上
初めて『悪役令嬢』という言葉を聞いたのは、確か九歳の時だ。
「悪役令嬢みたいねえ」
母から、まじまじとシャーロットの顔を見ながら言われたのだ。
シャーロットは首を傾げ、母を見上げた。
「悪役、令嬢ですか?」
「ええ、そうよ」
母は、シャーロットの問いにコロコロと笑って頷いた。
思いついたことをすぐに口にする母は少女のようだと、娘ながらに思う。
それにしても、久しぶりの母娘二人きりのお茶会の席で話す内容にしては、「悪役」という言葉は、相応しくない。
だが、シャーロットは、いつものように、お茶の入ったカップを机の上に戻し、母の話を聞く体勢をとった。
「どのような方なのですか?」
シャーロットの問いに母は、その美しい水色の瞳を細め、シャーロットを見た。そして、机にばさりと一冊の本を置た。カチャンと、カップがソーサーの上を小さく跳ねる。
全く、この方は。
内心で溜息を吐きつつも、母が置いた本を見る。
『真実の愛を貴方に』
題名を読んで、シャーロットは思わず眉をひそめた。だが、すぐに淑女としてあるまじき表情だと、顔の力を抜く。
その本は、題名からして市井で流行っている恋愛小説のようだ。
一般的に、身分違いの恋やら、すれ違う恋人の葛藤やら、少女たちにとってロマンチックな内容らしい。
それを、母が読んでいるなんて。彼女は、どこまで少女でいるつもりだろうか。
そんなことを考えるシャーロットにも気付かず、母は「この物語はね!」と声を弾ませた。
「公爵家の後継である青年と、子爵家令嬢であるヒロインが、周囲の反対や困難を乗り越え、愛を育んでいく話なのよ」
「…まあ、そうなんですか」
母自身は、この公爵家に嫁ぐ前は、伯爵家の令嬢で、ヒロインに感情移入出来るところは無さそうだが、キラキラと瞳を輝かせている。
母が癇癪を起こさない程度に、相槌を挟めば、やはり機嫌良く母は話し続けた。
「そんなヒロイン最大の困難は、青年の婚約者である公爵家の令嬢なの。彼女は自分の婚約者と仲の良いヒロインに嫉妬して虐めてしまうのだけれど。その虐め方が容赦なくて」
そこまで聞いて、ようやくシャーロットは得心した。
「悪役の公爵家令嬢。略して悪役令嬢ということですか?」
「ええ、そういうこと。その悪役令嬢の容貌と性格が、シャーロットによく似ていてよ。本当に」
母は満足気に頷くと、扇で口元を隠して、笑声を上げたのだった。
その頃の思い出を、最近よく反芻するようになった。
あの頃は、何を馬鹿げたことをと思って母を見ていたのだが、今は、成る程、よく似ているとそう思う。
小説の悪役令嬢は、
1. 綺麗に巻かれた豊かな黒髪とつり目の黒い瞳を持つ。
2. 淡い色のドレスよりも、濃い色のものが似合う。
3. 公爵家令嬢。
4. プライドが高く、負けず嫌い。
5. 身分を重んじる。
簡単に言うと、こんな感じだろう。
確かに、シャーロットの容貌と性格によく似ていた。
それにプラスして、
6. 婚約者は、国の筆頭公爵家の後継。
が、その小説の悪役令嬢と同じ所だ。
「おい!シャーロット!聞いているのか?!」
ドンっと大きな音を立てて、シャーロットが座る席の机に拳を振り落としたのは、婚約者であるベンジャミンだ。
「まあ、ベンジャミン様」
シャーロットは、椅子から離れ、ベンジャミンに対峙するように立つ。
「ここは大きなお声を出す場所ではございませんわ」
シャーロットは、ベンジャミンを窘め、周囲を見渡した。
シャーロットが、今いるのは、全寮制の王立学園の中にあるカフェテラスだ。つまりは、学生たちの憩いの場だ。友人とお茶を飲んだり話したり、静かに読書したりと、自由に過ごせるこの場所に、先程のような行動は、不相応だ。
だが、ベンジャミンは、顔を真っ赤にさせ、金褐色の髪を振り乱すように顔を横に振った。
「聞いているのかと問うている!」
「…聞いておりましてよ」
聞いていたから、九年前の頃のことなんて思い出したのだ。
シャーロットは扇で口元を隠した。嘆息が漏れそうだ。
目の前には、ベンジャミンの他に一人の少女と彼女を守るように立つ三人の青年がいる。皆、殺気立っているのが分かる。
「聞こえているのなら、上々」
ベンジャミンの肩に手を置き、言葉を発したのは、王国騎士団長の息子だ。茶色の短髪に筋肉質な体を持つ彼は、ふんと鼻で笑った。
「では、彼女への暴言を取り消せ」
歯をむき出し、吼えるように言う様子は、まるで狼のようだ。
シャーロットは首を傾け、騎士団長の息子を見た。
「あら、どの言葉を取り消せは宜しいの?」
「全てだ!」
騎士団長の息子は激昂した。唾を飛ばす勢いで、言葉を重ねる。
「身分をわきまえろだの、振る舞いが悪いだの、声が大きいだの、難癖付けただろう!」
「あら、難癖だなんて。それは当然の注意ですわ。ここは、我が王国が誇る学園のカフェテラス。他の生徒たちのご迷惑も考えず、大きな声でお話しになったり、笑われたりされては困りますもの」
事実、この学園は特別なのだ。
身分の高い者から低い者まで、分け隔てなく優秀な人材を育て、国に貢献させる。それをモットーに掲げ、身分制度と実力社会を絶妙なバランスで成り立たせるこの学園は、だからこそ、外国にも名を轟かす多くの人材が輩出されている。
そんな先輩方の恥とならないよう、在籍する生徒たちは、それに相応しい行動をしなければならないと、シャーロットは思う。
シャーロットとて、この学園内で、公爵家という身分を誇示するつもりはない。
それでもシャーロットは、貴族の頂点である公爵家の令嬢だ。どうしても身分やその場に応じた振る舞いというものに厳しく反応してしまう。
そして、その態度が身分の低い学生には、不評なのも知っている。
「悪役令嬢」
身分不相応に行動する生徒たちを諌める行動のせいで、一部の生徒たちからそう呼ばれているのも、シャーロットは気付いている。
「扇で口元を隠して笑うと、本当に悪役って感じよね。他を圧倒するオーラを纏っているもの」
悪役令嬢と呼ばれていると相談した際の、仲の良い友人 アメリアの言葉だ。
「でも、淑女として、笑みを隠すのは当然の作法でしょう?それを止めるのは、私にはとても出来そうにないわ」
そう反論すると、満足気に微笑んだアメリアから「あなたはそれで良いの」と言われたので、そう思うことにしている。
「私の言うこと、間違っていて?」
シャーロットが周囲を見回せば、他の生徒たちは、シャーロットと五人を遠巻きに見るばかりだ。
その中に、アメリアの姿も見え、シャーロットはほんのわずかだけ眉を寄せた。
見物だなんて、趣味の悪いこと。
援軍は期待できそうにないなと、パチパチと音を立てて扇を閉じる。東国土産にと貰ったその扇は、シャーロットの手に良く馴染む。
シャーロットは、扇の柄を握ると、再びベンジャミン以下四人に視線を向けた。
「全く、嘆かわしいこと。生徒の代表とでもいうべき貴方方が、あのような子爵家令嬢ごときに惑わされて」
その言葉に、子爵家令嬢は、青年たちの後ろでビクリと震えて見せた。眉を下げ、瞳を潤ませ、シャーロットを見ている。
なんともわざとらしい。
シャーロットは嫌気がさすが、青年たちにとっては庇護欲をそそられるだけのようだ。
「ごときとは、言いすぎではないですか?」
丁寧な物言いにも関わらず、怒りで目を釣り上げているのは、黒髪を横に一つに結んだ青年で、彼は最近頭角を現した商人の息子だ。
「そうかしら。ーーああ、間違わないで頂きたいのだけれど、私は子爵家という位について申しているわけではありません。場所を弁えず、男性を侍らせ、大騒ぎをする姿を良く見かける彼女のこれまでの行動を見ての言葉ですわ」
商人の息子はシャーロットを鷲のように鋭い眼光で睨んだ。構わず、シャーロットは言葉を続ける。
「そのような行動を取る方は、子爵家、いえ、この学園に相応しい者とは、とても思えません」
「ーー君は何を言っているのか分かっているのかなぁ?」
そう問うたのは、医療分野で活躍が著しい伯爵家の次男だ。他の3人より幼い顔立ちで、愛らしいと評判の男だ。だが、今は、その丸い目を半眼にしてシャーロットを睨んでいる。
白銀色の髪を持つ彼がそうして威嚇する様子は、雪豹のようだ。
「勿論、分かっておりますわ。第一、」
「もう、よいのです!」
シャーロットの言葉を遮って大声を上げたのは、先程の子爵家令嬢だ。
ふわふわと柔らかそうな金髪が、肩で揺れている。
「あたしがわるいのです!シャーロット様の婚約者であるベンジャミン様と、シャーロット様の前でおはなししてしまったんですもの。お怒りになるの分かります!」
子爵家令嬢は、青年たちの後ろから出ると、ベンジャミンの腕に腕を絡めた。
「でも、シャーロット様!あなたはベンジャミン様になにをしてあげたのですが?ベンジャミン様が苦しんでいらっしゃるのに、きづいてもいなかったではないですか。なのに、婚約者面されるなんて、シャーロット様はあんまりです!」
感激したようにベンジャミンは子爵家令嬢を見ている。子爵家令嬢も、そんなベンジャミンを見つめ返した。
全くもって、馬鹿らしい見世物だ。
論点がずれていることにも、彼らは気付かないのだろうか。
「…貴女の主張は以上かしら」
パチパチと、再び扇を開きながら問えば、ベンジャミンからキッと睨まれた。
「お前は、どこまで自分勝手な女なんだ」
「ーー心外ですわ」
ベンジャミンの言葉に、本気で驚いてしまう。
唖然とする口元を上手く扇で隠しながら、シャーロットはベンジャミンを見た。
彼は、いつからこんな愚かな男に成り果てたのだろうか。
少しだけ、悲しい。
ベンジャミンは、この国の筆頭公爵家の後継であると同時に、宰相を父に持つ男だ。ベンジャミンの金褐色の髪は父親譲りで、宰相が王のために存在する獅子のようだと形容されるのに合わせ、ベンジャミンは若獅子と表現されることも多い。
それに相応しい、勇敢な少年だったのに。シャーロットは、しんみりとそう思う。
婚約したばかりの頃、シャーロットはベンジャミンの屋敷に招かれたことがある。
ベンジャミンは、虫が怖いと言うシャーロットに向けて朗らかに笑って虫を追い払うと、「俺が守ってやる」と言ってくれた。
弱い立場の人を守りたいと夢を語り、そして、それを自分の出来る限り実行しようとした。
シャーロットとベンジャミンは、政略的な婚約だったが、それでも、シャーロットは彼を愛おしく思っていた。
子爵家令嬢は、シャーロットがベンジャミンの憂いに気付いていないと、そう糾弾した。だが、そのようなことはない。
ベンジャミンが父親の偉大さ圧倒されていること。母親が亡くなったことで、その父親との関係が上手くいかなくなったこと。
そんなことは、シャーロットだって気付いていた。
なんとか二人の仲を取り持てないかとシャーロットなりに尽力した。
ベンジャミンは知らないが、宰相がシャーロットにベンジャミンについての想いを話してくれたことがある。
今から一年前のことだ。
「貴女には私たちの問題で、申し訳ないことをしたと思っている」
彼は、シャーロットのような小娘に向けて眉を下げて見せた。
「あの子が、筆頭公爵家の後継としてどうあるべきか悩んでいたのは分かっていた。妻と死別してから、あの子は私に対して心を閉ざしてしまったことも、知っている」
「宰相様。彼は、宰相様の前で緊張してしまうだけなのです。宰相様のことを嫌っているわけではありません」
一度言葉を切り、シャーロットは宰相、いや、息子との関係に悩む父親を見つめた。
「私に出来ることはございませんか?」
シャーロットの問いに、宰相は首を横に振った。
「いや、何もしないでくれ。私から、あの子には、きちんと話すつもりだ」
それこそが、宰相のベンジャミンを想う親心だとシャーロットは思った。
だが、宰相のこの言葉をシャーロットが聞いた次の日、子爵家令嬢に、ベンジャミンは出会ってしまった。
彼女はベンジャミンを甘い実のない言葉で包み込み、そして、彼はそれに縋りついた。
シャーロットは、諌めたつもりだ。
それが、彼には届かなかったが。
結果、シャーロットが好きだった若獅子と呼ぶに相応しい彼は鳴りを潜め、ただ子爵家令嬢を、あとの三人と奪い合うだけの男に成り果てた。
「シャーロット。ここで宣言しよう」
ベンジャミンのその先の言葉は、容易に想像できた。
「君との婚約を解消する」
カフェテラスで私たちを見物する他の生徒たちから、ざわめきの声がする。
だが、シャーロットにとっては、予想通りの言葉だ。
騎士団長の息子も、商人の息子も、伯爵家の次男も、ベンジャミンの言葉に驚いてはいなかった。
少し切なそうではあるが、ベンジャミンの言葉が正しいという目で、シャーロットを見ている。
子爵家令嬢は頬を薔薇色に染め上げ、勝ち誇ったようにシャーロットを一度見てから、うっとりとした目をベンジャミンへと向けた。
ベンジャミンは、子爵家令嬢の視線に気付くと、自信満々に頷き返し、言葉を続ける。
「君のように、思いやりのない女性とは、共に歩めない。私は、彼女との未来を選ぶ」
「…残念ですわ」
パチンと音を立てて、シャーロットは扇を閉じた。ベンジャミンを見上げれば、彼は一瞬怯む。
「何が残念だ。俺のことなど、どうでもよいと思っているくせに。いや、違うか。残念なのは、未来の筆頭公爵家夫人の地位が得られないことだろう。それとも、宰相の義理の娘になれなかったことか。どっちにしろ君はそういう女だ」
彼は、どこまで落ちていくのだ。
まくし立てるように言うその言葉に、シャーロットは身が凍るようだ。
その時、カフェテラスの見物の人だかりの端で、大きな笑声が上がった。