第二章「秘密」―4
「ウィオさんには先程話しかけていたのですが……〝鬼の森〟という昔語りを、ご存知ですよね?」
「ええ」
「ああ」
「あの昔語りに出て来る森は……ウェブラムの森なのです」
その言葉に、リラが完璧に固まった。
体が完璧に硬直し、お茶を飲もうとして伸ばし掛けていた手は空中停止し、目が零れ落ちそうなほどまでに見開かれている。
「だ……大丈夫か? リラ」
「…………」
その問いにも、リラは答えない。
「リ……リラ?」
「大丈夫? ……リラ?」
突然、リラが声を上げた。
「…………分かったわっ!」
「何が……だ?」
ウィオが仰け反りながらも訊ねると、リラは自信に満ち溢れた様子でマウェに迫った。
その勢いに圧され気味になりながらも、マウェは何とか言葉を搾り出した。
「な……何を、です?」
「あの昔語りに出て来る人達……あの、妹背の君は……私達と同じ。違いますか? 同じように、女の人は存在を隠された巫女で、その背の君はその婚約者!」
そのリラの興奮したような声に、マウェは少し気圧されながら頷いた。
「え、ええ、そうです。彼女は同じように巫女で、そう、貴方達は彼らと同じ運命を辿るようにされていますね」
あまりにもサラッと言われたので、一瞬事態が理解できなかった。
「……んなことサラッと言うなよ! 気味悪いからよっ! でも……俺らは、あいつらに利用されようとされてるっつう訳か。……ん? ちょっと待て」
ウィオはいきなり真剣な顔をして言った。
「お前の言う通りだったとしたら……変だぞ」
「何が?」
シャンリンとリラは、キョトンとしてウィオを見詰めた。
「……ああ! 確かに、変だ」
ウェルも、息子に同意して頷く。
「あの昔語りでは、『二度と人を寄越すな。人を寄越したら、その者を殺し、帝都に血の雨を降らせよう』とか言ってなかったか? だったら可笑しい。《ウェルクリックス》の羽が、取り引きされるはずがない」
その言葉で、シャンリンとリラも気が付いたようだった。
「ああ! そう言えば……!」
「確かに、そうよね。マウェさん、一体、どういうことですか?」
その鋭い問い掛けに、マウェはただ微笑んで言った。
「決まっています。あの昔語りの時代以降、《ウェルクリックス》を捕りに行く者はいませんでしたからね」
その答えは、更なる疑問を押し寄せることになった。
「どういうことだよ? 昔語りって言うんなら、大昔のことだろ? 何で……」
「ええ。ですから、曾祖父の時代に起きたということですよ。以前――まだ曾祖父が小さい子供だった頃、《ウェルクリックス》を捕りに人が来た時は、主らしい女性は見たこともないほど綺麗な服を着ていて、お供の数も十人前後、彼らは高貴そうな侍女と美々しい護衛のように見えたそうです。その上、礼金として渡されたのは、辺境の村には似つかわしくないほどに大変豪華な織物や装飾品、金銀財宝だったとか。まあ、それは宿泊代だけでなく口止め料の意味合いもあったと、曾祖父は笑って言っていましたが」
マウェは肩を竦めると、ふと真剣な顔になった。
「曾祖父がまだ十代の頃、《ウェルクリックス》を捕らえに行くと言う、男二人に女一人の三人連れが泊まったことがあったそうです。その三人は、《ウェルクリックス》のことを秘密にする必要があるとは夢にも思っていなかったようで、宿屋の主人に、堂々と《ウェルクリックス》のことを訊ねたようです。宿屋の主人は驚き、その当時村長だった曾祖父の祖父に慌てて訊ねに来たそうです。ですが、その時にはもう彼ら三人は出発していたようで、曾祖父の祖父は取り敢えず放っておけと言ったそうです」
マウェはそこで、軽く息をついた。
だが、他の四人は違った。
ただ目を瞠り、マウェの話に聞き入っていた。
「そして、その数日後……男のうちの一人が、息せき切って駆け戻って来たそうです。その姿は、少なくとも一日以上は走って来ただろうと思えるほど乱れ、半狂乱になっていたそうです。口からは泡を噴き、目は血走り、到底人の形相とは思えなかったそうです。取り敢えず、彼を落ち着かせて眠らせたそうですが……彼が目覚めた時に話した話は、とんでもないものだったそうです」
マウェは悲しげに目を伏せると、淡々と話した。
「彼らは《ウェルクリックス》を捜し、数日間歩き回ったそうです。そしてある夕方、森の中に小屋を見つけたそうです」
「小屋……?」
ウィオは眉を顰めて言った。
「ええ。普通であれば怪しく思うはずです。ですが、彼らは本当に何も知りませんでした。《ウェルクリックス》のことも、ウェブラムの森のことも。ウェブラムの森は、神域です。《ウェルクリックス》を捕らえる時以外には、大飢饉でも起こらない限り、人が奥深くに踏み込むはずがありません。ですが、彼らは知らなかった。だから、彼らはそこの小屋を訪ねた。そして、そこには一人の老婆がいたそうです」
「老婆って、まさか……」
リラが、思わず声を上げた。
「ええ。〝鬼の森〟に出て来た、あの魔女です。ですが彼らは、そんなことは知らない。一晩の宿を、魔女の元に求めたのです。魔女はそれを受け入れ、彼らを一晩泊めた。そして、その翌朝……」
マウェの顔色は、だんだん悪くなってきた。
蒼褪め、冷や汗を掻いているようだ。
「彼らは目覚め、魔女の元を引き払おうとした。その時、《ウェルクリックス》のことを訊いたそうです。そして、その魔女は何故そんなことを訊くのかと訊ねました。その問いに対し、彼らは皇帝に命じられて来たと、そう……答えました。そして、その魔女は……彼らに、ここに留まるようにと言った。彼らは、それを断ったそうです。自分達にはやらなければならないことと、戻らなければならない場所があるから、と……。その後のことは……皆さんがご存知の通りです」
その声は、ウィオの心の中に深く刻み込まれた。
「じゃあ、それで……お前らの村は……ミカッチェ村は、取り潰されたのか?」
「ええ。私達の村には、何の問題もありませんでした。ですが、何をどうやったのか……いきなり帝都から役人が来て、この村は取り潰されると……そして、村長の一族、副長の一族、彼の話を聞いた村人達全員を奴隷として帝都に連行すると言い放ったそうです。そうして、今に至っております」
マウェの言葉は、深く皆の心に沁み込んだ。
「……それじゃあ、リラのこと、話さなきゃね」
しばらく経ってから、シャンリンがぽつりと呟いた。
「あの時……四年前、リャイが死ぬ前にね、少しだけ話せた時間があったの。あたし達は、子供の時から仲が良かったから。それで……その時、あたしはリャイから一本の首飾りを預かったわ。綺麗な琥珀の首飾りでね、リラの琥珀色の瞳ととても良く似合う物で、不思議に思ったのよ。だから、
『どうしてこれをあたしに?』
って訊いたの。
『どうしてリラじゃなくて、あたしに渡すの?』
って。そしたらね……リラが巫女としての能力を発揮するようになったって言うのよ。普通の人間に巫女をどうこうすることは不可能だけど、でも、リラが巫女だってことがばれたら、この村は……メイラン村は消え去ってしまう。だから、無茶を承知で……リラの力をこの琥珀に封じ込めたのだと……そう、言ってたわ」
母が親友に遺したという言葉を聞いて、リラは耐え切れずに口元を手で覆った。
そんなリラの様子に、シャンリンは気遣うように笑みを見せる。
「リャイね、今、この首飾りをリラに渡すことはできない。これを持ってたら、リラの巫女としての能力が発動してしまうからって、言ってたのよ。でもね、それを他人が持ってれば……大丈夫らしいわ。だから、あたしに預けるって……。そして、宜しく頼むって……もう、お父さんがいないんだから、私の子供達を、宜しく頼むって……」
シャンリンの言葉は、小さくなって消えた。
そして、密かな嗚咽に紛れた。
誰も、声を掛けることができなかった。
その悲しげな声に、苦しい涙に……。
その時、何故かウィオの十一歳の上の妹、シャレイが起きて来た。
「あれ……? みんな、どぉして起きてるの? 寝ないの?」
まだ眠いのか、目を擦り、欠伸交じりだった。
「シャレイ」
ウィオはすぐに立ち上がり、そっと寝室に連れ戻した。
「どうして起きて来たんだ?」
「うぅん、何かねぇ、怖い夢見たの。それでね、その中でねぇ、知ってるのに見覚えのない人が死んじゃったの。それで、みんな泣いてたのにね、一人だけ泣いてない人がいたの。その人、笑ってたんだ。滅茶苦茶ニコニコしてて……嬉しそうにしてた。……ヒック、ウ、怖かったの……!」
シャレイはそう言うと、ウィオに抱きついた。
「シャレイ、夢だよ。だから、大丈夫だ。シャレイは何ともないさ。だけどな、だったら姉さんを起こせよ」
「酷い! あたし、誰か起こすつもりなかったもん! ただ、起きたら人の話し声聞こえるから、何かなぁって思って来ただけだもん!」
シャレイはむきになって言ったが、そこにいた皆の笑いを誘っただけだった。
「……とにかく、もう寝ろ。シャレイ」
「じゃあ、兄さん一緒に寝て?」
「……分かった。じゃあ、父さん、母さん、リラ、マウェ、おやすみ」
「おやすみなさい、ウィオ」
ウィオはシャレイの手を引き、寝室へ入った。
ウィオがいなくなった後、シャンリンは小さな笑いを洩らした。
「……やっぱり、子供って可愛いわ……何だか、周りの空気を読まないことがあるから……逆に励まされることもあるのよね……」
シャンリンのその涙混じりの声に、リラは頷いた。
「ええ。私も一応子供ですけど……でも、年下の子に勉強を教えてると、何だか、こう、可愛いなって……純粋できらきらしてて……」
「ところで、これでお話は終わりですよね?」
「ああ、そうだな」
ウェルが頷くと、マウェは穏やかに言った。
「それでは、戻らせて頂きます。抜け出して来たので、最低でも日が射すよりも前には戻らなければなりませんから」
「あ、じゃあ、私も家に戻ります。弟達に黙って出て来たから、もし朝起きた時に私がいなかったら、不安になると思うので」
そう言うと、リラとマウェは席を立った。
「では、私が送って行きましょう」
「え、いいんですか?」
「ええ。どちらにしろ、同じ方向ですから」
「ありがとうございます、マウェさん」
彼らは、家を出て行った。
「……シャンリン、寝るか」
「ええ、そうねぇ……でもあたし、何だか眠る気分じゃないんだ。お茶飲んでから眠るわ。残すの勿体ないし」
「……そうか。おやすみ、シャンリン」
「おやすみ、ウェル」
ウェルも寝室へ入って行き、部屋に残ったのはシャンリンだけになった。
シャンリンは動く様子も見せず、あらぬ所を見詰めながら、座っていた。
ただ、静かに……。
夜は、次第に更けて行った。
その夜が深まり、空が白みかけた頃……ようやく、シャンリンは動いた。
朝食を作る、準備の為に。
その朝、ウィオ達が起きて来ても、誰も何も気が付かなかった。
一睡もせずにいたシャンリンに。