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旅中記  作者: 琅來
第Ⅰ部 往く道は、遠く、遙かに……
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終章「〝鬼の森〟」

「……長老様。お薬を、お持ち致しました」

「ありがとう、リィア」

 既に百を超えていそうな老婆は、三十代中頃の女性から手渡された薬湯を、ゆっくりと飲み干した。

 その老婆はかなり歳を取り、もういつ死んでしまっても可笑しくはないほどに見える。

 いや、それよりも、まだ生きていることが奇跡に思えるほどの歳だろう。

 老婆は、横たわっている寝台から、外を眺めていた。

「……長老様。もう、宜しいのではございませんか?」

 女性は、そんな老婆を見詰め、泣きそうな表情で言った。

「長老様――いいえ、曾お祖母様。もう……もう宜しいでしょう? そんな、そのようなお体では、もうっ……」

「いいえ。まだですよ、リィア。我が背の君が亡くなられてからも、子やほとんどの孫が逝ってしまい、其方のように曾孫や玄孫しかいないと言っても過言でなくなっても、こうしてわたくしが生き続けてきたのは……」

 老婆は、優しげな瞳でその女性を――老婆にとって、曾孫にあたる女性を見詰めた。

「その時にはもう、外の世界を知る者は、わたくし以外は、誰一人としていなかったからです。……お前は、知っておりますね? わたくしの力を。そして、分かっておりますね? わたくしの力が、大勢の人の役に立つかも知れないということを。そして、今ここにいる者の中で、わたくしと同じ力――未来を垣間見る力を持ちし者達は、わたくしほどに強い力を持ってはおらないということを」

「それ、は……」

 老婆の言葉に、女性は、力なく目を逸らした。

「わたくしがここまで生きてきたのは、その『予感』があるからです」

 その声は、老婆のものとは思えないほど力強く、説得力に満ちていた。

「わたくしが、先代様より引き継ぎしこの地位と責任、義務。先代様も、わたくしと同じように――いえ、それよりも強いお力を持っておいででした。ですから……その遺志を引き継ぐわたくしは、まだ、死ねません。……死ぬ訳には参らないのです。この地位は……まだ、其方に譲る訳にはいきません。時期ではない」

 その断固とした言葉に、女性は顔を歪めた。

「では……いつまでですか? いつになったら、その『時期』が――曾お祖母様が、ゆっくりと休むことが許される時期がくるのですか? もう、もう曾お祖母様はっ……! ……そんなの、可笑しいです。曾お祖母様は、今までずっとここの為に尽力なさっておいででしたのに、曾お祖母様ほどの力を持っている者がいないから、休むことが許されないなんて……!」

 泣きそうな顔で訴える曾孫に、老婆は優しく微笑んでみせた。

「そんなに心配は要りませんよ、リィア。……もうそろそろです。もうそろそろ……来るのです。……そう、必ずやって来ます。ここを訪れる資格を持ちし者が。……そして、わたくしを必要とする者が。それまでは、絶対に、休む訳にはゆかない」

 反駁しようと口を開く女性を、老婆は先んじてその言葉を封じた。

「わたくしのような年老いた者はね、リィア。ここまで来たら、若人の為にできることは、何でもやってやりたいと思ってしまうのですよ。特に、わたくしの余命は……もう、さほど残されてはいないということは、既に分かり切っていることですから」

 老婆は、遠い目をした。

 まるで、遠く……遠く離れた物を見るかのように。

 普通(・・)ならば、決して見えるはずのない物を、見透かすかのように。

 老婆は、一体()を見たのか、満足げに――そして、幸せそうに微笑んだ。

 まるで、待ち望んでいる物が、もうそろそろ手に入ろうとしているかのように。

「もうそろそろです、リィア。もうすぐ……やって来ます。わたくしを必要とする若人が。ですから、それまでわたくしは……絶対に、死ぬ訳にはいかないのです。わたくしが死んでしまっては、若人達は立ち往生してしまうでしょうからね」

 老婆は、強い決心を秘めたような目で言った。

「そう。もうそろそろなのですよ、リィア。其方には、このことに関して、協力してもらうことになるやも知れませんね。わたくしの時とは違い、ここの長老は……つまり、わたくしは、もう……」

 老婆は、苦笑を洩らして言った。

「このような、体なのですから」

「曾お祖母様……」

「そう……あと、もう少しなのですよ」

 老婆は、再び外を見詰めた。

「あと、もう少しすれば……わたくしを求める運命さだめを持ちし若人が、やって来ます。ですから、もう少しだけ、お待ちなさい。そうしたら……わたくしもきっと、ゆっくりと休むことができるようになるかも知れません。そして……天よ。願わくば、後もう少し、我に猶予を与え給え……」

 老婆は、ただ静かに手を組み、祈りの言葉を唱えた。




「ここ、が……ここが、ウェブラムの森……〝鬼の、森〟……」

 ウィオは目の前を見詰めて、呆然と呟いた。

 目の前に広がっているのは、鬱蒼と生い茂っている森。

 濃い緑の色が、そして匂いが、強くこちらの五感を刺激する。

 ウィオのように村育ちの人間にとっては、自然とは、その迫力には圧倒されるものの、街のように緑の少ない場所を抜けて来た時には、どことなく安心感を覚えるものだ。

 だが……この森は、そうではない。

 ただ、こちらを圧倒するだけだ。

 これは、『神域』と呼ばれて誰も寄り付かないのが頷ける。

 ただ……問題は、道だ。

 道など、ここから見渡す限り、どこにも見当たらないのだ。

 まあ、それも、当然と言えば当然かも知れない。

 マウェの話が正しければ、この森には、およそ八十年の間、誰も足を踏み入れていないのだから。

 そう……あの、〝鬼の森〟が、実際にあったその時から、ずっと。

 何しろ、飢饉というほどの飢饉が、このシャブワル村ではほとんど起こっていないのだ。

 そして、ウェブラムの森は、神域というよりは禁域として、恐れ、崇め奉られている。

 誰も、入ろうとしないのだ。

 シャブワル村から、歩いて一刻以上掛かることも、その理由の一つかも知れない。

 ザワザワと、不気味な風が、彼らの頬を撫でる。

 もう、秋も過ぎ去ろうという時季だというのに……妙に、生暖かい風だ。

 彼らは皆、固まったまま、静かに、ウェブラムの森を見上げていた――。



(続)

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