第七章「修業」―1
「では、まずは意識を集中させて下さい。そう……額の辺りに意識を置いて」
アーリンの言葉に、リラ達三人は目を閉じる。
だが、意外と難しかった。
この部屋、というよりは建物は静かなので、一見すると集中しやすく見えるかも知れない。
だが、静かであればあるほど、シンとした空気が耳を突く。
それに、遠くの方でしているウィオ達の剣稽古の音や、誰かの話し声までもが聞こえてくるのだ。
(……集中、できないっ!)
それでも、何とかアーリンの言う通りに集中しようとする。
大分時間が経ったと思える頃、
「もう、宜しいです」
アーリンの言葉で、リラの肩から力が抜ける。
思わず息を吐いたリラに、アーリンは笑い掛ける。
「貴女は、もう少し気持ちを平坦に、肩の力を抜いた方がよいですね。あまり気負い過ぎずに、くつろいだ気持ちになって下さい」
「は……はい……」
リラは、思わず顔を赤くする。
確かに、集中しようとして気負い過ぎ、逆に緊張し過ぎてしまったというのは否めない。
アーリンは、今度はメイファとミリーメイに笑い掛ける。
「貴女方は、基本はできているようですね。次はもう少し高度なものにいきましょうか」
その言葉に、二人は気恥ずかしそうに笑う。
「あ、ありがとうございます、アーリンさん」
リラはその様子を見て、思わず顔を俯かせた。
いくら自分が何の修業も受けたことがないとはいえ、二人との差が恥ずかしかった。
「ねえ、リラさん。そんな顔、しないで? あたしだって、最初は全然上手くいかなくって……まともに瞑想ができるようになったの、修業を始めて一ヶ月は掛かったのよ?」
その言葉に、ミリーメイは苦笑する。
「ええ。でも、メイファの一ヶ月でも結構早い方なのよ? 私は二ヶ月半掛かったし……普通は、二、三ヶ月掛かるみたいなのよ? だから、あんまり焦らないで。時間はまだ、たっぷりとあるんだから」
「…………はい」
リラは、何とか搾り出すような返事をした。
アーリンは苦笑を零すと、リラの前にしゃがみ込み、視線を合わせた。
「リラさん。貴女の資質は、巫女としては申し分のないものです。あとは、貴女が経験を積むこと。ただ、それだけです。貴女は、修業をするのは初めてなのですから。それに貴女は、初めてにしてはとても集中できておりましたよ? 普通は、もう少し意識が散逸してしまうものです。もし貴女の婚約者――ウィオ殿だったら、すぐに身じろぎをして途中で放り投げてしまうでしょうね」
アーリンの的確な言葉に、リラは思わず吹き出す。
「え、ええ……多分、そうだと思います。全くウィオったら、普段から全っ然落ち着きがなくって……」
ウィオのことを、口では扱き下ろしながらも、嬉しそうで楽しそうなリラの様子に、三人は目を見交わして笑う。
リラの様子が、普段に戻ったのを感じ、三人ともどこかほっとしているようだ。
「それでは、続きを始めましょう。宜しいですね?」
「あ、はい。宜しくお願いします」
リラがそう言って頭を下げると、アーリンは頷く。
「そうですね……まず、貴女は力を抜ければ、何ら問題はないでしょう。肝心なのは、気負わずに精神を落ち着けること。これだけです。ミリーメイさん、メイファさん。貴女方は、こちらの書物をお読みになってお待ち下さい」
アーリンがそう言って指差したのは、軽くいくつかの山になっている本だ。
ミリーメイが何気なくその本を取り、軽く目を通した途端――絶句し、固まった。
そんな母の様子を不思議に思い、横からその本を覗き込んだメイファも凍り付く。
「あ……あの……?」
リラが恐る恐る口を開くと、ミリーメイは素晴らしい勢いでアーリンに詰め寄った。
「アーリンさん! こ、これ、これってっ……!」
「ええ。ランクェル出身でない方にとっては、物珍しい書物でしょう」
「も、物珍しいなんて域を通り越していますよ! 稀有と言っても言い足りないくらいの希少価値があります!」
「え、待って。もしかして、こっちも、これも……え? まさかこの山、全部……?」
ミリーメイとメイファは呆然とし、放心して山に見入っている。
「あ、あの……これ、どういう書物なんですか……?」
「これ……あたし達みたいな皇族でも、話を聞いたことがあるだけで、実際には見たこともないような本なのよ……」
「しかも、ほとんどが巫女の為に書かれている本よ……。これ読むだけでもう、読んでいない人とは一線を画するわ……」
その言葉に、リラは絶句した。
「まあ……ここは閉鎖的と言いますか、閉ざされた地ですので……こうして、昔の珍しい書物も現存しているのですよ。ランクェルの人間にしてみたら、これくらいの本、別に大した物でもありません。まあその代わりに、最新の物は入手しがたいのが難点ですが」
アーリンの言葉に、三人は改めて絶句する。
そして、ランクェルの偉大さを改めて思い知った。
「さて、ミリーメイさん、メイファさん。貴女方は、これをお読みになって下さい。向こうでは貴重だと言うのなら、少しは役に立てるでしょう」
「少しはって……大分、役に立ちます……」
「そうですか。それは大変嬉しいことです。さて、リラさん」
「はっ、はいっ!」
リラは、思わず意気込んだ返事をしてしまう。
アーリンは微笑を洩らし、リラを手招いた。
「貴女はこちらへ」
そして、何故だか外に連れ出される。
「あの……アーリンさん?」
「ここは、全く人の立てる物音がないかと言われれば、決してそうではありません。わたくしやあの二人のように慣れている者ならば別ですが、初心者ともなれば話は違います。ですから、森へ参りましょう」
「森……ですか?」
リラは、思わず呆気に取られる。
「ええ。勿論、森とて全く物音がない訳ではありません。ですが、人が立てる物音と、自然の立てる物音では、全く違うのです。そして、どちらがより瞑想の邪魔となるかと言うと、それは人の立てる物音の方です」
アーリンはそう言うと、リラに微笑んだ。
「特に、曾孫達の立てる、あのような剣戟の音は。瞑想に最も相応しくない音です。それに、自然の中に身を置くと、自然と集中力が高まり、力を抜いて瞑想ができます。しかも、ランクェルの周りに広がる森は、ただの森ではなく神域。自然と気も引き締まるものです。ですから、今日一日は森の中で瞑想の訓練を致しましょう」
リラは、立て続けに明かされる事実に、軽く思考を錯乱させながら、何とか頷いた。
「は……はい。分かりまし、た。宜しくお願いします……」
「ええ。さあ、こちらに。ここから入れば、瞑想に適した空き地がございます」
齢百を超えた老婆とは思えぬ健脚ぶりを発揮するアーリンに、リラは足を速めて付いて行った。
こんな森の中に住んでいるということもあるのか、アーリンの歩調は、すいすいと迷いもない。
少し気を抜いたら、すぐに置いて行かれそうだ。
もうそろそろ十六歳になると言うのに、何とも情けないと思い、思わず遠い目をする。
十五歳の少女と百二歳の老婆では、普通はこちらが気を遣わなければならないのに、これでは立場が逆だ。
リラは足を速め、アーリンに必死に追い付く。
……それでも引き離されそうなのは、多分自分の幻想だ。
そう、多分きっと。
そんな現実逃避をしてしまうほどのアーリンの健脚さは、驚嘆に値するだろう……。
リラは、思わず息を詰める。
このウェブラムの森に入った時から、ここの神気は感じ取っていた。
それは、巫女であるリラ達は元より、徒人であるウィオ達もそうであろう。
だが……ここの神気は、それとは比べ物にならないほどの、桁違いの神気であった。
神気というものは、人に畏怖心を持たせるもの。
しかしここの神気は、畏怖どころか恐怖をも通り越した、無我の境地になるほどのものを湛えていた。
そしてそれは、リラの呼吸を怪しくさせる。
だが、横目でアーリンを見ると、いつもと同じく平然どころか泰然自若としている。
その様子に、リラは心強く思いながらも、半ば愕然としていた。
(何でアーリンさん、そんなに泰然としていられるのっ? 私には、無理だって……! こんな、こんな神気があるのにっ……! さすがは大巫女、ランクェルで何十年も生きて来た人なのかな……?)
「リラさん。宜しいですか?」
「は……はい」
情けないことに、この神気に圧倒され、声が震える。
手までもが震えてくる自分を内心叱咤し、リラは呼吸を整える。
気持ちを静めるには、まず呼吸を整えるのが先決と言うか、そうしなければ何にもならない。
少し落ち着いてきたリラだが、それでも自然と湧き上がる、畏怖心だとか恐怖心だとかは、とても抑えられなかった。
というより、こんな厖大な神気の中で平常心を保っていられるのは、余程の者でなければあり得ない。
益々、アーリンに対する尊敬の念が強くなったリラだった。
「それでは、こちらに座って下さい」
アーリンに指されたのは、恐らく古くなって倒れたのだろう巨大な倒木だった。
リラは恐る恐るそこに腰掛ける。
アーリンは、リラの前にある別の倒木に腰掛けると、真剣な目でリラを見詰める。
その視線に、思わずリラは居住まいを正した。
「まず、瞳を閉じて下さい」
アーリンの厳かな言葉に、リラはそのまま瞳を閉じる。
先程のランクェルの中とは違い、ここはあまり物音がしない。
だから、絶大なる神気に心を騒がせながらも、あまり雑念を挟まずにいることができた。
「そうして……そうですね、なるべく、考えないようにして下さい」
その言葉に、リラは思わず目を開いてしまった。
「考えないようにって……何を、考えないようにするんですか?」
「ああ、これは、わたくしの言葉が足りませんでしたね。人というのは、何かをしている時もしていない時も、必ず何がしかを考えているのです。例えば、ウェブラムの森に入った時は、絶大なる神気を感じて、思わず気後れしたり……そうして様々なことを考えることを、わたくし達は『雑念』と呼びます。つまり、簡単に言うならば、雑念を払いなさいということです」
「は、はい……分かりました」
リラはそう答え、再び瞳を閉じる。
だが――
(何にも考えないって、難しいっ……! って、あ、今もまた考えてるっ……! あ、んもう、またっ……!)
リラは、思わず混乱状態に陥ってしまった。
アーリンはそれを感じ取ったのか、小さな含み笑いを洩らす。
「リラさん。何も考えないというのは、少し難しいですか?」
リラが瞑想状態に入ってから四半刻ほどした頃、アーリンはそっと告げる。
リラは瞳を開け、決まり悪そうに目を逸らした。
「ええ……少しどころではなく、とても難しくって……」
アーリンは、柔らかな微笑を浮かべて言った。
「そうですか……それでは、まず、辺りの物音に耳を傾けて下さい。思考を、辺りの状態にのみ傾けるのです」
その言葉に、リラは不思議そうな顔をする。
「周りの音に……ですか?」
「ええ。自身が自然と同化するように。けれど、それに対する感想などは考えないで下さい。それは雑念ですから。ただ、周りの音にのみ耳を傾け、一体化する……」
独語のように呟くアーリンに、リラは真剣な顔で言う。
「はい。分かりました」
そして、アーリンの言う通りにしようとする。
だが……これも、意外と難しい。
けれど、それでもランクェルの中にいる時よりは集中することができた。
こちらを温かい目で見守るアーリンの存在を、うっかり忘れそうになってしまうほどに。




