第三章「前途多難な先行き」―2
その夜、マウェがぽつりと言った。
「……確かにこれなら、貴方がジョルア様に切れた訳も分かりますね」
「ああ、だろ? やっぱ、お前は農作業したことないか」
ウィオは、パンを口に頬張りながら言った。
それを、リラが呆れ顔で行儀が悪いとたしなめる。
――今、マウェはウィオの家に居候していたのだった。
「ええ。帝都には、畑自体が存在しませんから」
「へ~。何か、想像できねぇなぁ……第一俺、街にすら行ったことないし」
「そうでしょうね。ここと比べたら、帝都が同じ国にあるということ自体信じられませんよ」
マウェは頷き、リラも頷いた。
「そうでしょうねぇ。貴族とか皇族とかって、自分の存在をアピールしたい、自分達は農民とは違うって思いに縛られてるでしょうからね。そして、私達が大変な思いをして収穫した物を、当たり前のように口にする」
そのリラの言葉に、マウェも深く頷いた。
「ええ、そうですね。全く、自己顕示欲が深過ぎていけませんよ」
「……それをお前が言うのか?」
ウィオが呆れたように言うと、マウェが胸を張って言った。
「私だからこそですよ。奴隷として貴族の身近に仕える私だからこそ、このようなことを言うのです」
「……そこで威張るなよなぁ……」
ウィオは溜息をつきながらぼやいた。
すると、何が可笑しかったのか皆が一斉に笑い出した。
「……父さん! 母さん! 姉さん! シャレイ! シュミア! リラ! ヴェン! ヴァルク! マウェ! ……笑うなぁ!」
その怒鳴り声と笑い声は、隣家まで聞こえたらしい。
それと言うのも、しばらくしてから隣の小母さんが、
「うるっさ~いっ! あんたんとこ、ちょっとは黙ったらどうなのよっ!!」
と怒鳴り込んで来たからだ。
それでようやく、ウィオ以外の九人が笑いを収めたのだった。
やがて、話題は旅のことに移った。
それによって、マウェが旅慣れていて博識なことが分かったが、リラからオールクッドが渡したという金額を聞くと、顔が強張った。
「アンヴェイル金貨、十一枚ですって?」
「え、ええ……凄い大金ですよね。あの……マウェさん? どうかしましたか?」
マウェは深く考え込むと、ついと顔を上げた。
「正直に申し上げますが、三人の路銀でこれだけは、少な過ぎます。私はウェブラムの森までは行ったことがありませんが、途中でいくつもの街に泊ることは避けられないでしょう。――街の宿屋に泊るなら、村の二倍は掛かりますよ」
その言葉に、リラの顔が引き攣った。
「それに、恐らく野宿は避けられないでしょうし、幸い野宿をしないで済んだとしても、旅に出る時に野宿の準備を何もしないのは、ただの愚か者です。ですから、事前にそれらの準備をする為にも金が掛かりますし……。何しろこれから冬になるのですから、用意は周到にしなければ。それを考えると、三人でこの金額では一年も保ちません。まあ、一年掛けなければ、大丈夫ですが……」
そう言って溜息をつくマウェに、ウィオは恐る恐る声を掛けた。
「んじゃあ、あといくらあったら、余裕なんだ……?」
「そうですねえ……。余裕を持って考えるとなると、あとアンヴェイル金貨が一枚か二枚、欲しいものです。旅に予測不可能な事態は付き物ですし、いざと言う時に手持ちに余裕がないと、こちらの選択肢も限られてきますし」
マウェの答えに、全員の顔が引き攣る。
「じゃ、じゃあ……結構ぎりぎりの旅を続けるかも知れないってこと、ですよね……。アンヴェイル金貨一枚分なんて、そうそう用意できないわ、うちの村だと」
リラは遠い目をして言うと、卓に顔を伏せた。
「そうですねえ。それに一年というのは、ここからウェブラムの森まで行って、帝都に辿り着くまでの期間でしょう? その後、こちらまで戻ってくることを考えますと……」
そう言って首を振るマウェに、リラの顔が蒼褪めた。
「じゃあ、ちょっと無理してでも、余分に持って行かなきゃ怖いってことですよね……?」
「ええ。その方が安心です。まあ、余裕のある旅なら、行く先々で日銭仕事でもしながら稼ぐという方法はありますが……」
「それは、帝都からの帰りなら大丈夫ですけれど、行きは……」
リラとマウェは、難しい顔をして黙り込み、深い溜息をついた。
そこに、ウェルが渋い顔をして言う。
「それだけじゃないぞ、三人とも。オールクッド卿から渡されたのは、金貨だ。……言っておくがな、金貨なんて代物、いくら下級金貨のアンヴェイル金貨だと言っても、帝都か領主の城がある城下町でないと使えんぞ。この近くにそんな街はないし……旅の前に、両替商に頼むしかないだろうな」
「え、じゃあこれ……全部、両替しないと使えないんですかっ?」
リラは驚いて目を瞠っている。
「ああ。そうか、あんまり外に出たことがなかったか」
そう言って頷くウェルに、リラはじれったそうな顔をする。
それを見て、ウィオは首を傾げた。
「リラ? 何苛々してんだ? 要するに、父さんが言いたいのは、金貨のまんまじゃ使えねえってことだろ? んじゃ、銀貨に換えてもらえばいいだろうが」
「……そう簡単じゃないぞ、ウィオ。銀貨に換えてもらう時に、どんな良心的な両替商でも貸金屋でも、手数料として総額の百分の一は取られるんだ。酷いとこだと、四分の一はむしり取られる」
「え、じゃあ……ええっと、どんくらいだ?」
「え、えっと……アンヴェイル金貨十一枚分の、百分の一は……ブウォル銀貨一枚と、レックォン銅貨一枚分……かな?」
素早く計算したリラは、蒼い顔をしている。
「それって、結構取られるんじゃないですか! で、でも、両替しないと使えないし……」
狼狽えるリラの様子に、ウィオはようやくウェルが渋い顔をしていた理由が呑み込めた。
「あ、でもさ、金が入ってた袋って、高そうだよな? あれ売っ払えば、ブウォル銀貨一枚分にはなるんじゃねえか?」
「そりゃあ、買う時はそれくらい掛かるけど……売るとなったら、さすがにそんなに高くは売れないんじゃないかしら?」
リラが首を傾げると、マウェが深く頷いて言った。
「リラさんの仰る通りです。恐らく、半値以下に買い叩かれるでしょうね」
「ん~、じゃあ、どっちにしろ金は取られんのか……」
ウィオが唸ると、ウェルは深い溜息をついて言った。
「それは仕方ないな。何しろ金貨だ。しょうがない。お前達が旅立つ前に、俺が近くの街に行って両替しといてやる。幸い、いいとこを知ってるからな。火熾しの道具は予備が村にあるからいいとして、防寒用の厚い上着が必要だな。ついでに買ってくるか」
「父さん……その、ありがとな」
ウィオはそう言うと、照れてそっぽを向く。
そんな息子を見て、ウェルは頬を緩めた。
「ああ。ただ、村に泊る時は気を付けろ。貧しい村だと、ブウォル銀貨でも支払いを断られることがあるからな」
「あ、じゃあ……できるだけ、細かい金で払った方がいいのか?」
「そういうことだな。だから、街だと崩せるだけ崩しといた方がいい」
ウェルはそう言い、ふと横に目をやって吹き出した。
「父さん?」
「どうやら、俺らの話が長過ぎたようだな。シュミアとヴァルクが寝てる。まあ、まだ八歳と七歳だし、仕方ないか」
見ると、シュミアは卓の上に突っ伏して、ヴァルクは椅子の上で仰け反るようにして眠っている。
それを見て、シャンリンも吹き出した。
「あらあら。シュミア? ヴァルク? ……もう、起きないわ。熟睡しちゃってる」
「もう、シュミアったら! しょうがないんだから」
姉であるシュリーは小さくぼやくと、シュミアを抱きかかえた。
「じゃあ母さん、あたしが寝かせてくるわ」
「ええ。分かったわ。ヴァルクも……起きそうにないわね」
シャンリンの言葉に、リラは苦笑した。
「仕方ありませんね。……じゃあ、お邪魔しました。また明日」
「ええ。明日ね」
リラは挨拶を交わすと、ヴァルクを抱き上げた。
そして、うとうとと眠たげにしているヴェンを促す。
「ほら、ヴェンも。まだ寝ちゃ駄目よ? ほら、帰りましょ」
「うん、姉ちゃん……お休みなさあい」
ヴェンは、眠たそうに目をこすりながらぺこりと頭を下げる。
その様子に、シャンリンは笑った。
「うん、お休みなさい、ヴェン。リラも」
「はい、小母様」
そうしてリラ達が帰って行くと、ウィオはうんと伸びをした。
「じゃあ、俺らもそろそろ寝るか? って、シャレイ? お前もそこで寝る気か?」
見ると、シャレイの頭が時折がくりと前に落ち、とても眠たそうだ。
「寝な~いもぉん……」
そう言いながらも、瞼が落っこちてきてしまいそうだ。
「ほら、もういいから、お前も寝ろよ」
「やぁだ……マウェさんとお話しするんだもん……」
そう、何故かは知らないが、今日初めて会った時から、シャレイはマウェに懐いていた。
マウェはくすりと笑うと、床に膝を突いてシャレイの顔を覗き込んだ。
「私は、明日も明後日もこちらに厄介になる予定です。時間なら、いくらでもありますよ。ですから、今日はもう寝ましょう?」
「ん……明日も、お話しできるの?」
「はい、勿論です」
「じゃあ、寝る。兄さ~ん、抱っこぉ……」
眠たそうに手を伸ばして抱っこをせがむシャレイに、ウィオは溜息をついて抱き上げた。
「ったく……しょうがねえな。じゃ、マウェ。また明日」
「ええ。また明日」
ウィオは、ずり落ちてくるシャレイを抱え直す。
見ると、もう寝息を立てて眠っていた。
どうやら、本当にもう眠気が限界だったらしい。
ウィオは、苛立たしげにガシガシと頭を掻くと、シャレイを片手で抱き上げて寝室へと運んだ。