第三章「皇帝、弑逆」―3
いきなり部屋の扉が開き、リレィヌは驚いて顔を上げ、慌てて本を閉じた。
その本自体は、別に見られても構わない。
けれど、そこに挿んである手紙だけは、決して見られてはならない物なのだ。
そう、くどくどしいほどにカーティスやトラヴィス、シェリエイヌに念を押されている。
そして、自分の部屋に入って来たのが、自己主張が少なくて大人しい叔父と叔母だと知ると、ほっと溜息をついた。
後ろから、父と兄も入って来るのが見えたが、正直言って、この二人は毒にも薬にもならない、凡庸な親子だ。
本当に自分の父と兄なのかと、時々疑ってしまうほどに。
リレィヌは、無言で近寄って来る叔父と叔母を訝しく思い、ちょっと眉を寄せて、こてんと首を傾げた。
まだ八歳のリレィヌがこうすると、誰も疑わずに、その可愛らしさに感嘆するのだ。
そう、実の両親でさえも。
けれどこれは、親しくないこの叔父と叔母には効かなかった。
そのことに、リレィヌは内心舌打ちをした。
だが、決して表には出さない。
それくらいのことを簡単にこなすことができなければ、皇帝の孫はやっていけないのだ。
ただ、兄が特殊なだけで。
「アーフヴァンドおじさま? ファイリアおばさま? おひさしぶりです。なにかあったんですか?」
何しろ、アーフヴァンドとファイリアがリレィヌの部屋を訪ねて来るのは、初めてなのだ。
リレィヌも、アーフヴァンドやファイリアの部屋を訪ねたことはない。
あまりにも数の多い皇族では、こんなことは珍しくも何ともないのだ。
だから、むしろ訊ねて来られると驚いてしまう。
「ああ。そうだな、ジェシー。あったと言えば、あったな」
名前を呼ばれて、リレィヌは顔を顰めた。
リレィヌは、この国を治める祖父のことが好きではない。
はっきり言うと、大嫌いだ。
だから、その祖父から与えられた『ジェシー』という名も嫌いだった。
そもそも、『ジェシー』というのは短縮された名前であり、『ジェシカ』や『ジャネット』というのが正式な名前なのだ。
なのに、自分の名前は、短縮された『ジェシー』が正式な名前。
略された名前が正しいなんて、庶民ならばともかく、誇り高い皇族であるリレィヌには堪えられなかった。
「それで、なにがあったんですか? おじさまとおばさまがわたしのへやにくるなんて、めずらしいわ」
リレィヌがアーフヴァンドを見上げて言うと、アーフヴァンドはどこか曖昧な笑みを浮かべた。
「……? アーフヴァンドおじさま?」
リレィヌが、アーフヴァンドに気を取られた隙だった。
ふと、握り締めていた重みがなくなった。
驚いて見上げると、ファイリアがリレィヌの本を持ち上げていた。
「あっ……!」
リレィヌは立ち上がり、ファイリアの裾にすがった。
「かえして! おばさま!」
目は涙で潤み、今にもこぼれそうだ。
その顔は今にも泣きそうであり、それを意地で食い止めているようにも見える。
女性は、女の子の涙に弱い。
これで堕ちなかった人はいないと言うのに、当の叔母は、困ったように微笑むだけだった。
「かえして! それ、わたしのよ! かえして! おばさまっ!」
リレィヌが手を伸ばすと、ファイリアはそれを、リレィヌの手の届かない所まで持ち上げてしまう。
とうとうリレィヌは、涙をこぼした。
そして、泣き声を上げる。
ここまですれば、彼女は堕ちるはずだ。
よしんば堕ちなくても、リレィヌに甘い父は堕ちるに決まっている。
そして、異母兄の権限を強行して、ファイリアに返させるはずだった。
けれど、リレィヌの思惑は外れ、ファイリアもルウォンメルも動かなかった。
代わりに動いたのは、アーフヴァンドだった。
アーフヴァンドが手を差し伸べると、大人しくファイリアはアーフヴァンドに本を渡す。
さては、堕ちたのは叔父だったのかと思いながらリレィヌが見上げると、アーフヴァンドはにっこりと笑った。
本の間に挿まれていた手紙を、指の間に挟みながら。
リレィヌは、思わず息を呑む。
「さて、ジェシー。これの説明をしてもらおうか?」
その言葉に、リレィヌは声をなくす。
アーフヴァンドは、それを広げて見せた。
ざっと目を通し、呆れたような吐息をつく。
「ジェシー? 今更だが言うけれどね、こういう物は、貰ったらすぐに焼いてしまうものだよ? こうして、いつ証拠に使われるかも分からないんだから」
リレィヌは、思わず頬を熱くする。
「……いつから、知ってたの」
最早、子供らしい振る舞いをすることすら忘れている。
「いつから? ……うん、そうだね。私達領地持ちの異母兄弟が領地へ戻ったのに、ジェールズ異母兄上が城に残った時から、かな」
蒼褪めるリレィヌに、アーフヴァンドは憐れむような笑みを見せた。
「先程、クラウディオ異母兄上やパーヴェル異母兄上、コスタンツァ達、十二人の皇族が捕らわれたよ。……皇帝の弑逆を企んだ、ということでね」
リレィヌの顔から、血の気が引いた。
叔父に手を引かれ、リレィヌは呆然とする。
「皇帝の暗殺なんてね、ジェシー。考えるだけで死罪なんだ。たとえ皇族であろうとも――八つの子供であろうとも」
強く腕を引かれて、リレィヌは恐怖に顔を強張らせた。
「嫌……嫌よ! 私は、捕まりなんかしないんだからっ!」
アーフヴァンドの腕を振り解き、リレィヌはアーフヴァンドを睨み上げる。
「それに、何でその手紙だけで、私が叔父様や叔母様達に関わってたって分かるのっ?! そこまでのことは、それに書いてないはずよ! いくら皇子でも、皇帝陛下直系の孫たる私を、そんな物一つで捕まえられるはずがないわ!」
突然に饒舌になったリレィヌに、ルウォンメルが驚いているのが気配で分かる。
アーフヴァンドは溜息をついて、リレィヌを抱え上げた。
「きゃあっ! 何をするのっ?! この無礼者!」
「全く……お前は無知だな」
「何ですってっ?!」
リレィヌは体をねじり、アーフヴァンドの顔を視界の隅に捉える。
「この手紙を隠し持っていたということは、お前は父上の暗殺計画を、計画の存在だけでも、その欠片だけだとしても、知っていたということになる。そして、それを隠していた、ということも分かる。……それだけで、死罪か国外追放、精々軽くても遠流になる」
再び血の気を失うリレィヌに、アーフヴァンドは告げた。
「次からは、もっとよく考えて行動することだな。……いや、次はないか。父上は、大層お怒りだからな」
その言葉を最後に、リレィヌは意識を失った。
意識を失ったリレィヌの体を長椅子に横たえて、アーフヴァンドは溜息をついた。
つくづく、愚かな姪だ。
愚か過ぎて、むしろ憐れにも思えて来る。
あの血に塗れた玉座につく皇帝を、簡単に殺せると思う方が間違いなのだ。
「兄様……」
ファイリアは、そっとリレィヌの頬を撫でた。
「リレィヌ、どうするの?」
「ああ。衛兵達には、この部屋にも来るように言っている。待っていれば来るさ」
「そう……」
ファイリアは立ち上がり、背伸びした。
肩が凝っているのか、軽く鳴った。
「……これで、一段落ついたの?」
「ああ。そうだな」
アーフヴァンドは、ルウォンメルを振り返った。
やはり、まだ呆然としている。
「――異母兄上」
アーフヴァンドの呼び掛けに、ルウォンメルは瞬きをした。
「あ、ああ……」
そして、溜息をついた。
「まさか、リレィヌが……」
その途端、だった。
アーフヴァンドとファイリアの体が跳ね、一斉に同じ方向を向く。
その行動に、ルウォンメルとエンディは目を瞠った。
「アーフヴァンド? ファイリア?」
二人の見詰める先は……西南。
窓も何もない壁を凝視する叔父と叔母に恐れをなしたのか、エンディがルウォンメルにしがみつく。
やがて、アーフヴァンドが溜息をついた。
ファイリアも、何故か目を閉じる。
「そう、か……」
「じゃあ……もうちょっとで?」
「ああ。だろうな」
「視てみる?」
「いや、それはいい。……どうせ、また来るだろうからな」
「そうね」
訳の分からない会話を交わす二人に、ルウォンメルが意を決して声を掛けた。
「おい……二人とも。一体何を話している?」
その言葉に、二人は読めない微笑を浮かべる。
「異母兄上には、関係のないお話ですよ」
「ええ。多分、お話ししても分からないと思います」
ルウォンメルが更に問い詰めようとした時、アーフヴァンドが言っていた衛兵が入って来て、気を失っているリレィヌを連れて行ってしまった。
それと同時に、アーフヴァンドとファイリアも部屋を出て行ってしまった。
ばたん、という音と共に、部屋に沈黙が降りた。




