第二章「秘密」―3
その夜、ウィオの姉のシュリーと妹のシャレイとシュミアは先に眠り、ウェルとシャンリンとウィオとリラだけが起きて奴隷の男が来るのを待っていた。
「……失礼致します」
だが、ウィオがその気配に気が付いた時には、彼は家の中に入って来ていた。
扉が開く音にも、閉まる音にも気が付かなかったのだ。
ウィオは、幼い頃は騎士になりたいと願っていた。
その夢が叶わないと知ってからも、剣の鍛錬や基礎体力作りなど、そういったものは今までずっと欠かさず行ってきた。
そして以前、国中を放浪していた腕のある傭兵が村にやってきた時に、その才能があると認められるほどの巧さだった。
だから、人の気配にも敏感なはずなのだ。
そのウィオですら、声を掛けられる直前まで気が付かなかった。
しかもウィオが、彼が来たことを覚れたのだって、彼が意図的に、僅かに気配を現したからだった。
ウィオはその技に感嘆すると同時に、警戒を強めた。
このような人物が、ただの奴隷だとは……俄かに信じられないのだ。
(絶対に……こいつには、何か裏がある。一体……何なんだ? こいつの正体ってのは……。不気味だ。確かにこいつは、かなりの訓練を積んでるはずだ。だが……奴隷にこんな訓練を受けさせるか? 普通。しかも、警備とか兵に使うんじゃなくて、娯楽用の闘士でもない、ただの世話係の奴隷に。危険だ……こいつは、危険だ。一体……こいつは何者なんだ?)
ウィオが考えているうちに、シャンリンとウェルとリラは、彼を迎え入れていた。
「いらっしゃい、ええっと……」
シャンリンはウィオに視線を向けた。
ウィオはそれに答えようと思ったが、そこでふと気が付いた。
(あれ……? 俺って、こいつの名前……訊いてたっけか? 確か……訊いてなかったような……うん。訊いてねえよ。そんな暇、なかったもんな)
「あ、いえ。ご子息には、私の名前はお話ししておりませんので……」
その言葉に、リラの鋭い視線が、ウィオに飛んだ。
「……ウィオ。あんたねぇ……人の名前も訊かないで勝手に……!」
リラの声が大きくなりそうな時、彼は絶妙なタイミングでリラの話の腰を折った。
「いえ。私の方から話し掛けたのですから、副長殿。そう、怒らないで下さい。それに、私が名前を名乗る暇もなく話をしたのですから……」
「あ……そうですか……」
リラの口調から、突然勢いが消え失せた。
だが、それでも一言付け加えるのを忘れなかった。
「それで、貴方のお名前は……? あ、あと、私のこと、リラって呼んで下さい。『副長殿』って……何だか、くすぐったいんで」
「はい、リラ殿」
「……ですから、『殿』は要りません……」
リラが半分脱力したように、まるで消え失せてしまいそうな声で言った。
「でしたら、貴女も私に敬語はやめて下さい。それでしたら、『殿』を付けないでお呼び致しましょう。私は奴隷ですから、農民の身分の方に敬語を使われるような立場にありませんので」
「……年上の方に、敬語を使うなだなんて……無理です……」
「それでは、『リラ殿』とお呼び致しましょう」
「……その……せめて、『さん』で……お願いします……」
「分かりました。そのように致しましょう」
「ええ……お願い、します……」
何となく、リラは丸め込まれてしまった。
「では、其方の名は?」
「私の名は、『マウェ』と申します」
「『マウェ』……? 何だか、綺麗な名前ねぇ」
シャンリンが、溜息混じりに呟いた。
「ありがとうございます。これは、私の父の名前であり、祖父の名前でもあるので、それを褒められるととても嬉しく存じます」
マウェの言葉に、シャンリンはパンと手を打った。
「まあ、素敵ね。つまり、代々の長男が同じ名前を継いで行くってこと? 面白いわ」
「いえ、長男だけではありません」
「と言うと?」
「私には弟が二人いますが、その二人の名前も代々継承されているものです。それに、姉の名前も、妹の名前も」
マウェの言葉に、シャンリンは益々嬉しそうな顔をした。
「つまり、長男には長男、長女には長女の名前があるってこと? 面白いわね。そう言えば、そういう風習があるって聞いたことがあるわ。……どこだったかしら……?」
シャンリンが考え込むと、マウェは嬉しげでありながら、どことなく淋しい微笑みを顔に浮かべて言った。
「私の村のことを、憶えていて下さる方がいらっしゃったとは。抹消された存在だと言うのに……嬉しく存じます」
「……どういうことだ?」
ウィオは、思わず声を上げた。
抹消された存在だということは、その村は併合されてしまったということ。
だが、併合されてしまったとしても、奴隷になる訳がない。
精々が孫作くらいであり、扱いも『農奴』としか言えなくても、完全に社会の底辺に位置する『奴隷』とは身分が違うのだ。
だが……マウェの口振りだと、そういうことらしい。
「どうもこうもありませんが。私の曾祖父の代までは、私の一族は奴隷ではありませんでした。そして、ミカッチェ村という村も……存在しておりました」
「ミカッチェ村……? それは、一体どこにあったのかな?」
ウェルは、思い出せそうで思い出せないような、もどかしげな声を上げた。
「聞いたことがあるかもしれません。ウェブラムの森のすぐ傍にありました村です」
「ああ! ウェブラムの森か。なるほど、聞いたことがあると思った」
そう納得したのはウェル。
しかし、その言葉でリラの顔色は少し変化した。
「あの、ウェブラムの森って……あの、ウェブラムの森ですか?」
「はい。《ウェルクリックス》のいる、あのウェブラムの森です」
「な……!」
ウィオは、その言葉に驚いた。
そして、納得した。
「だからお前、ええっと、《ウェ》っ……何だっけ……?」
「《ウェルクリックス》っ!」
すぐにリラの声が飛んだ。
「悪い。で、だからお前は《ウェルクリックス》のこと、そんなに詳しく知ってた訳か?」
「ええ。私も曾祖父から聞いただけなのですがね。でも、それまではよく巫女達が立ち寄ったことや、そのお陰で頂いた礼金などのこと、色々話してくれましたよ」
マウェはその時のことを思い出したのか、目を細めた。
「ああ、だから、貴方達は奴隷になってしまったのですか?」
リラは、納得したような、それでいて物悲しげな声を上げた。
「リラ……?」
ウィオは全く意味が分からずに、眉を寄せた。
「《ウェルクリックス》の秘密を知る人を、そうそう簡単に野放しにできないと……」
「ええ。そうです。今あの場所にいる村の人は、《ウェルクリックス》のことは詳しく知りません。ただ、昔は妃が遊山でウェブラムの森に来ていたと……それだけを認識しております。……ですが、実はこれだけではないのです。もう一つ、村長と副長の家に伝わっていて、だからこそ私達一族を野放しにできなかった理由があったのです」
マウェは、真剣な目をして言った。