序章「ウシナワレタモノ」
澄んだ風が緩やかに吹き渡る、晩夏。
緑の色が、目に涼やかに映る。
そして、綺麗な綺麗な草花が咲き乱れる、見渡す限り彼ら以外の誰もいない、とても広大な野原の中――
まだ幼い少年の頭を、そっとその母が撫でた。
その母の顔色は、心なしか蒼かった。
母が纏っているのは、平民では到底手に入らない豪奢なドレス。
少年が纏っている服も、平民の中に交じれば浮くほどに高価な物だった。
『其方は、護るのですよ。其方自身と、唯一の妹を』
母が告げた真剣な言葉に、少年は首を傾げる。
『でも、母上……僕には、妹がいっぱいいます』
そう言った幼い子供に、母は痛ましい目を向ける。
『いいえ。其方の真の妹は、ただの一人。……一人だけなのです。よく憶えておきなさい』
少年は、不思議そうに首を傾げたまま頷いた。
『分かりました、母上』
――厳重な警戒の中にある、フェーヌラブム帝国の皇宮から、一人の皇子と一人の皇女の姿が消えたのは、それから間もなくのことだった。
皇子の名は、ルドルフ=アーフヴァンド・フェーヌラブム、御歳九歳の第九皇子。
皇女の名は、アーデルハイト=ファイリア・フェーヌラブム、御歳一歳の第二十四皇女。
だがそれは、数え年での話。
ルドルフ皇子は、満年齢で言って御歳八歳であり、アーデルハイト皇女は生後八ヶ月の、ようやく這えるようになったばかりの赤ん坊。
母が死んだばかりの彼らが生き延びられるとは、誰も思わなかった。
彼らの母、アラベラ=ヤーリラス・フェーヌラブム――旧名、ヤーリラス・アナスタシア伯爵令嬢が、巫女であり術者であるという稀有な人物であったといえども、その子供である彼らには、その才能の片鱗が見られなかったからだ。
アーデルハイト皇女に関しては未知数だったが、ほんの赤ん坊の彼女には、何もできようはずがない。
……だから、彼らが消えた冬の初めこそは熱心な捜索がなされたものの、翌年の夏には打ち切られた。
その十一年後、喪われた皇子と皇女が現れるとは、露とも思わずに。




