終章「喧噪の裏に」-2
「はあ……皇族の相手は疲れるなぁ」
「お疲れ様、兄様」
穏やかな声に、男は振り返る。
「ああ、キャシー、ジェシー」
男の様子は、先程とはまるで別人だった。
軽薄な様子は剥がれ落ち、温かな笑みが浮かんでいる。
発音すらもが、変わっていた。
もう、先程と同じ人間とは思えない。
そこそこの商人か、それとも下級貴族か――それくらいの階級の家の人間にしか、見えなかった。
「ちょっと兄様。もうキャシーとかジェシーって呼ばないでって言ってるじゃない。私達、もう二十九と二十七なんだよ? ちゃんとキャサリンとジェシカって呼んでって何度言ったら分かるの? 今度から兄様のこと、ジェリー兄様って呼んでやるから」
その言葉に、男は吹き出す。
「ああ、悪かったってば。ちっちゃい頃からずっと呼んでるから、癖が抜けないんだよ。だから、せめて『ジェリー』はやめてくれ。ちゃんとジェレマイアって呼んでくれよ。『ジェレミー』ぐらいなら、まだ何とか我慢はできるけどさ……」
その兄の様子に、ジェシカが首を傾げた。
「でも、何で兄様は『ジェリー』って呼ばれるのが嫌なの? ジェリーもジェレミーも、大して変わらないじゃない」
「いや、大違いだ。ジェレミーだったらまだ名前だって分かるけどな、『ジェリー』だぞ? ゼリーかっつうの。ついでに言うが、俺はゼリーが大っ嫌いだっ! お前らも知ってる通りなっ!」
不機嫌なジェレマイアに、キャサリンとジェシカは笑みを浮かべる。
「それで? 本当に皇子様だったの? その人って」
「ああ。伯爵家のお嬢様を母親に持つ侯爵様だよ。俺らとは雲泥の差って奴だな。いや、月とスッポンか?」
ジェレマイアはそう言って肩を竦めると、頭上高くに持ち上げた指を鳴らした。
彼らの周りには人がいなかったが、もし人がいたら、目を擦っただろう。
彼らの姿は、まるで煙のように揺れて、次の瞬間に消え失せた。
暗い路地裏は、あたかも最初から人がいなかったかのように、ただ静まり返っていた。
「ああ……どうしてたの、今までっ!」
アーフヴァンドは、皇城の自室に入った途端の妹の言葉に、目を瞬かせた。
「兄様、本当に、本当に大変なのっ!」
必死に縋り付いて来る妹を、アーフヴァンドは何とか引き剥がす。
彼女はまだ十六歳で、名をアーデルハイト=ファイリア・フェーヌラブムという。
メイファにとっては異母妹で、第二十四皇女である。
「いいから……いいから落ち着け、ハイディ。一体、何があったって言うんだ?」
アーフヴァンドが、『アーデルハイト』の愛称である『ハイディ』と呼んで顔を覗き込むと、何とファイリアの顔は蒼褪め、体はがたがたと震えていた。
「ハイディ? 一体、俺がいない間に何があったんだ? もしかして、父上に何かあったとか……? それとも、メイファ達に何かが?」
真剣な面持ちで訊ねてくる兄に、ファイリアは必死に首を振る。
「ううん……ううん、父様には何にも起こってないし、メイファ異母姉様達にも何にも起こってないわ。……でも、でもね、兄様。トラヴィス異母兄様達が……父様を、暗殺しようって、話してて……!」
アーフヴァンドは、大きく目を瞠る。
「何だって?」
「ほ、他にも、カーティス異母兄様とか、シェリエイヌ異母姉様とかっ……公爵様や侯爵様の血筋の異母兄様や異母姉様達が、みんな集まっててっ……! わ、私、どうすればいいか、分かんなくって……。で、でも、異母兄様達が……ロルフ兄様に、伝えろって……に、兄様にも、父様の暗殺に協力して欲しいってっ……!」
ファイリアは、可哀想にすっかり混乱しきっている。
「ハイディ……ハイディ、落ち着け」
アーフヴァンドは、ファイリアをソファーに座らせると、気付けの為のブランデーを飲ませた。
ファイリアはそれを飲み干すと、何とか自分で呼吸を抑えようとする。
アーフヴァンドはファイリアの横に座ると、そっと顔を覗き込んだ。
「ハイディ、それは、誰にも言っていないな?」
「う、うん……トラヴィス異母兄様達からは、ロルフ兄様以外は誰にも言うなって……」
こくこくと頷くファイリアに、アーフヴァンドはそっと溜息をついた。
そして、少し頬に血の気が戻って来たファイリアの首筋に手刀を落とす。
ファイリアは、すぐにくたりとなってアーフヴァンドに寄り掛かった。
アーフヴァンドは、深い溜息をついてファイリアを抱き上げ、彼女の寝室へと連れて行く。
夜も遅いからか、ファイリアが部屋着を纏っていたのが幸いだった。
アーフヴァンドはファイリアを丁寧に横たえ、上掛けを掛けると、再び嘆息した。
「全く……俺は、傍観者役だっつうの……関わんないで周りから眺めてるのが性に合うってのに、何で関わらせようとするのかな、異母兄上達は……。俺は、時々情報だけ提供して、周りから眺めてた方がいいのに……。性に合う、合わないっていう問題じゃなくってさ……。全く――ややこしいことに、この俺を、関わらせるだって? ……ハッ、やれるもんなら、やってみろよ」
アーフヴァンドは、不敵な笑みを浮かべた。
「俺が厄介事に関わったら、どんなことになるのか……身を持って憶えておくがいい」
その声は、誰も聞いていない中、不気味に暗い室内に響き渡った。
ただ、健やかなファイリアの寝息だけが、場違いにも、穏やかに聞こえていた。
(続)




