赤龍(ドラゴン)の花嫁
一年ほど前にコバルト短編で初めて「もう一歩」に残った作品です。
なんだか恥ずかしくて公開してなかったのですが、少し手を加えて公開することにしました。
コバルト短編は二ヵ月に一度の募集があるのですが、初投稿から十作連続で選外をやらかし、このままじゃだめだと自分なりに勉強し直して書いた作品です。
まだまだ未熟ですが、この作品からは選外なしで七連続もう一歩(もう一歩止まりですが…)なので、最初のもう一歩の作品として思い入れのある作品です。なんだか子供っぽい話だなあ、と恥ずかしさはあるんですけどね…。楽しんでいただけると幸いです。
王宮の牢獄に赤龍が囚われている。そこは石造りの堅牢な場所で、外光を取り入れるための窓もない。アナが恐る恐る鉄格子の隙間から中を覗いても何も見えなかった。少し獣臭い。
「危ないですよ」
牢番の兵隊に注意されて、アナは鉄格子から離れて肩をすぼめた。
「あの……。本当にこの中に赤龍が……?」
「ええ。今はおとなしいですが、いつ暴れだすかわかりません。あなたのような娘さんが来るところじゃありませんよ」
アナは牢番の意外な対応に驚いた。王宮へ奉公に来てから、こんなに丁寧な言葉遣いをされたことがない。アナの袖には緑色のリボンが結ばれていて、姫様付きの侍女であることがすぐにわかる。身分は低いがいつも王族の側にいて、どんな告げ口をされるかわからない。牢番は後難を恐れて言葉遣いに注意を払っているようだった。
アナは一年ほど前に田舎から出てきて奉公を始めて以来、理不尽な嫌がらせを先輩の侍女にしょっちゅう受けてきた。だから牢番が自分に見せる態度に、むしろ戸惑った。
「あの……牢番さん、どうしても赤龍を見たいんです。ランプを貸してくれませんか?」
牢番はランプに明かりを灯し、
「ちょっと下がっていてください」
と言うと、
「ほら、お前が持て」
と鉄格子の奥に向かって言った。
(お前が持て?)
そうアナが思う間もなく中から細い手が伸びてきてランプを掴む。その手は間違いなく人間のそれだ。アナが呆気にとられていると、少年らしいその影はランプを奥の机の上に置いた。引き込まれるようにアナは鉄格子に近づき、少年の様子を見つめる。少年は椅子に腰を下ろし、スープを飲みだした。
「……彼は何をやったのですか?」
アナは首を傾げて牢番に聞いた。
「やつが赤龍ですよ。人間に化けています」
アナはまた少年を見た。今まで暗闇で食事をしていたようで、パンくずが机や床に散らばっている。年の頃は十五歳くらいで、アナは自分と同じくらいなのではないかと思った。「彼が赤龍……?」という感じで牢番を見ると、牢番は無言で頷く。
そのうち少年が食事を平らげ、スープの入っていた皿を持ってアナの近くにきた。そしてバランスを崩し、
「うわっ!」
と叫んで転んだ。
「きゃっ! だ……だいじょうぶですか?」
少年は恥ずかしそうに起き上がって頭を掻く。
「へへっ、危なかったけど皿は無事だぜ。ねえねえ、あんた新しい牢番の人? この牢獄も嫌いじゃないけどさ、もっと飯の量を増やしてよ。そしたら俺はもう言うことないね」
少年がアナに皿を差し出すと、アナは反射的に鉄格子の中に手を差し入れた。その不用心さに少年の方が驚き、皿を渡そうとした少年の手元が狂った。
がしゃ
と、皿の割れる音が牢獄に響く。
「あーあ、またやりやがった。まったくドジな赤龍だぜ」
牢番は慣れていて、ほうきを鉄格子の中に投げ入れた。ほうきを受け取った少年は、バツが悪そうに割れた皿の掃除をする。アナは牢獄の中で掃除をする少年をいつまでも見つめていた。
「どうだった?」
アナが自分の仕える姫君の元へ戻ってくると、姫君のミスティアは身を乗り出してその話を聞こうとした。アナはミスティアに命じられて赤龍の様子を見に行ってきたのだ。
「……それが、よくわからないんです」
アナは緊張していた。
「わからない?」
「あ、あの……」
アナは熟れたほうずきのように顔を真っ赤に染めた。アナが王宮の姫様付きの侍女となって一年がたつが、ほとんどミスティアとは口を聞いたことがない。部屋の片付けや食事の世話などをするときにミスティアの側に寄ることはあるが、自分などが口を聞ける身分ではない。
「あの……おらが」
思わず緊張して田舎の言葉がでかけた。しまった……と思ってミスティアを見ると、次のアナの言葉を待つように小さく首をひねっている。
「す、すみません……。あの……私が牢獄に行くと、赤龍ではなく中には少年がいました」
ミスティアの美しい顔がすぐ目の前にある。アナは息を飲んだ。まるでミスティアだけを追いかけて照らす照明でもあるように白い光を放つように微笑んでいる。十九歳というから、アナの兄が生きていれば同い年だ。アナの村は他の村と同様に貧しかった。常に飢える心配をしていたが、それと比べて王宮の豊かさはどうだろう。毎日なにかしらの記念日とその宴があり、驚いたことに城門を改修したとか植木を入れ替えただけでもそれを祝う記念日ができてゆく。
「――王族が転んだだけで記念日が生まれる」
と、城下の者は声をひそめて噂し合っている。
王宮の腐敗が他国に攻め入る隙を与え、戦乱も貧困も王宮の腐敗が原因だ。そう多くの国民が考えていた。
「牢番の兵隊によると、赤龍が少年に変身したというのです」
アナは懸命に牢獄の様子をミスティアに伝えようとした。
「それで?」
「姫様に赤龍の様子をよく見てお伝えしようと、牢獄の中にランプを入れました。その少年は食事の途中だったようで、ランプの明かりで食事の続きをしました。……それを食べ終えたら『おかわりをくれ』という感じで私にお皿を突き出してきました」
「おかわりを……? それで?」
「でも、少年はお皿を落として割ってしまいました」
「そ、それで……?」
「それだけです。それで帰ってきました」
「そう……」
ミスティアは、
「三日にいっぺんは赤龍の様子を見にいって私に聞かせて」
そうアナに言って奥へと下がった。どうしてミスティアが赤龍になど興味があるのかアナには想像もできなかったが、
(姫様とあんなに話した……)
と、気分は高揚した。
「どこへ行っていたの、奥の掃除は終わった!?」
先輩侍女の声に我にかえり、アナはバネ仕掛けのようにその侍女の持っていたほうきをお辞儀をしながら受け取り、奥へと駆けていった。一番年下のアナは奴隷のような立場にいる。先輩たちの言いつけを守り、アナは一生懸命に働いていた。
「姫様、大変です!」
数日後、牢獄からアナが血相を変えてもどってきた。
「あ、あの子、姫様と結婚するためにここにきたと言っています!」
アナはミスティアの前で恐縮しながらも懸命に話す。
「私と?」
ミスティアはアナが思ったほどには驚かなかった。
「……姫様、結婚ですよ? 牢に囚われているのに、彼はまるで落ち込んでいないんです。へらへら笑ってばかりいて、『楽しいの?』と聞いたら、『姫様と結婚できると思うと楽しい』なんて言うんです。頭がおかしいとおもいます。できるわけないのに!」
アナは身振り手振りで今あった牢獄のことをミスティアに話す。そのアナの滑稽な様子にミスティアは吹き出してしまった。
「おほほ……。なんだかアナと赤龍は気が合うみたいね」
「……気が? そんなことはありません。あの子はなんだか図々しくて嫌いです。……姫様もですよね?」
「さあ、どうかしら」
ミスティアはアナの赤毛の髪を撫でてくれた。そして、赤龍とはそういうものなのですよ、と言ってアナに話す。
「赤龍は人に化身して人と身を結んで子孫を残すそうです。だから人と結婚するのは珍しくはありません。その少年と私が結婚することはないと思いますけど」
アナは「そうだ!」と言わんがかりに首をぶんぶん縦に振る。
そして、
(私の名前を……)
と、ミスティアが自分の名前を憶えていてくれたことに感動した。
その後も、アナはミスティアに言われたように三日に一度ずつ牢獄の少年に会いに行った。ミスティアはどういうわけかこの囚われの赤龍に興味があって、アナが見てきた赤龍の様子の細かいところまで聞きたがる。だからアナもミスティアのために必死になって牢獄の取材をした。
そんなある日、鉄格子越しに牢獄の中を覗くと少年の姿がない。暗闇の中をよく探してもどこにもいなかった。
すると、
――わっ!
と声がして、壁の影から急に少年が現れた。アナは悲鳴を上げて驚き、その場に尻もちをついた。
「あはは、ごめん。びっくりした?」
「こら!」
牢番が声を荒げた。
少年を叱りながら近づこうとする牢番を手で制し、アナはスカートの裾を払って静かに立ち上がる。
「だからごめんよ。そんなに驚くと思わなかったんだよ。退屈だからさ、君が来るのをずっと待っていたんだ。怒るなよ、会いたかったんだぜ」
「……べつに、怒ってませんけど」
アナは無表情に少年を見つめた。
「うへ……! 人って心から怒ると無表情になるんだよなぁ。たぶん、君はそうとう怒ってる。すごい無表情だもん。ごめんな」
笑顔で謝る少年につられて、アナも笑ってしまった。
「まったく……。そうだ、今日はこれを持ってきました」
アナは紙の包みを少年に渡した。
少年がそれを開くと中はクッキーだった。少年は一枚を手に取り、ちょっと匂いを嗅いでポリポリやりはじめる。
「君も食べる?」
少年は包みをアナに差し出す。
「お……おらはいいだよ」
びっくりしてアナは断った。貧しい村で育ったから、人に何かを貰い慣れていない。
「おいしいのに」
むしゃむしゃ少年はクッキーを頬張る。そのクッキーをすべて平らげ、丸めた包みをお手玉のようにして少年は遊びだした。アナはその様子もすべてミスティアに伝えなければならないと、じっと少年のことを観察していた。
「君の名前は?」
「お……おら? い、いいえ、私ですか?」
「あはは、どこの田舎者だよ」
「わ、私はアナと言います。名前を聞くなら自分から言うものでしょ?」
「俺はヒューってんだ」
「ヒュー……」
「うん。よろしくね」
少年は白く綺麗な手を鉄格子の外に出した。
アナはちょっと迷ったが、その手を握る。柔らかく温もりのある手で、明るい少年の印象通りだった。
アナは姫様の使いで牢獄に来ていることを伝えた。クッキーも姫様に渡されたもので、自分からの差し入れではないことも少年に言った。
それを聞いて、
「やったね」
少年はパチンと指を鳴らす。
なにがやったのかアナにはよくわからなかったが、姫様からクッキーを貰えば誰でも嬉しいに違いないと思った。
少年は街での暮らしのことをアナに話した。ごく普通の町人暮らしの話ばかりだったが、田舎の農村で育ったアナにはどの話も珍しい。街の建物のほとんどが石作りだと聞いて驚き、街の至る所に噴水があり、水の噴出を目で楽しむばかりではなく水汲み場が併設されていて、付近に住む者は自由に水を汲みにきていいと聞いては驚いた。
アナはずっと気になっていたことを聞いた。
「……あなったって、赤龍じゃないんでしょ?」
牢番に聞かれないように、そっと小さな声。
「ばれたか。俺は赤龍にさらわれそうになって、もがいて赤龍の爪を振りほどき、そのあとに来た城兵に捕まったんだ。俺を赤龍の化身と勘違いしてるから、これ幸いとここに来たんだよ。だから俺のことを怖がらないで、これからも会いにきてくれよ」
「これ幸い? ここにいるのが嬉しいの?」
「うん。街にいたって仕事はないし、仕事をしたって薄粥を日に一度食えたらいいほうだ。ここは宿賃が取られないし、飯も……クッキーだって貰えるしね」
少年はアナを見てウインクした。
「まあ……」
アナは聞いた瞬間、気を失いそうになった。
こんなに大胆な少年がいることにも驚いたが、街でさえもそこまで人が飢えているとは思わなかった。国中が飢えている。アナの村はアナが外出中に盗賊に襲われ村人の半分が殺された。むろん盗賊を恨んだが、盗賊と言っても飢えた他村の者で、すべては飢えが原因だ……。アナはそう思い、盗賊よりも貧しさを憎んだ。
「それにさあ、赤龍ってやつは王族の姫君に憧れるそうだ。このまま赤龍のふりをしていれば姫様とだって結婚できるかもしれない」
少年は両手を頬に当ててニヤケタ。
もう少し賢い少年だと思っていたからアナはがっかりした。
「バカね、牢屋に入ってる人が姫様と結婚なんてできるわけないでしょ。赤龍のふりなんてしていたら、そのうち殺されるわよ。ご飯なら私がなんとかしてあげるから、ここから逃げなさい」
「バカはお前だ」
「え?」
アナはむっとした。
「ふっ……怒りっぽいな。俺がここにいるのは考えがあってのことだ」
「どんな」
「飯が貰える」
「クッキーもでしょ? それは聞きました」
バカに付ける薬はないわね、と言おうとして、それは言い過ぎかと思ってアナは言わなかった。すべては貧しさが悪いのだ……。
牢獄からの帰り道に、アナは少年に言ったことを反省した。もしも少年がここから逃げてもアナには少年に食を与えることができない。少年に有らぬ期待をさせたかもしれない……。自分にできることは、この王宮で懸命に働き、田舎に残ったたった一人の肉親の祖母に仕送りをすることだった。アナの夢は、いつか街に自分の家を持ち、祖母を呼んで一緒に暮らすことで、それすらも叶いそうもない遠い夢だった。少年を逃がしてそれが発覚してここを追い出されたら、自分が飢えるしかない。
アナは、今日の少年の様子をミスティアに話した。
クッキーをおいしそうに食べたこと。少年はやはりドジで足先を机の角にぶつけてとても痛がっていたこと。服を後ろ前に着ていたこと。そんなことを懸命に話す。でも、少年がただの街の少年だとは言えない。それが誰かにばれると、少年がひどい目に合わされそうだった。
「あの……姫様」
「うん?」
ミスティアは優しい笑顔をアナに向けてくれた。噂とはまるで違う。王宮に来る前は、王族といえば搾取階級で、ミスティアの評判も悪かった。
「言いつけを俊敏にこなさなければ鞭で叩かれる」
そんなふうにも聞いていた。しかし、実際のミスティアの優しさはどうだろう。誇張ではなく、この優しい姫様のためならばアナは死んでもいいと思った。
「……姫様は、どうしてあの少年のことが気になるのですか?」
赤龍への好奇心……。最初、アナはそう思ったが、別の思惑があるような気がする。
「そうね……」
と言って、ミスティアは遠い目をした。
「私は昔、十二歳の頃だけど、ここに囚われた赤龍を逃したことがあるの。赤龍はどれも人に優しくて、すぐに友達になれる。敵じゃないわ。あのときの赤龍は年寄りだったけど」
「赤龍を姫様が逃したのですか……」
アナは天地が回転したほどに驚いた。
「それから私は、赤龍を逃す専門家で」
ミスティアはそう言って舌を出した。
アナは卒倒しそうになった。
アナも頭上高くを飛び去る赤龍を見たことがある。大きな体、鋭い爪、牙。赤龍の戦闘力が相当なものであるのかは誰の目にもわかる。その恐ろしい赤龍と、よりにもよってこの華奢な姫様が友達になれるという。
「赤龍の中には人に変身して、街中で生活している者もいるのよ」
「な、なんのためにですか?」
「さあ……?」
ミスティアは首をひねって続けた。
「お父様などは人間の土地を奪うために偵察にきている。そう言うけど、赤龍が本気になれば人などひとたまりもないから別の理由があるとおもうの」
「べつの理由……」
アナは唾を飲み込んだ。
「そうね、きっと寂しいんじゃないかしら。赤龍は数が少ないし、人間の友達を探してるんだとおもうの。もしかしたらお嫁さんも」
「お嫁さん……」
「アナはそんな赤龍と知り合えたら、お嫁さんになりたい?」
「私が……」
アナは空想するたちで、ありありと赤龍の花嫁になる自分を想像できた。赤龍の花嫁になれば、自分も赤龍になれるかもしれない。そうすれば、無限の力が手に入る。その力があれば自分の無力さに絶望することもなく、大切な人を守れるかもしれない。アナの顔はみるみる悲しみに沈んでいった。ミスティアはその表情の変化にすぐに気づいた。アナの両親と兄は盗賊に殺されたとミスティアは聞いている。そのことをアナは思い出しているのかもしれない。
「私のことを、本当のお姉さんだと思ってもいいのよ」
唐突にミスティアは言った。
なにを言っているのかすぐに理解できなかったが、それが自分を心配して放たれた言葉だと気付くと体を窮屈に折り曲げてアナは恐縮した。
「もったいない……」
と言おうとしたが、嬉しさに胸が詰まり言葉にならなかった。
その後もアナは牢獄の少年に会いに行った。ミスティアがなぜ下っ端侍女の自分にこっそり様子を見に行かせるのかもわかった。ミスティアは赤龍の脱走を助ける常習犯だから、王様からその行動を監視されている。アナに赤龍の様子を見に行かせて、隙をみつけて赤龍を逃がそうとしているようだった。
赤龍は王宮でもとても恐れられていた。
日の光を浴びて少年が赤龍に変身すると、もう人の力では太刀打ちできない。牢に捕らえた以上、赤龍は怒っているはずで、復讐が怖くて放つわけにもいかない。
「いっそ、殺してしまおう」
という意見が王宮内で議論された。
その日、牢獄の少年の元気がない。
「どうしたの?」
とアナが聞くと、一昨日から食事を貰っていないという。アナは持ってきたお菓子をそっと少年に渡した。差し入れは牢番にばれないように、とミスティアに言われていたが、こういうときのためだったのかとアナは納得した。どうやら少年を飢え死にさせるつもりらしい。
「なんてひどい……」
アナはもっと多くの食べ物を持ってくる方法をあれこれ考えた。
「三食昼寝付きかと思ったのにな」
少年は情けない顔をした。
「ここにいてももう意味なんてないでしょ? あんたがただの街のゴロツキだってみんなに話しましょう」
「ゴロツキはひどい」
「いいから!」
「とても……」
少年はかぶりを振った。さんざん赤龍のふりをして尋問を受けてきたので、今さら信じてくれそうもない。
「かわいそうだが、食事を止めるのは仕方のないことだ」
牢番もそう言って少年に同情した。
牢獄は赤龍専用のもので、例え少年が赤龍に変身しても打ち破ることができない頑丈な作りになっている。もっとも、赤龍は日の光を浴びなければ変身できない。日の光が届かない地下の牢獄では変身の望みもなかった。牢番によると、ミスティアが赤龍を逃がすたびに牢獄は頑丈なものに作り変えられたという。
(私が逃さなければならない)
アナはそう思って唇を噛みしめた。
責めは自分一人が受ければいい。牢番にばれないように食料を持ってくるには限界がある。少年が飢える前にここから逃がさなければならない。
牢獄の少年の食事が止められたことを聞いて、ミスティアは青い顔になった。
「私が彼を逃がします」
そう言おうとして、アナは黙った。
そう言えば、ミスティアの指示で赤龍を逃がしたことになるかもしれない。責任は自分一人で背負おうと思った。ただ、どうしてもミスティアに言っておかなければならないことがある。
「……姫様、驚かないでください。牢獄の少年は、実は赤龍のふりをしたただの男の子なんです」
「ただの男の子? それをあなたは信じているの?」
「え……? は、はい」
「まあ、お人好しね。あなたのそういうところ、嫌いじゃないけど、人のやることには裏や思惑が付いてまわって、必ずしも最初から本当のことを言わないものなのよ。善悪とは別の次元で」
「善悪とは別のじげん……?」
アナにはミスティアの言おうとしていることがわからなかった。アナの理解する時間を待っていたのか、少し間を置いてミスティアは言葉を重ねた。
「あなたがここの仕事に馴染めないのは、あなたの責任ではないの。私もここの生活に馴染めないけど、せめてあなたは自由でいてほしい」
それでもミスティアの言おうとしていることがアナにはわからない。しかし自分のことを心から心配してくれているのは理解でき、
「はい!」
と元気に返事を返した。
数日後、アナは牢獄の少年を訪ねた。服の中に固く焼き固められたパンを隠し持っている。ミスティアに持たされた物で、パンは腹持ちがいいようによほど圧縮されているのかやけに重い。
アナが牢獄の暗闇に声をかけると返事がなかった。
何度も少年の名前を呼ぶと、ようやく中で人の動く気配がした。
「……やあ、四日ぶりだね」
中から力のない声がした。
アナが頻繁に牢獄に出入りをしているのが発覚して、ここへ来ることが容易にできなくなっていた。少年は食事を止められて起き上がる体力もなくなっている。それでも少年はのっそりと起き上がり、アナのために青白い顔で笑顔を作った。ガイコツが笑ったようにアナには見えた。
「……バカね、笑ってる場合じゃないわよ」
懐のパンを渡すと、それよりも水が飲みたいと少年は言った。血の気のなくなった唇が乾燥して痛々しく荒れている。牢番に彼に水を与えてもいいかと聞くと、牢番は気の毒そうに首を横に振った。
牢番の机の上に花瓶があり、新鮮な花が活けられている。
「この花瓶の水を貰ってもいい?」
とアナが聞くと、意外にも牢番は首を縦に振った。切り花を花瓶から抜き取り、水の入った花瓶を持って少年の元へ駆けるアナに、
「水は替えたばかりだから新鮮だよ」
と牢番は言ってくれた。飢えと渇きに苦しむ少年に、せめてこの花瓶の水を飲ませてやりたい……。そう牢番は空想していたのかもしれない。
「花瓶の水かよ」
少年は嫌そうな顔をしたが、よほど喉が乾いていたとみえ、すべての水をおいしそうに飲み干した。
「私が必ず逃がしてあげます」
アナは少年に約束した。
「俺は本当は赤龍かもよ。……ドジを踏んで捕まった赤龍だったらどうする」
「……それでも逃がします」
ところが、アナがミスティアの使いで牢獄の赤龍に会っているということが王の耳に入ると、アナは王の命令で王宮の役目を罷免された。「必ず私が逃がしてあげます」と少年に言ったが、あれから牢獄へ行く機会がなく、五日がすぎていたときだった。そのお達しを受けたとき、アナは頭上に森の大木が朽ちて倒れてきたほどの絶望を感じた。もう姫様にも会えない。すぐに王宮から出なければならなかった。
私室で荷物をまとめ、同室の侍女に頭をさげてアナは部屋を出た。もう王宮の侍女ではない。
速やかに門から外に出なければならなかったのだが、お叱りを受けるのを覚悟で牢獄のある建物へ行った。扉を叩くと、いつもの牢番が中へ招き入れてくれる。牢番はアナがお役御免となったことをすでに知っていた。知らなかったとしても、アナの裾のすり切れた粗末な私服を見ればそれが想像できただろう。当然、袖には姫様付きの侍女を示す緑色のリボンもない。
「まだ、生きてる」
それだけを言って牢番はアナに牢獄の鍵を握らせた。
「うっかり俺が昼寝をしたことにしよう。その隙に鍵を盗まれた」
聞けば、牢番は水と僅かの食料を少年に与えてくれていたという。ただ、牢番の家も貧しくて食料が家族の分も十分には手に入らないから、「ほんの僅かだけど」と牢番は申し訳なさそうにアナに謝った。アナが牢番の顔を見ると牢番も十分な食事を取れていないのか、以前よりも頬がこけたように見えた。
「戦争なんかしなければいいのに……」
アナは貧困の原因を憎んだ。
鍵を開けると少年がよろめいて通路に出てきた。酷く痩せて、初めて会ったときとは別人に見える。
「俺が怖くないのか? 赤龍かもしれないぜ」
ぜんぜん……という感じでアナは首を横に振った。
寝たふりをする牢番の横を通り過ぎるとき、アナは牢番の背中に抱き付いた。
「おじさん、ありがとう」
わかった……という意味なのか、寝たふりをする牢番はイビキの音を大きくして答えた。
それに寝言っぽく、
「なあに、俺がこっそり食事を与えていたのがばれたらまずいからよ。早く行っちまえ」
と言った。
牢獄の建物の外に出て、少年は久しぶりの太陽の光を浴びた。みるみる身体が赤く染まり、膨れたように膨張する。土煙がにわかに立ち上り、それが風に洗われたあとに巨大な赤龍の姿があった。
気付くとアナは赤龍の大きな背に掴まり大空を飛翔していた。
どんどん街や森が小さくなり、雲さえも白く眼下に展開されている。
「君の村まで送っていくよ」
少年の声がアナの頭の中に響く。
「……送ってくれるの」
「世話になったからね」
「道を間違えない?」
「たぶん」
このドジな少年が真っ直ぐ飛んでいけるのかとアナは思った。
しかしあの少年の姿は赤龍から見た人間を演じてみただけで、赤龍から見た人間とは、あのようにドジで愛嬌がある存在なのかもしれない。人間をそう思ってくれているのなら、赤龍とも友達になれそうな気がした。
「あなたは……。ヒューは、姫様と結婚したかったの?」
「うーん、どうだろ。アナの姫様とは会ったことがないからな。でも、人間の姫様と赤龍が結婚したら、他の赤龍と人間たちも上手くやっていけそうじゃないか。だから、できるなら姫様と結婚したかったね」
「私とじゃだめ?」
言ってからアナは頬を赤く染めて言い直した。
「おらと……。いいえ、私とじゃなくて、姫様以外の人間ではだめなの?」
「べつにだめじゃないよ。俺のあの人間の姿は、もうひとつの本当の姿だしね。赤龍と人間は古い時代は仲が良かったんだ」
「……そうなの」
「あと、これ」
二つの小さな布袋がアナの前に落ちてきた。中を見たら、金貨が数枚ずつ入っている。
「それ、アナが持ってきたパンの中に入ってたやつ。姫様がこれを持たせてくれたんだろ? 二つあったから、一つはアナの分だよ」
「金貨を姫様が……」
「知らなかったの?」
「……ええ」
アナはミスティアの優しい顔を思い出して涙が出てきた。ミスティアは王宮の仕事にいつまでも馴染めない自分を、赤龍と共に外に逃がすつもりだったのだろうか。
日がすでに高い。きらきらする光彩をいっぱいに浴びて日の匂いをアナは嗅いだ。
(お婆ちゃん、私が赤龍と一緒に帰ってきたら驚くだろうなあ……)
そう思い、アナは赤龍の背に強くしがみついた。