背徳感の詰まった男の部屋で、温くて甘ったるい空気を纏っていた日を思い出す。少しだけ、特別かもしれないと思った男を思い出す。たまらない。叶わないから。
敵わないから。
ぼんやりとした空間にフォーカスがかかりはじめた。何度も視界を瞼が通りすぎる。時計の針は五時四十分を指していた。外はまだ暗くて、昨日と今日の境目が足りない。いつの間にか会話は止んでいた。そのままの状態でごろんと横になった名木くんの寝息が綺麗で、しばらく耳を澄ましていると、静かに声がした。
「眠いの? 寝る?」
そうですねと答えると同時に大きなあくびが沸き上がる。視界は涙でゆらゆらと揺れた。
電気が消える。長かった今日も終わり。目を開けると明日になっているのだ。この湯船のような部屋を出て、外の世界で清々しい空気を吸うのだ。男と女は光を浴びて、仕事仲間へと、変貌を遂げるのだ。
たくさんの微睡みを吸い込んだ真っ暗な部屋は、静かに顔を背けた。
↓
停。
書いてからかなり時間が経っていますね……
前回の 密内カンケイ の佳苗さんシリーズです。