第六章「力の制御」―1
翌々日、リラは日が昇る前にぱちりと目を覚ました。
アーリンから言われていたように、できるだけ一昨日のことは思い出さないようにはしていたが、それでもこれからの修行のことを考えると、緊張してよく眠れなかった。
何しろ、『陣を張る』とまで言われてしまったのだ。
普通、巫女も術者も、そんなことは滅多にしない。
大抵のことは、その場でできるからだ。
わざわざ陣を張るという場合は、それこそ城などの重要な場所の侵入者対策しか聞いたことがない。
いや、随分と前に、戦争で焔の陣を敷き、敵軍を壊滅に追い込んだことがあると本で読んだことはあるが、それこそもう百年以上昔の話で、しかも他国での話だ。
つまり、それほどの大規模な術が行使されるのだ。
それも、たかがリラの修行で。
いや――たかが、ではない。
一昨日だけで、この村に大雪をもたらし、家一軒の室内をぐちゃぐちゃにしてしまった。
危険だから、対策をするのは仕方がない。
そう思っただけでも、あの時の光景が甦って、息が速くなる。
リラは努めてそれを抑え込むと、体を起こした。
そして、昨日のうちに作り置いていたスープをよそうと、他の皆を起こさないように、手早く静かに食事を済ませる。
普通、術者や巫女の力という物は、『意志の力』が全てなのだという。
勿論経験も左右するが、それ以上に、強い意志が重要だ。
激しく感情を揺さ振られた時――特に憎しみや悲しみ、恐怖に支配された時には、『現実を直視したくない』という意志、もしくは『特定の対象を滅ぼしたい』という意志が働いてしまう。
その強さは、通常の意志とは比べ物にならないほど、強い。
普段の意志の強さなら、自分でどの程度か把握していて制御できても、そういった特別な時の力は、いわば理性という枷が解けた状態だ。
自分で把握しきれていないし、理性も小さくなっているから、敢えて制御しようという気持ちも湧かない。
だから、暴走してしまうのだという。
でも、リラの場合は違う。
まだ、自分の力が把握できていない。
だから、些細なことで暴走してしまったのだ。
それを克服する為には、一度自分の力の限度を知る必要がある。
その為に、大掛かりな陣が必要なのだ。
昨日、アーリンはそう説明して、多くの巫女とともに森に入って行った。
何故術者が行かなかったのかと言うと、巫女と術者の力は性質が違うからだ。
術者は剛、巫女は柔。
結界――外からも内からも影響を受けなくなる一定の範囲を指定する術は、柔に属する術だ。
だから、剛の術者では駄目なのだ。
リラは、まだ薄暗い森の中を歩き、目的地に急いだ。
昨日の夜になってから戻って来たアーリンに、詳しい場所は聞いてある。
元々村育ちだし、幼い頃はよく林の中に入って遊んでいたリラだ。
方向感覚にはそれなりの自信があったが、それでもこの森は深い。
迷いそうになりながらも進むと、橙色の朝日が差し込む頃、突如として視界が開けた。
リラは、間抜けのようにぽかんと口を開けて、辺りを見回す。
かなりの広範囲で、木がなくなっている。
恐らく、六丈か七丈くらいの広さだろうか。
それまでの場所は密集していたので、どこか異様な風景だった。
だが、あまり人工的な印象は受けない。
恐らく、元から開けた所だったのを、更に広げたのだろう。
「リラさん、こちらです」
向こう側の切り株に、アーリンが腰掛けていた。
「アーリンさん」
リラが駆け寄ると、アーリンも立ち上がる。
「ここを、昨日?」
「ええ。これだけ広ければ、恐らく大丈夫でしょう」
「そうですか……」
リラは、改めて辺りを見回した。
不思議なことに、木々がなくなった部分の内側は、雪が積もっていない。
術の力を感じることから、恐らく雪をどかしたのだろう。
リラは、アーリンに導かれてその中心に移動する。
冬で、辺りは一面雪が積もっているのに、リラ達が立っている場所にはほんの一片の雪もない。
それが、どこか奇妙だった。
アーリンはちょうど真ん中で立ち止まると、ひたとリラを見詰めた。
「リラさん。貴女にはこれから、貴女の中にある全ての力をここで放ってもらいます。貴女の属性は風。つまり、突風を吹かせることを念頭に置いて力を放てば、貴女の力がどれほどのものなのかが分かります」
「はい、分かりました」
リラは、緊張しながら答えた。
確かに、自分が最初に力を使ったのは、自分の周りの雪を減らし、空気を暖めるというものだった。
だから、最初にリラは自分が火系の属性だと思っていたのだが、本当は風の属性だと聞かされて酷く驚いた。
どうやら、火系の熱で雪を溶かして空気を暖めていたのではなく、風の力で雪を散らし、自分の周りの風が動かないようにして周囲の雪交じりの風を防いでいたのだそうだ。
だから、今まで自分が使った力は風のみということで、突風を吹かせるというのは理に適っている。
しかし、結界の陣はどれほどの強度なのだろうか。
もし、うっかり結界を破ってしまったら――そう思って緊張したが、まさかアーリンがそんな弱い強度の結界を張るはずがないと思い直し、何度も深呼吸を繰り返す。
やがて、アーリンが陣の外に出て、自らにも結界を施して頷くのを確かめると、体の力を抜いて心を鎮め、風を思い浮かべた。
そう、強風。
まるで野分きのような、何もかもを吹き飛ばす、圧倒的な力。
周囲で、風が渦巻き出す。
ゆっくりと目を開けると、微風が自分の周りを巡っていた。
リラは、驚きに目を瞠った。
こんなに弱い風を起こせたのは、初めてだった。
だが、こんなものでは駄目だ。
もっと強く、もっと激しく――
風が、波打ち出す。
枯草を巻き上げ、雪の下に隠れていたのだろう、比較的形が残っている落ち葉が宙を舞う。
リラは、もう一度目を閉じた。
そう、一昨日のような――いや、それよりももっと強い風を。
大丈夫、昨日は何もなかったけど、今、ここには、アーリンが敷いた陣がある。
だから、暴走しても、ランクェルには何の影響も出ない。
大丈夫――。
ふと、心の中にあった『枷』のような物が、外れたような気がした。
酷く、解放的な気分になる。
己の中にわだかまっていた物が、全て解き放たれたような気がした。
どこか愉快になって、更に体の力を抜く。
心の奥底――そこから、どんどんと力が溢れ出す。
リラは、知らず知らずのうちに微笑んでいた。
もう大丈夫、どこに力があるのかが分かる。
心の底に、泉のような物があるのが感じられた。
それは大きな大きな泉で、充分過ぎるほどの広さがあり、自分の力がそこから溢れているのがよく分かる。
更に、そこから通じる所に栓があって、今は全部開放されている。
意識すると、その栓が狭くなった。
ぎりぎりまで狭めると、微風が渦巻くのが感じられた。
そう、これくらいの強さだったのだ、最初の時は。
それから、どんどんと全開放に近付ける。
六割の広さになった時に、感じた。
一昨日は、多分これくらいだった。
そこから、更に広げる。
気持ちいいくらい、力が溢れ出す。
抑え込まれていたモノが減り、くつろいだ気分になる。
リラはくすくすと笑うと、力を全開にした。
一部を自分の周囲に配し、それ以外を陣の中で暴れ狂わせる。
ただ気分と力の赴くままに吹き荒らすより、意図的に己の周りの風の壁に激突させたり、結界の外側にぶつけたり、縦横無尽に吹き巡らす方が難しく、力の調整も難しかった。
だが、絶対に外には出ないと分かっているのだから、他の場所で使うよりも繊細さは必要ない。
だから、気分は楽だった。
力を開放してから、一体どれくらい時間が経っただろうか。
少なくとも、四半刻は経っていないはずだ。
心の泉が、半分くらいに減った。
でも、限界まで出すようにと言われている。
もし、この泉が全部なくなったら――そう思うと少し不安だったが、力の枯渇した巫女の話なんて聞いたことがないし、全部使い切っても、多少目が回ってしばらく力が使えなくなる程度だろう。
少なくとも、死ぬことはない。
リラは、更に風を暴れ狂わせた。
その時、突然、パリン――という、高く澄んだ音がして、リラは思わず力の開放を止めて目を開ける。
リラの前には、わだかまった風の塊があり、陣が敷いてあった範囲のあちこちに枯葉や枯草が飛んでいて、宙に浮かんでいる。
慎重に力を緩めれば、風の壁は微風になって消え、枯葉も地に落ちる。
ふとアーリンの方を見ると、何故かアーリンは蒼白になって立ち尽くしていた。
「アーリンさん……」
どうしたんですか? と訊く前に、アーリンがその場にへなへなとくずおれてしまった。
「アーリンさん!」
慌てて駆け寄ると、アーリンは息を乱し、薄っすらと汗も掻いている。
ここにいていい体調には、とても見えない。
「アーリンさん、大丈夫ですか? ランクェルに帰りましょう?」
リラが呼び掛けると、浅い息を繰り返しながらも頷いたので、抱きかかえようとした。
だが、リラとアーリンは、あまり身長差がない。
いくらアーリンが百歳過ぎの老人だとしても、自分一人の力で抱えられる自信がなかった。
しかし、これからランクェルに取って返し、人を呼ぶのは時間が掛かる。
リラは数瞬迷ったのち、ふわりと風を吹かせた。
まだ半分近く力は残っているから、アーリンを支えられる風を起こしても、ランクェルまで保つだろう。
だが、全部を風で運ぶのはとても不安だ。
リラは、まだそこまで自分の力を過信できなかった。
だから、アーリンを背負って、その体重を風で支えることにした。
一瞬、陣をこのままにしていてもいいのかと迷ったが、リラは今まで陣を張ったことがないし、どうやって解除したらいいかも分からない。
仕方ないので、そのままにしてランクェルに戻ることにした。




