第八章「故郷」―3
「はい、お下げ致します」
「ありがとうございます。ご馳走様でした、女将さん」
「いえいえ、どうぞごゆっくり」
ほっそりとした、まだ若く綺麗なジャルウォン村の宿の女将は、ゆっくりとお辞儀をして食堂に戻って行った。
この日、ジャルウォン村の宿屋に泊まったのはこの六人だけで、六人はゆっくりと過ごすことができた。
部屋に戻ったミリーメイは、ホゥ、と溜息をついた。
「……どうしたの? お母さん」
「うん……ここの女将、もう死んじゃったんだなぁって……」
「どういうこと?」
「あのね、ここの先代の女将って私の叔母さんなのよ。だから今の女将は、私の従妹なの」
「へ~え……お母さんの、従妹……じゃあ、あたしとも血が繋がってるのよね?」
「ええ。……まあ、正直言って結構ハラハラしたわよ。あの子とは、まだあの子が二、三歳だった頃に会ったきりだし、まあ、気付かれないだろうとは思ってたけど……でも、私のことをまだ憶えてる人は、確実に何人かはいるもの」
ミリーメイは肩を竦めると、リラに笑い掛けた。
「ごめんなさいね、巻き込んじゃって……特に、この村に泊まることになっちゃって」
「いいえ、気にしていません。それに、もう二十年以上会っていないんでしょう? だったら、気付く人は逆に珍しいと思います。十三歳のミリーメイさんと三十五歳のミリーメイさんを繋げるのは、とても難しいと思いますよ。それにみんな、ミリーメイさんが妃として帝都にいるって、思い込んでいるに違いありませんし。だから、あまり心配しなくても大丈夫だと思いますよ?」
「うん……そうねぇ……でも、注意だけは、ちゃんとしておかないとね」
ミリーメイは、苦笑して言った。
だが、それほど心配しなくても大丈夫だった。
人と擦れ違った時に、何人かの老人が少し振り向くことはあったが、首を傾げただけで、すぐにどこかに行ってしまったのだった。
「はぁ……良かったわ……無事に、切り抜けられたわね」
ミリーメイは、ブラムウェル山に入ってから、ようやく安堵の溜息をついた。
「ええ、そうですね……僕、本当に緊張しっ放しでしたよ。お義母さんがばれたらどうしようって」
リューシュンも、軽く溜息をついて言った。
「それにしても……ここの山、きついですねぇ……」
リラは、溜息を吐いた。
「私、こんな急な山登ったことありませんよ」
その言葉に思わず、皆登っている山を見上げてしまった。
ブラムウェル山は何とも奇妙な形をした山で、標高は並の山と同じぐらいだが、勾配がきつく、迂回して行った方が速いから迂回して行こうと思っても、その裾野は丸っ切り手付かずの原生林と広々とした大河が広がっているという所で、迂回した方が逆に危険度が増すという、とんでもない山なのだ。
一応道はあるものの、まるで獣道を歩いているかのようにきつい。
ブラムウェル山を挟んで向こうとこちらでは、全くと言っていいほど交流がないということも頷ける。
六人がジャルウォン村を出たのは、まだ夜も明けきっていない早朝だったのだが、山頂付近に辿り着く頃には、もう一刻もすれば日が暮れるような時間だった。
つまり、この山を越えるには二日掛かりなのだ。
それを見越してか、そこには茶屋を兼ねた宿屋が一軒あった。
食料はまだあったので、もうしばらく進んでから野宿しても良かったのだが、空はだんだん曇り始めていて雨が降りそうだし、冬が近づいているせいと山の上にいるせいで、気温がとても低くなっている。
ここは、まだ路銀も充分にあるので、ありがたくその宿屋に泊まることにした。
そして、翌朝は前日と同じぐらいの時間に起き出し、山を下りた。
昨夜は案の定ざんざん降りの大雨になったせいで、もう雨はやんでいたものの、道がぬかるんでいて滑り落ちそうになり、とても冷や冷やさせられた。
「……ようやく、着いた……」
真昼を一刻半過ぎた頃、ようやく六人はブラムウェル山を下り切り、シャブワル村に着いた。
六人は、山を下りるのですっかり神経及び体力を消耗し、くたくたに疲れ切っていた。
「……ねぇ、ここ……シャブワル村って……宿屋、あるわよね……?」
メイファは、すっかり疲れ切った様子で言った。
「ええ……まあ……曾祖父の話が正しければ……あるはずです」
さすがのマウェも、疲れている様子だ。
「ただ……シャブワル村は、その村自体の他にも、多くの村を取り込んでいるので……小さめの街並みに広いんです。あともう一つでも村が取り込まれれば、恐らく、ここは街に昇格すると思います」
その言葉に、ミリーメイが頷いて言った。
「ええ。そうよねぇ……。だとしたら、少しでも森に近い方に泊まった方がいいんじゃない?」
「はい。そうですね。ですが、何と言っても隣が神域ですし、ウェブラムの森に近い方には用がない人が多く、宿屋もまともにないのではないでしょうか。それに、その方向の宿屋に泊まって変に詮索されるのは嫌ですし、ムウェリの街の二の舞はごめんですから。それと、これほど大きな村ですと、私達を追い越して行った軍が拠点としている可能性もあります。ですから、一度シャブワル村を抜けて、ウェブラムの森の近くで野宿をするのが最もよい手ではないかと思います」
マウェはそう言うと、すっかり疲れ切っている様子のメイファとリラに声を掛けた。
「メイファ殿、リラ殿。あともう少しの辛抱です。ですから、頑張って下さい」
「はい……分かりました……」
地べたに座り込んでいたリラは、その声で、フラフラと立ち上がった。
メイファも座り込んでいたが、同じように立ち上がると、少し不満げな顔をした。
「宿屋……泊まらないの……?」
「しょうがないだろ? メイファ。変に勘繰られてもあれだしさ」
リューシュンはそう言って励ますと、ミリーメイを見て苦笑した。
「……それにしても、お義母さんは、よくそんなに元気でいられますねぇ……」
「鍛え方が違うのよ、鍛え方が」
ミリーメイは笑ってサラリと言った。
「ところで……お三方は、これからどう致しますか?」
マウェの言葉は、三人の意表を衝いたようだ。
「何……だって?」
「いえ……セーリエイム帝国に行くのに最短距離は、丁度このシャブワル村を通ります。ですが、その先は、私達の目的地であるウェブラムの森を通りません」
その言葉で、ようやく三人はそのことに思い到ったようだ。
「そうだな……そう言えば、そうだよな」
リューシュンは、意外そうな顔で呟いた。
「全然、考えてなかったなぁ……メイファ、お義母さん。どうしますか?」
「うん。そうね……メイファ。どうする?」
「あたしは……」
メイファは、軽く目を瞑ると言った。
「何か……ちょっと、ほっとけない気がする。ここまで関わると、結構気になるっていうか……それに」
メイファはそう言うと目を開け、悪戯っぽく微笑んだ。
「《ウェルクリックス》を捕まえるのに、巫女が一人で時間もほとんどないなんて、大変でしょ? あたしとお母さんも巫女だし、何か役に立つんじゃない? それに、こういう時ってすぐに国外に出るのが王道でしょ? 国内にいつまでもいたら、すぐに捕まっちゃうもの。だから、逃走している人間が寄り道するなんて、誰が考えるのかしら? それに、ウェブラムの森は神域で、誰も寄り付かない、一種の……何て言うのかしら、そう、治外法権的な場所じゃないの? ちょっと、時間稼ぎ的なこともできるし。だから、あたしとしては付いて行きたいな。お母さんとリューシュンは?」
「僕も、同感。僕は巫女じゃないから、《ウェルクリックス》を探す役には立たないだろうけど、護衛の手伝いぐらいにならなると思うよ。これでも、それなりに剣の腕には自信があるからね」
リューシュンは、小さく笑いながら言った。
「そうねぇ……二人の言うことにも、私は賛成。それに、今からじゃあ、ねぇ……」
「? どうしたんですか? ミリーメイさん」
リラが首を傾げて訊ねると、ミリーメイは苦笑して言った。
「いえ……あのね、私達、実は帝都からの最短距離を通ってここまで来た訳じゃないのよ。その……最短距離を通ると、絶対に関所にぶつかってしまうの。貴方達は、れっきとした正式の通行手形を持っているでしょう? だから、関所を普通に通ることができる。でも、私達は持っていないの。細工するだけの時間の余裕がなくってね……。だから、関所を避けてここまで来たの。ほら、私達が最初に会ったリャンレイ村。……憶えてる?」
「あ……はい。それが?」
「あのね……実は、私達がリャンレイ村にいたのは、別にブリュー山脈を抜ける時に迷った訳じゃないの。ブリュー山脈を普通に抜けるとね、ちゃんとした道を通っていれば、まず間違いなくウォリューム村に出るから、そこには関所が設けてあるの。だから、わざと道を外れて獣道を進んで、北側に回ったのよ。そうすれば、リャンレイ村に着いて、ウォリューム村に行ける。そしてね、リャンレイ村とウォリューム村の間には、関所がないのよ」
その言葉に、マウェははっとした。
「確かに……そう言えば、そうですね……! ……私達は、狩りをする為にわざと道を外れましたが、貴方方は、関所を避ける為にわざと道を外れたんですね……。はあ。私はこんなに西まで来るのは初めてなので……関所のことまでは、知りませんでしたよ……誤算でした」
その言葉に、他の五人は思わず沈黙した。
(何が……?)
(何が、『誤算』なんだ……?)
(マウェさんって……)
(何だが、時々意味不明な気がするわ……)
(頭いいのに、宝の持ち腐れな気が……)
思わず五人は目を見交わし、代表してウィオが訊ねた。
「え~っと、あの、さ……何が『誤算』なんだ? マウェ」
「? 分かりませんか?」
「……何が、だっ?」
「え、だって、関所があるっていうことは、つまり、陛下はそこに手配書を回しているかも知れないっていうことですよね? でしたら、もし私達も関所を通っていたら、私達の行動は、逐一帝都まで報告されていたかも知れません」
「あ……そう言えば、そう、ですね……」
「確かに……そうだな」
ウィオとリラは納得したが、逆に、ミリーメイは慌てて口を挿んだ。
「えっ? 待って。『私達も』……って?」
すると、何故かウィオとリラがソワソワと身動きし、視線をスッと逸らす。
「あ……え、っと……?」
メイファが、どこかぽかんとしたような口調で言った。
「あの、ですね……勿論、私達も手形は持ってます。でも、農民の通行手形って、記載されている村の隣近所と、一番近い街までしか行けなくなってて……。それよりも遠くには、まあ、行けるには行けるんですけど、それも、『帝都へ通じる聖街道の、村との往復最短路しか通れない』っていう条件があって……だから、私達も……実は、関所……通ってないんです。……聖街道を逆走したり、聖街道以外の道を通ったりする為の特別手形、貰えなかったので……」
リラは、視線を逸らしながら言った。
「それに……マウェさんって奴隷じゃないですか。奴隷って……手形貰えないんですよ。それで……奴隷が旅をするには、貴族と一緒でなければならないっていう決まりがあって……でも、私達は農民だから、もし普通に関所に入ったら、足止めを食らうんです。あたし達の場合、事情が事情ですから、最終的には関所を越えられるとは思うんですけど、それでも手間取るのは間違いありません。だから……」
「そ、んな決まり……あるんだ……」
リューシュンは、半ば呆然としながら言った。
(まあ、そうでしょうね……)
リラは、少し可笑しい気分になった。
(だって、ミリーメイさんも、メイファさんも、リューシュンさんも……みんな皇族だもんね。知らなくっても……無理はないわ)
「さて……では、お三方ともご一緒に来られるということで。それでは、野宿の場所を探しましょうか」
「あ、はい……」
「そうですね……」
五人は、マウェに促される形で、シャブワル村の中を進んで行った。
マウェの祖先が遥かな昔に暮らしていた、ミカッチェ村を取り込み、大きくなった村を。




