第一章「追憶の果てには」―1
アーフヴァンドは、グッと額を押さえていた。
少し思索に耽るうちに、思い出さなくてもいいことまで思い出してしまった。
幼い頃のことを。
母と死に別れ、まだ歩けない妹を託されて皇宮を出たことを。
そして……二十歳になった時に、母との約束を破り、皇宮に戻ったことを。
「全く……我ながら、女々しいことだ」
彼は、自嘲の笑みを浮かべる。
母は――自分達を、自らの命と引き換えに、この皇宮から逃がした。
だけど、幼かった自分には、母がそうした理由なんて分からなかった。
ただ、母の言い付けに従っただけだった。
けれど、九歳と一歳の子供が、大人の助けもなしに生きられるはずもない。
母が、最期の力で――母の、生命力を含めた全ての力を使って二人を飛ばしたのは、セーリエイム王国を挟んで二つ隣りの国、グリェンチェ共和国だった。
非人道的なことも平然と行える帝国であるフェーヌラブム帝国と、選挙で国の代表を選ぶという『平等』を掲げている共和国であるグリェンチェ共和国は、すこぶる仲が悪かった。
最短距離でグリェンチェ共和国に行くには、同じくフェーヌラブム帝国と敵対しているセーリエイム王国を通らねばならないということもあって、母は自分達をグリェンチェ共和国に飛ばしたのだろう。
そして、そこが共和国だということも、アーフヴァンドとファイリアが生き残れた理由の一つだった。
アーフヴァンドは、突然母が亡くなり、おまけに訳の分からないまま異国に飛ばされて、しばらくはショックで口が利けなかった。
そんなアーフヴァンドの様子とまだ歩けない幼子から、グリェンチェ共和国の大人は、彼らを孤児だと判断したのだ。
だから、二人はそのまま孤児院に入れられた。
そして、そこで大きくなったのだった。
もし、何もなければ――二人は、ずっとグリェンチェ共和国で暮らしていただろう。
アーフヴァンドがフェーヌラブム帝国を離れたのは九歳の時で、あまり母国のことを憶えていなかった。
ファイリアに到っては、記憶なんてものは一切なかった。
そしてアーフヴァンドは、母が命を賭けて自らを逃した国に興味はあったものの、戻ろうとは一度も思わなかった。
けれど、そうは言っていられなくなったのは、アーフヴァンドが孤児院を出て四年後のことだった。
フェーヌラブム帝国を出てから、アーフヴァンドは『Rudolf』の愛称である『Rolf』、ファイリアは『Adelheid』の愛称である『Heidi』と名乗って暮らしていた。
それが、幸運にも幸いした。
ほとんどの皇子や皇女達は、普段は母や親族から与えられた名前を名乗って過ごす。
そして、公の場でのみ父から与えられた名を名乗るのだ。
アーフヴァンドの場合、『ルドルフ』が父から、『アーフヴァンド』が母から与えられた名。
ファイリアの場合、『アーデルハイト』が父から、『ファイリア』が母から与えられた名。
だから、母によって帝国から逃げた皇子と皇女が、まさか父から与えられた名前の愛称を名乗って暮らしているとは、誰も夢にも思わなかったのだろう。
アーフヴァンドのいた孤児院には規則があって、そこには十五歳までしかいられない。
だからアーフヴァンドは、十五歳になると同時に妹を引き取って暮らしていた。
アーフヴァンドは賢かったので、まだ七歳の妹を養いながらでも、充分に暮らしていけたのだ。
そして、大きくなった妹と共に働き出して、しばらく経った。
アーフヴァンドが十九歳になり、ファイリアが十一歳になった年――その年、今までの幸せな暮らしが揺るがされた。
その時、アーフヴァンドはファイリアと共に商家で働いていた。
突然、大柄な男が三人入って来たのだ。
『いらっしゃいませ。ようこそ、ジェヴァーヌのお店へ! 何をお買い求めでしょうか?』
店番をしていたファイリアが声を掛けても、男達は答えなかった。
用心棒として傍にいたアーフヴァンドは、険のある目で男達を睨む。
『……何か、この店にご用でも?』
すると、男達は静かな声で言った。
『其方達は、アーフヴァンドという青年と、ファイリアという少女を見掛けたことはないか? ちょうど、其方達くらいの歳だ。もしかしたら、名は若干違っているかも知れないが』
その言葉に、ファイリアは首を傾げ、アーフヴァンドは思わず眉を寄せた。
男達の態度は不遜そのもので、見ているだけで気分が悪くなった。
それに、彼らの容貌や服装や発音は、グリェンチェ共和国では見慣れない、聞き慣れないもので、アーフヴァンドにとっては、幼い頃の嫌な記憶を呼び覚ますものでもあった。
だから、知らず知らずのうちに顔が険しくなっても、仕方のないことだった。
『――どうした? 知らぬのか、知っているのか』
『いえ……知りませんが……』
アーフヴァンドが顔を顰めたまま言うと、今度はファイリアが首を傾げて言った。
『でも……何ですか? その無駄に煌びやかな名前。貴族の方ですか?』
ここは共和国で、従って貴族という存在はいない。
けれど、このグリェンチェ共和国は都市国家と言ってもいいほどの小ささで、周りの国にも実に簡単に行ける。
時たま、共和国の仕組みを学ぶ為に、他国から貴族の留学生が来るほどなのだ。
だから、貴族がどういう存在なのか、ファイリアは知っていた。
『ああ、そのような方だな。……本当に、其方らは知らぬのか?』
疑り深い男に、ファイリアは胸を張り、喧嘩腰に言った。
『知りませんよ! そんな仰々しい名前、一度聞いたら忘れませんってばっ!』
ファイリアのその態度に、男達は嘘がないと悟ったのか、あっさりと引き下がって行った。
結局何も買わずに帰って行った男達に、ファイリアは頬を膨らませた。
『全くもう、なんなのよ、あの男達! 失礼しちゃうわねぇ。結局店の邪魔しただけでな~んにも買わなかったしっ! ねえ、そう思うでしょ? ロルフ兄様』
そんなファイリアの様子に、アーフヴァンドは思わず目を閉じた。
自分の名前を――母から与えられた名前を知らずに否定する妹に、少し悲しくなり、母を哀れに感じた。
だから。
『ハイディ。……話が、ある。家に帰ってからだ』
いつにない真剣なアーフヴァンドの様子に、ファイリアは途惑ったように目を瞬いた。
『え、あ……うん。兄様』
アーフヴァンドが、自分達のことを話そうと決めたのは、妹の言動に胸が痛んだから、というだけではなかった。
自分は、記憶にある父や母、異母兄弟達と似ていなかったが、この妹は、成長するごとに母とそっくりになってきていたのだ。
このままでは、誤魔化すのにも限界が来るだろう。
何しろ、フェーヌラブム帝国の人間が、敵対国であるこのグリェンチェ共和国にも足を伸ばしてきているのだ。
もう、猶予はそれほどないだろう。
彼らが父の命令を受けてきたとは考えにくいが、フェーヌラブム帝国の貴族が、自分が後見する為の『操り人形』としてちょうどいい傀儡を探していたとは考えられる。
それを考えると、このままずっとここで暮らすよりは、自らフェーヌラブム帝国に戻り、喪われたはずの皇族として名乗りを上げた方が余程安全だ。
だからアーフヴァンドは、母からの言い付けを破ることを決めた。
母の、遺言とも取れる、最期の約束を。
そして、真実を報せた妹と共にグリェンチェ共和国を出て、フェーヌラブム帝国に戻った。
その間に季節は移ろい、年が明けた春、彼らは帝都ヒーリアに辿り着いた。
その後、様々な紆余曲折を経て、彼らは皇子と皇女として認められた。
まあ、初めて会う五十人近い異母兄弟達に、ファイリアは最初開いた口が塞がらなかったが。
共和国で育った為、アーフヴァンドは仕方がないと肩を竦めるだけだったが、他の人間達はそうはいかなかった。
だから、それぞれ第九皇子、第九皇位継承者と第二十四皇女、第四十八皇位継承者として認められた後も、彼ら二人はずっと浮いていた。
国に戻って、四年以上が経過した今でも。




