第一章「追憶の果てには」―2
アーフヴァンドは、グッと眉間に力を入れた。
「全く……今は、こんなことをしてる場合じゃねぇっつうのに……」
深い溜息をつくと、アーフヴァンドは眠っている妹を見下ろした。
穏やかに、すうすうと寝息を立てている妹は、どこか幸せそうだ。
だが、戻って来た当初は、こんな表情は浮かべられなかった。
庶民の中で育って来たということで、貴族出身の皇妃が多い異母兄弟達には、毎日馬鹿にされて蔑まれた。
そんな中、唯一優しくしてくれた異母兄弟は、自身も農民出の皇妃の娘ということで周りから蔑まれ、けれど二代続けての巫女として敬われるという、どこか歪な環境にあったフェイネット=メイファ・フェーヌラブム第二十一皇女だけだった。
ファイリアの二歳年上の異母姉という彼女は、歳が近かったからというのもあるのか、徐々にファイリアと仲良くなり、それを通じてウォルフェム=リューシュン・ツェーヴァン皇甥公爵とメミリオン=ミリーメイ・フェーヌラブム第三十六皇妃とも仲良くなった。
それを通じて、他の異母兄弟達ともそれなりには上手くやっていけてはいたが、メイファ達が失踪してしまったことによって、状況はやや悪化していた。
勿論、それを受けてアーフヴァンドが何もしない訳がない。
軟禁されている身とはいえ、少しずつ根回しを進め、発言力や権限の保持と向上に努めていた。
『父の暗殺』も、その中の一つだ。
けれど、さすがは長年権力を維持してきていることだけはあって、なかなか周りを切り崩せなかった。
今はもう、とっくに攻略済みだが。
あの馬鹿な異母兄達も暗殺を企んでいるようだが、絶対に上手く行きっこない。
何せ、何から何まで人任せにしてきた正真正銘の皇子様と皇女様なのだ。
いくら政に関わって来ていても、アーフヴァンドとは土俵が違う。
アーフヴァンドは十五歳で孤児院を出た時に、まだ七歳の妹を引き取り、育て上げたのだ。
妹と自分を護る為に、裏街道に出入りし、違法行為にだって何度も手を染めてきた。
けれども、それを誰にも悟られず、捕まることなど一回もなかった。
文字通り、命を懸けて過ごしてきたのだ。
それに、俄かに現れた皇子と皇女を邪魔に思い、暗殺しようと企んできた者だって数え切れないほどにいる。
アーフヴァンドは、それらの人間達の手をも潜り抜けてきたのだ。
父を暗殺できる自信は、かなりある。
だが、いまいちタイミングが掴めない。
いつ暗殺を決行すればいいのか、それを掴み倦ねているのだ。
まあ、メイファ達が発見されるまでにすればいいかと、少々楽観的に考えているのだが。
アーフヴァンドは、突如眉を顰めた。
メイファ達のことを思い出したせいで、先程の不快なことまで思い出してしまった。
アーフヴァンドは、こっそりとメイファ達のことを探っていた。
理由は聞かなくても分かるから別にいいが、その行方には興味があった。
だから、誰にも気付かれないように、術者として、探っていた。
巫女は、大抵十歳前後に能力が開花するが、術者はもっと早く、早い者だと生まれた途端に分かることもある。
そして、大抵の場合は、どんなに遅くても五、六歳くらいには能力の有無がはっきりするのだ。
だが、アーフヴァンドは例外中の例外で、十三歳になってその能力が開花した。
そして生国に戻ることになってからは、アーフヴァンドはその力を一度も使っていなかった。
ばれて利用されるようなことは、真っ平ごめんだ。
けれど、打算も何もなく優しくしてくれて、そして妹の心の支えになってくれていた彼女達がどうしているのか、どうしても気になったのだ。
他にも色々と理由はあるが、だからこそ、国に戻ってから決めていた『力を使わない』という誓いを破ってまで、アーフヴァンドは異能を使った。
その結果、彼女達が今現在、ウェブラムの森と呼ばれる森に入って行ったことは分かった。
……それも、かなりの大人数で、しかも皇妃と皇女と皇甥の公爵だとばれた挙句に、ワケありの人間まで連れて。
更にその一員が、父の妃にと望まれている隠された巫女の少女だと知った途端、アーフヴァンドは思わず手に持っていたペンを放り投げたくなったものだ。
全く、何故厄介事がこうも重なるのか。
おまけに、彼女達が行動を共にしているのは、父の気紛れに拠って追討令が出ているリューセム・ラムドウェッド率いるシャーラーヴ独立小隊なのだ。
本当に、頭を抱えたい。
どうして、よりにもよって、こんな『ワケあり』同士がごっそりと固まってしまったのか。
だが、そう思っていられたのも最初だけだった。
彼女達がウェブラムの森に入った途端、千里眼が使えなくなったのだ。
これは可笑しいと思って、自分でも色々と試したのち、酒場に繰り出して情報屋を探した。
思い掛けない収穫もあったが、何故自分が皇子だとばれたのか、そこだけが疑問でならない。
何故なら自分は、胸を張って『この国で一番皇子らしくない皇子』と言えるからだ。
九歳になるまでは皇宮で育ったとはいえ、その後は十一年も庶民として生活してきたのだ。
これで庶民らしくない方が可笑しい。
まあ、ここ四年で皇子として振舞うことに慣れていったせいか、素以外の物言いは尊大になったなと自覚はしているが。
アーフヴァンドは、溜息をついた。
溜息をつくと幸せが逃げると言ったのは、一体誰だったか。
けれど、今のアーフヴァンドにとっては、幸せがどうしたという状況だった。
禁域の森に入って行った異母妹達の動向は、彼らが出て来るまでは掴めない。
訳の分からない粗野な男は、後で調べれば片が付くだろう。
父の暗殺だって、時期を掴められれば簡単だ。
何しろ、自分には『術』という切り札がある。
そしてそれは、まだファイリア以外の誰にも知られていないことだ。
とにかく、メイファ達が見付かる前に、そして、できればあの村の巫女がこちらに戻って来る前に、父を暗殺しなければならない。
何しろ村の巫女達は、メイファ達と随分と長い間行動を共にしているのだ。
こちらに来た時に、下手なことを口走られても困る。
もしそれが皇帝の崩御でワタワタしている時に重なれば、余計なことを口走る隙もないだろう。
それに、次の皇帝はあの異母兄だ。
あれくらいの人物だったら、アーフヴァンドが気付かれずに手綱を握るのも容易い。
そして、隙を衝いて村の巫女達の記憶をいじることも実に容易い。
だから、父を殺すのは、もう少し後でも平気、と言うか、後の方がいい。
けれど――何故、だろう。
そういう『理性』の部分とは違うところ――『勘』の部分で、絶対に、今動いてはいけないと、しきりに訴えるものがある。
どうしてなのか、何故なのか……アーフヴァンドには、分からない。
けれど、この勘は確かだと、絶対だと、それだけは確信できた。
だが、それが分かるのは、まだ少し先だと……そうも、分かっていた。
アーフヴァンドは、再度溜息をついた。
今、どうにもならないことが多過ぎる。
アーフヴァンドは、このまま不貞寝を決め込むことにした。
幸い、今は謹慎中。
この国に戻り、皇族として認められた後に侯爵位を賜り、それに付随して得た領地にいる時は、領民や収穫、租税類の管理などで忙しいが、今はやることなど何もない。
よって、昼くらいまで寝過ごしたところで、少々呆れられるだけで済む。
何か用事ができたとしても、精々がこの状況でもしつこく持ち込んで来られる、縁談話を断るくらいだ。
アーフヴァンドも二十四になっているし、母親は巫女で術者で伯爵家のご令嬢だった。
皇位継承権も、第九位と高い。
その気になれば、帝位こそ不可能かも知れないが、その補佐、宰相や大臣となることは容易い位置にいる。
だから、公爵家や侯爵家のご令嬢や、他国の王位継承権の低い姫君や妾腹の姫君との縁談話が後を絶たない。
アーフヴァンドにとっては、結婚など本当にどうでもいいので、それらは本気で煩わしいこと以外の何ものでもない。
アーフヴァンドの望みは、ファイリアと共に穏やかに暮らすことなのだ。
その為には、皇位継承権も、皇子という地位も、正直どうでもいい。
ファイリアがもう少し大きくなったら、そして皇位が異母兄に移ったら、アーフヴァンドはファイリアを自らの領地に引き取るつもりであり、ファイリアもそれに賛同していた。
それにアーフヴァンドは、ファイリアの夫に、傲慢で偉ぶった典型的な王侯貴族達を選びたくない。
身分などどうでもいいから、とにかくファイリアが好きになり、そして相手もファイリアのことを一生大事にしてくれる人と一緒になってほしいのだ。
けれど、ファイリア自身もアーフヴァンドと同じで、結婚のことなど全く考えていないから、そうなるとしても先のことになるだろうが。
アーフヴァンドは、思わず笑いを洩らした。
まだどうにもなっていないうちからこんなことを考えるなんて、いくら何でも気が早過ぎる。
以前から自覚はあったが、やはり自分は妹馬鹿なのだろう。
そして、ファイリアも絶対に兄馬鹿だ。
これは、是非とも断言したい。
アーフヴァンドは微かな笑みを浮かべると、先程からずっと襲い掛かって来ていた睡魔に身を任せ、目を閉じた。




