第二章「覚醒と覚悟」―2
あの宴の日の次の日から、猛特訓が始まったようだ。
ようだ、と言うのは、夜中と明け方以外でリラを見掛けないからで、見掛けても相当疲労しているか熟睡しているかで、この頃は言葉も交わすことがなくなってしまった。
(まあ、急がなきゃなんねぇから、しょうがねぇのかもしんねぇけどよ……)
それでも、寂しいと感じてしまうのは、自分の我儘だろうか。
だが、それにしても、あの疲弊具合は目に余るものがあった。
だからウィオは、その日の朝、疲れ果てているリラが滅多にない休みに甘えて熟睡している頃、アーリンに会いに行っていた。
リラがあれだけ疲れているということは、アーリンも疲れているのだろう。
けれど、アーリンには巫女として長として、ほとんどは次期長のリィアにも任せているが、それでも祭主の仕事がある。
それに、彼女はこういうことには慣れているだろう。
何しろ彼女は、百三歳という常識ではあり得ないほどの高齢でありながらも、きびきびとした身のこなしで動き回り、祭主としての重要な役目である祈りを、長時間に渡っても捧げ続けられるような老婆なのだ。
軽く四、五十歳年下の老人達よりも、余程動き回っているのではないだろうか。
そう思うと、何だか背筋が薄ら寒くなる。
そうこうしているうちに、いつの間にかアーリンの家の前まで着いていた。
明け方というような早い時間ではないが、それでも、人を訪ねるには少し早い時間である。
無遠慮に訪ねるのには、少し抵抗があった。
ウィオがそこでしばらく躊躇していると、背後から声が掛けられた。
「どうぞ、ウィオ殿。開いております故」
その言葉に、ウィオは思わず飛び上がって振り返った。
(そう言えば、前にもこんなことがあったような……)
若干冷や汗を掻きながら振り返ると、そこにはアーリンが立っていた。
「ええっと……散歩か、何かで?」
「ええ。朝に散歩をするのは、わたくしの習慣のようなものですから」
「はあ……」
ウィオは曖昧に返事をすると、アーリンの家の扉に手を掛けた。
今時の人の寿命は、大抵五、六十代くらいで尽きる。
八十まで生きられれば御の字である。
なのに、彼女はもう百歳を越えている。
彼女が生涯愛し続けた背の君は、もう何十年も前に他界しているし、子供達ももう全員亡くなってしまった。
いるのは孫や曾孫、玄孫達だけで、孫達のほとんどはもうこの世にいない。
リィアやリューセムの母親もその亡くなった一人であり、十人以上もいた中で今生きている孫は、ほんの二、三人しかいないという。
だから、今この家には、彼女とリィアとリィアの娘の三人しか住んでいないのだそうだ。
そういう意味では、訪ねやすい家でもあった。
アーリンはウィオと共に家の中に入ると、暖炉を少し掻き混ぜ、火を大き目に熾した。
家の中が、少し暖かくなる。
ウィオにとっては、最初くらいの暖かさで充分だったが、老齢のアーリンには、寒さが骨身に沁みるのだろう。
この家の他の住人は、アーリンと同じように早起きな性分なのか、この家にはもう人の気配が残っていなかったし、朝食の後片付けすらももうとっくに済んでいるようだった。
アーリンがそうしているうちに、ウィオはとろ火に掛けられていた薬缶を見付け、ふと思い付いてその中身を湯呑みに注いだ。
やはり、中身は香草を煎じて作った香草茶だった。
ウィオがそれを無言でアーリンの前に置くと、アーリンはふと笑った。
「ありがとうございます。美味しいので、ウィオ殿もどうぞ」
「あ、ああ、はい」
ウィオは自分の分も注ぐと、それを一口含み、思わず目を瞠った。
村でも、香草茶は時々作っている。
農村には医者なんて高度な技術を持つ者はいない。
けれど、出産の手助けや、風邪を引いた人の為に薬草を調合する薬師のような者はいて、少し具合が悪い時などは、その人に教えてもらって作った香草茶をよく飲んでいた。
特に、メイラン村では香草茶がかなり流行っていて、ウィオも母や姉達が作っていた香草茶を、毎日のように飲んでいた。
確かに、それを飲んでいると風邪を引きにくくなっていたのだ。
それでも、こんなに美味しいお茶は飲んだことがない。
この、爽やかな香りと、舌が微かに痺れるような辛味、そして微かなほろ苦さと蓬のような香りは――
「香水薄荷と、立麝香草と、緋衣草……?」
「よく、分かりましたね」
見ると、本気で驚いたかのように、アーリンが大きく目を瞠っていた。
「あ、まあ……うちの村じゃあ、昔っから香草茶が流行ってるからな。それに、この合わせ方のは前にも飲んだことはあるし。でも、そん時のはこんなに美味くなかった。……どうすれば、こんなに美味くなるんだ?」
ウィオが本気で訊くと、何故か、爆笑された。
思わず目を点にするウィオに、アーリンが口元を手で押さえた。
「も、申し訳ありませぬ、ウィオ殿。ですが、貴方から受ける印象と、先程の発言があまりにも似合わなかった為、少々驚いてしまいました」
「あ、まあ……うちは、六人中四人も女がいるから、こういうのが好きで……だから、俺もちょっとは知ってるんだ。多分、リラのが知ってるんじゃないか? こういう風に香草を合わせて茶を作るの、結構好きみたいだからな。それに、リラの母さんも、確かこういうのが得意だったし」
ウィオが肩を竦めると、アーリンは珍しく悪戯っぽく笑った。
「それでは、ウィオ殿。貴方は、これが何に効くかお分かりですか?」
その言葉に、ウィオは目を瞬かせた後に頷いた。
「あ、ああ。あんまり元気じゃない時に飲むような感じで……。香水薄荷は長寿と風邪に効いて、立麝香草は神経痛とか腰痛とか風邪とかを抑えて、それで緋衣草は、長寿の効果と熱を下げるとか何とか……。それで、何だっけ、総合的には……確か、ええっと、ジヨーキョーソー? にいいんだっけな」
すらすらと、まではいかないが、つっかえながらも答えるウィオに、アーリンは感心しきったように吐息を洩らした。
「そうですか。詳しいですねぇ……」
「まあ、うちの村は山が近いからな。だから、昔から香草は結構使ってて……それで、ほら、薬師みたいなのとかいるだろ? そういう奴らが香草とか薬草を混ぜ合わせて薬を作ってたから、それが結構前から流行ってんだ。上手く合わせりゃ美味しいし、体にもいいって人気で。それで、特に女がこういうの好きだから、うちの村じゃあ当たり前だぜ。男がこういうことを知ってんのは。よく手伝わされっからよ」
ウィオはそう言って肩を竦めると、真剣な顔になった。
「でも、この組み合わせで飲んでるっつうことは、よっぽど体が悪いのか? 確かにその歳まで生きてたら、大変だろうけど……」
ウィオの無遠慮とも取れる言葉に、けれど、アーリンは咎めずに苦笑した。
「ええ。あちこちガタが来ていますよ。もう、この歳なのですからね。仕方がないと言えば、仕方がないのかも知れません。特に冬の時期は、関節痛が酷くなったり、風邪を引きやすくなったりしますからねぇ。勿論、他の香草でも効きますが、わたくしが今まで合わせた中で、この組み合わせが最も飲みやすく、また効いたので、これを愛飲しているのです。乳香も、効くには効くのですけれど、何しろ高価な薬ですので、勿体なくて、普段はあまり……」
その沁々とした言葉に、ウィオは心から頷いた。
「だよなぁ……。俺達も、話でしか聞いたことなんてないぜ、乳香なんて。確か、皇族とか一部の貴族とかは香として利いてるらしいけど……そもそも、この国じゃあ乳香なんて取れないしなぁ。他国から輸入するしかない挙句に、その最短距離がセーリエイム王国を通る道だし……。遠回りしてもその分金が掛かる、セーリエイム王国を通したら、あり得ねぇぐれぇの関税吹っ掛けられてもっと金が掛かる。よっぽどの金持ちじゃなきゃ見ることもできないぐらいの金額に跳ね上がんのは仕方ねぇな」
ウィオは頷くと、首を傾げた。
「でも、何でそんな高価な奴を、アーリンさんが使ったことあるんだ? こんなとこじゃあ、まず手に入んねぇだろうが」
「ええ。確かに、ウィオ殿が今言ったような道筋を通った乳香は、手に入りません。ですが、この森には乳香木が自生しておりますので」
「は――はぁっ?!」
ウィオは、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
だが、アーリンはそれに驚くことなく、淡々と言葉を綴った。
「確かに、採れる量はさほど多くはありません。ですが、特別な儀式の折に焚くのには充分な量が採れますし、質も充分によい物です。それに、裏街道を通って高く売り付けることも可能ですし」
「は……はぁ?」
「このような所に住んでいるとはいえ、金が必要となることも多々あります。そういう時は、この森に自生する植物を、神の許しを得た上で採取し、金に換えるのです」
「は、はぁ……。じゃあ、この森には、乳香木以外に珍しい奴も?」
「ええ。存在しております」
その言葉に、ウィオは思わず突っ伏した。
乳香は元々高価だが、この国では更に高価な珍品として扱われる。
それは何故か。
簡単だ。
この国では、たとえ植樹したとしても、土や環境が合わずに育たないのだ。
そして、乳香が取れるのはとても離れた地。
ウィオが言った通り、その輸送過程で関税が何重にも掛けられ、値段が跳ね上がるのだ。
今のアーリンの口調からして、ここの環境では決して育たないはずの植物が、このウェブラムの森では育つのだろう。
「さすが神域……」
ウィオが思わず呟くと、
「おや。今頃自覚したのですか?」
アーリンのからかい口調に、ウィオは文字通り沈み込んだのだった……。
香水薄荷→レモンバーム(メリッサ)
立麝香草→タイム
緋衣草→セージ(サルビア)




