第四章「ランクェル」―4
「スージェーフ中佐、そ、その、これはっ……!」
彼らはウェブラムの森に入り、リューシュン達が造った道を通っていたが、夜になった為野営の準備をしていた。
「何だっ!」
カリカリしていたヴァージェーンは、部下を怒鳴りつけた。
「これは、一体何事ですかっ?!」
その部下が指し示す方向を見たヴァージェーンは、思わず喉を鳴らした。
「スージェーフ中佐!」
「隊長っ!」
八十人もいたはずの部下達は、悲鳴を上げて逃げ惑っている。
ヴァージェーンも、逃げないでいるので精一杯だった。
目の前に広がるのは、まるで陰灯篭のような物だ。
だが、それは確実に実体を持っている。
それがあちこちを動き回り、襲い回っている。
ゆらゆらと揺らめいたかと思うと、ふと影が薄くなり、それが敵を認識すると、たちまち襲い掛かり、濃い影となって呑み込む。
部下達や馬達が、次々とそれに呑み込まれ、断末魔の悲鳴を上げ、そして突然途切れる。
後に残るのは、凄まじい形相で事切れた人馬の群れだ。
その中の部下の一人は、窒息したのか、喉が掻き毟られて血まみれになり、顔の色はどす黒い。
かと思えば、別の部下は全身が掻き切られていて血にまみれていない所はなく、最早誰なのかも分からない。
かと思うと、逆に血が全て抜かれたかのように、からからに干乾び、口は絶叫の形に開いたままの死体もある。
その、延々とした繰り返しだった。
薄く濃くなり、決してこちらからは攻撃できない影灯篭なのに、間違いなく殺意を持って、確実にこちらを殺いでいく。
ヴァージェーンは、本能的な恐怖に、堪らず逃げ出した。
部下達の悲鳴が、ひっきりなしに響く。
血しぶきの音すら聞こえそうなくらい、鮮明に。
(夢だ、夢だ、夢だっ……! これは夢だ! だから、走っていれば覚める! だから、私は逃げ出したのではない! 見捨てた訳ではないのだ! 逃げてなどいないのだっ!)
支離滅裂なことを考えながらも、ヴァージェーンは死に物狂いに走る。
やがて、部下達の悲鳴も聞こえなくなった。
「よ、よし……はは、逃れたぞ。はは、ははは、は……」
ヴァージェーンはようやく立ち止まると、荒く息を切らす。
まるで狂ったように、乾いた声で笑い続けた。
と、その時。
「馬鹿だなぁ、お前は」
突然、背後で声がした。
ヴァージェーンは冷や水を浴びせられたかのようにびくりと飛び上がると、勢い良く背後を振り返る。
だが、そこには何もない。
先程の、不気味な陰灯篭のような物すらも。
ただ、夜の深い森が、黒々と口を開いているだけだ。
頭上から差し込む月や星の光でさえも、その不気味さを増す。
森の中はしんと静まり返っていて、先程の声は空耳だったと思い込もうとした、その時、
「部下を見捨てて」
またもや、背後で――先程まで、自分が向いていた方向で、声が響いた。
だが、振り返っても誰も、何もいない。
ヴァージェーンは、自分の吐息しか聞こえない――不気味なまでの静けさに気付き、ぞっとした。
そうだ、こんなに深い森なのだから、何か野生の生き物がいなければ可笑しい。
なのに、その気配も、鳴き声も……何も、聞こえない。
自然と、かちかちと歯が鳴る。
「荷物すら持たずに」
今度は、横だ。
しかし、それでも、何もない。
声が――あちこちから、聞こえてくる。
今度は、絶え間なく。
「情けなく」
「みっともなく」
「走って走って」
「逃げて逃げて」
「逃げ惑って」
「どこまでもどこまでも」
「より深みに嵌っているとも気付かずに」
「愚か者のやること」
「本当に笑える!」
くすくすと、不気味な笑い声が森中を響き抜ける。
反響して、既にどこから声がしているのかも分からない。
混乱状態のまま、ただひたすら、ヴァージェーンは不気味な声の出所を探して、辺りを見回す。
けれど、何もいない。
何の気配もない。
なのに、あちこちで声だけはする。
恐慌状態に陥ったヴァージェーンに向かって、嘲るような声が投げ掛けられた。
「こんな馬鹿なお前には」
「こういう死に方が」
「一番お似合いだよ」
「じゃあね」
「さようなら!」
鈍い痛みと衝撃が、ヴァージェーンの胸を走る。
見下ろすと、彼が身に纏っていた鎧すらも貫通して、剣が胸を貫いていた。
そして、どこから飛んできたのか、矢が彼のこめかみを貫く。
一瞬で、彼の意識は吹き飛んだ。
ゆっくりと、ヴァージェーンの体は地に倒れ伏す。
それから、すぐに。
木の上から、数名の男女が飛び降りた。
「何か、いっつもやってることだけどさ、嫌な気分だよね、こういうのってさ」
「まあ、しょうがないよ。神域で剣を抜くこいつらが悪い」
「そうそう、神の祟りを知らない愚か者のやることだ。ただの自業自得」
「でも、巻き添えにされた部下達が可哀想だよねえ。確実に五十人以上はいたでしょ? かなりの大人数だよねえ。ま、百人はいなかっただろうけどさ」
「まあ、しょうがないよ。恨むなら、馬鹿な隊長。嘆くなら、選ばれてしまった己が身の不運、ってね」
「ま、リューセムみたいに、常識人が纏めてれば良かったんだけどねぇ。それか、こういう場所に対する畏怖心があればさ」
「だよね。そうすれば、こんな無駄死にはなかったのに」
「やれやれ、ご愁傷様」
彼らは口々に感想を言い、ただ死体を見下ろしていた。
すると、不思議なことに、死体が地中に吸い込まれて行く。
やがて、完璧に消え去った。
「はぁ~、やれやれ」
「終わったかぁ」
「にしても、面倒な役だよねぇ。死体を吸収してくれるのは助かるけど、殺すのは僕らって」
「うん、何か一番の面倒事を押し付けられてる気がする」
「ま、しょうがないんじゃないかな? 神は殺生を行っちゃいけないんじゃないの? 穢れちゃうから」
「じゃあ、その『不浄』を吸収していい訳?」
「そこはまあ、自然の浄化作用?」
「ああ、確実に獣の死体とかも出るからねえ。だったら、百人足らずの人間も同等の扱いで吸収、分解されちゃうとか?」
「それか、そこはもう神様だから、こっちが大変な思いをするのが当然なんじゃない?」
「ん~、まあ、最終的には『神様だから仕方ない』ってことになるんじゃない?」
彼らは口々に言うと、立ち去って言った。
森を、再び完全なる沈黙が包み込んだ。
やがて、野生の生き物達の気配が戻り出す。
だが、その中に、人間の気配はない。
この森に踏み込んだ彼らの部隊で、生き残れた者は……ただの一人も、いやしなかった。




