第三章「皇帝、弑逆」―4
くすくす、と、肩の辺りで軽やかな笑い声が聞こえた。
「ハイディ? どうした?」
「兄様こそ。顔が笑ってるわ」
まるで示し合わせたかのように、ファイリアの部屋に、兄妹の可笑しげな笑い声が響く。
やがて、ファイリアが目の端に浮かんだ涙を繊手で拭うと、まだ笑いの滲んでいる声で言った。
「だって……まさか、一気にあんな力を放つなんて、思わなかったわ。折角、今までずっと隠してたのに」
「ん? それは違うだろう、ハイディ。彼女の力を封じ込めたのは、彼女の母親だ。彼女は、自分の力を上手く把握し切れてなかっただけだ。だから、一気に力が解放されて、ここまでの力を放ってしまっただけだろうな。本人は意識すらしていないだろうさ」
「ああ……そういうことなのね。じゃあ、あともうちょっとで、ここまで来るのかしら?」
「いや、まだだろうな。これから《ウェルクリックス》を捕らえなければならないのだから。いわば、一歩踏み出したってところだろう」
「そう言えば、そうだったわね。じゃあ、もうしばらくかかるのね」
「そうだろうな。……それにしても、お前の演技、最高だったぞ」
アーフヴァンドがにやりと笑って言うと、ファイリアは嬉しそうに微笑んだ。
「そう? 異母兄様達、私を見事に『無知な皇女』って侮ってくれてたみたいだものね。そりゃあ確かにロルフ兄様は過保護だけど、私だって、本当はずる賢いのに。むしろ、ずる賢くなくっちゃ、保護者のいない子供なんて生き残れないわ」
「ああ。その点で言えば、父上達が皇族で良かったよ。そんな簡単なことすら、知らないんだから」
「うん。でも、正直疲れたわ。今は誰も見張ってないから、こうやって地を出すことができるけど、普段はお父様の手の人間が聞き耳を立ててるんですもの。……お馬鹿で無知で、か弱い振りって、ほんと疲れるのね。こっちに来たばかりの頃は、思いもしなかったわ。皇女に戻らないでいた方が良かったんじゃないかしらって思っちゃうくらいよ」
大きく溜息をついて嘆くファイリアに、アーフヴァンドは眉尻を下げた。
「ああ、それに関してはすまないと思っている。だが、だからこそ父上達は、お前を無知で兄に頼り切りの無力な皇女だと認識して、俺が賢く過保護な兄だと認識した。だから、俺の行動は警戒されるが、お前の行動は警戒されない」
「ええ。それは確かにそうだし、いざと言う時に便利なのは分かるけど、私、いつまで猫被らなきゃいけないのかしら? もう好い加減、ストレスが溜まり過ぎて可笑しくなりそう」
ファイリアは、皇女が身に着けるに相応しい細工の、けれどもどんな衣装にでも合うような、綺麗で繊細でありながら主張し過ぎることのない、実に見事な首飾りに施された宝石をいじった。
それは、かなり大粒で艶のある、漆黒の縞瑪瑙だった。
それが、一瞬だけ、ぴかりと光る。
それは、陽の光が当たったからではなく、内側からの光だった。
それを見咎めたアーフヴァンドが、含み笑いをする。
「ハイディ? 気を付けないと、お前も彼女達の二の舞になるぞ」
ファイリアは、思わず目を瞠った。
「そうね。気を付けるわ、ロルフ兄様。……折角兄様がこれを創ってくれたのに、私までばれたら意味ないものね」
それは、何の変哲もない宝石に見える。
けれど、それが持つ働きは、リラが持つ琥珀の首飾りと、全く同じ物だった。
巫女としての力を、術によって封じ込める、という、働きが。
アーフヴァンドは笑って、ファイリアの胸元に左手を伸ばしてそっと首飾りをすくい上げると、右手で黒縞瑪瑙に触れた。
それが、翠色の光に包まれる。
光が収まると、それは何の変哲もない、ただの首飾りに収まった。
「兄様……いいの? ここで力使っちゃって」
「ああ。構わないさ。今までだって、何回も使ってるんだ。どうせ父上も、俺のことだけならば知っているだろう。……お前が巫女であるとばれなければ、それでいい。俺が実は術者だってことは、むしろ知られた方がいいが、お前が巫女だと知られれば、メイファと同じことになりかねないさ。俺は、お前をそんな目に遭わせたい訳じゃないんだから」
アーフヴァンドは、肩を竦めた。
皇族達は、例外なく二つの名を持っている。
アーフヴァンドは、基本的にその最初の名を――皇帝から与えられた名で、皇族達を呼ぶ。
けれど、例外が三人いた。
フェーヌラブム帝国第八代皇帝が第三十六皇妃、メミリオン=ミリーメイ・フェーヌラブム。
同じく第二十一皇女、フェイネット=メイファ・フェーヌラブム。
同じく皇甥公爵、ウォルフェム=リューシュン・ツェーヴァン。
この三人だけは、二番目の名前で呼んでいた。
最初に――そして、唯一自分達に親しくしてくれた、ファイリア以外では、初めて家族と認めた人達だから。
「だから……もう少し、待った方がいいな。いや、むしろ、彼女らがここに着く直前、かな? ――父上の暗殺決行は」




