第三章「前途多難な先行き」―1
その翌日の昼頃、リラはこれからしなければならない旅のことで、経験豊富なウェルに助言を求める為にウィオの家に来ていたのだが、そこへオールクッドが再び訪ねて来て、驚いて目を瞠った。
「オールクッド卿? あの……何か、ご用でしょうか?」
その言葉に、オールクッドは少し笑みを洩らす。
「ああ。我らは本日、この村を辞す。その挨拶と、昨日渡し忘れていた物があるのを思い出して、ここに参った」
「渡し忘れていた物?」
ウィオが怪訝そうに眉を寄せると、オールクッドは頷いた。
「そうだ。まず、これを。ウェブラムの森までの道先の導にするがよい」
そう言って、オールクッドは油紙に包まれている、二つ折りの紙片を差し出した。
地図にしては妙に小さなその紙を、ウィオは片手を伸ばして受け取る。
眉は寄っていて、明らかにそれを怪しんでいるのが丸分かりだ。
それを見て、オールクッドは苦笑した。
「勿論、それは紛い物ではないはずだ。私は中身を拝見してはおらぬが、我が上司が、宮中伯の指示により、それを手ずから書いているところを見掛けたことがある」
リラは、それを聞いて少し安心した。
こんな田舎の村に、地図などありはしない。
村の物知りの長老達や、村長であるウェル達に聞いたところで、この村の周辺の村や街、それと帝都の大体の位置しか分からないのだ。
ましてや、ウェブラムの森は帝都とは全く別の方向にあり、そちらにはこの村の誰も行ったことがない。
だから、正直なところ不安だったのだ。
しかし、地図があるとなると、その不安も大分軽減される。
「ありがとうございます、オールクッド卿」
リラはそう言って頭を下げると、ウィオの手からさり気なく油紙を抜き取った。
こんな大事な物、ウィオに任せることなんてできない。
ウィオに任せたが最後、次の日には
『あ、悪い。なくした』
と言われること間違いなしだ。
「礼には及ばぬ。副長殿。それと、もう一つ。これを」
オールクッドが懐から出したのは、青い繻子の巾着だった。
その高価な巾着に、リラは思わず遠い目をした。
それだけで、村の宿屋に四泊はできそうな高価な布地に、丁寧な染めや刺繍が施されている。
この巾着を売り払うだけでも、かなりのお小遣い稼ぎになる豪華さだ。
少なくとも、農民の冬の間の月収に匹敵するくらいの価値はあるだろう。
「これは、路銀だ。色々と入り用なこともあろう。好きに使うといい」
オールクッドが差し出したその巾着から、じゃらりと重い音がする。
「い、頂きます……」
リラはそれを受け取ると、その重さに目を瞠った。
かなり、重い。
一体どれほどの金額が入っているのだろうか。
そう思って呆然としていると、ウィオがその巾着を無造作にリラから取り上げ、口を開けて中身を卓の上に広げる。
「…………」
「……………………」
ウィオもリラも、それを見て沈黙した。
リラは、その中の一枚を震える手で取り上げると、眼前まで持ち上げる。
その煌びやかな輝きに、リラは意識が遠退きそうになった。
副長ということもあり、リラは今までに色々な貨幣を目にしている。
特に子供の頃は、親から小遣いとして与えられた小さな錆びた銅貨を握り締め、お菓子を買いに走っていた。
副長になってからは、村から街に売った商品の代金として、何度も銀貨を目にしていた。
その中には、薄汚れた物もあれば、鋳造されてから大して時間が経っていないような、キラキラと銀色に光る物もあった。
けれど、リラが今手に持っているのは、それとは全く違う。
金色に、光り輝いている。
「き、ききき――金貨ぁっ?!」
ウィオは、堪らずに素っ頓狂な声を上げた。
ウェルも、愕然と目を見開いている。
リラは、呆然と呟いた。
「わ、私……金貨、初めて見た……」
驚愕している三人に、オールクッドは首を捻る。
「そこまで驚くようなことだろうか? これは、アンヴェイル金貨だ。金貨の中で、最も小さく質も劣る」
あっさりと言ってのけるオールクッドに、リラはこの人物が都の貴族だったと、今更ながらに実感した。
ちなみに、このアンヴェイルというのは、この貨幣を鋳造した土地の地名である。
また、そこに集まる鉱石の質や金・銀・銅それぞれの含有量、そして貨幣そのものの大きさによって価値は大きく変わり、金貨・銀貨・銅貨のそれぞれに三種類ずつあった。
「あの……オールクッド卿。村で使われるのは、基本的に銅貨で……宿屋でなら、時には下級の銀貨も使いますけど。そ、それに、これ、金貨……でしょう? ええっと、一日の食費って、確か中級銅貨のマンウェル銅貨一枚分でしょ? それで、マンウェル銅貨二十枚で中級銀貨のブウォル銀貨一枚分で、下級金貨のアンヴェイル金貨、ってのが、確か……ブウォル銀貨十枚分、だから……食費二百日分の金貨だわ! そ、それが……ええっと、何枚?」
完全に混乱しきっているリラに、オールクッドはあっさりと告げる。
「そこには、アンヴェイル金貨が十一枚入っておる」
その言葉に、リラは真っ白になった。
しかし、ここにオールクッドと同じくらい冷静な人物がいた。
シャンリンである。
「まあ、リラ、ちゃんと貨幣換算憶えてたのねぇ。偉いわ。リャイが教えたこと、ちゃんと忘れないでいたのね」
「……母さん、感心のしどころが違うぜ」
さすがのウィオも、金貨の価値は知っているので、頭を抱えている。
しかも、リラがわざわざ食費に換算してまで数え上げたのだ。
余計に、その金貨がとんでもない物だと理解できる。
「あら。でも、一年の旅でしょう? それに、毎日の食費だけじゃなくて、宿屋に泊るならその分の代金も掛かるし、野宿するならするで、旅立つのは秋だもの。ちゃんとした装備を揃えなきゃ凍死するわ。そうね、相部屋に泊るとしても、食事も含めれば一人でマンウェル銅貨二枚分、つまりは上級銅貨のレックォン銅貨一枚が必要だわ。二人なら二枚。それが一年よ? そうねえ。アンヴェイル金貨十一枚なら、一年半から二年ってところかしら? でも、これは村の相場だし、街や帝都はもっと高いわ。旅装も整えなきゃいけないし、これから冬になると雪と寒さで足止めされて、計算通りには行かないだろうし」
指を折って数え上げるシャンリンに、ウィオは脱力した。
「母さん……計算早過ぎ」
そう言うと、シャンリンはにっこりと笑う。
「あら? ウィオ、将来の村長ともあろう人間が、これくらいの簡単な計算くらいできなくて、一体どうするの? 周りの村や街に侮られて、お代をちょろまかされちゃうじゃないの」
「あ、……う……」
さすがに、これには反論できない。
「さすがは村長殿の奥方だ。頭が回る」
オールクッドは感心したように言うと、ウィオとリラに目を向けた。
「しかし、其方ら二人だけで旅立たせる訳ではない。一人、こちらで用意した者がいる。さすがに、其方らは子供でもあるし、大人を付けた方がよいと思ってな。多少は腕も立つし、旅慣れた者だ。ただ、其奴の分の路銀も、それに含まれておる」
その言葉に、リラはやけに多いその金額に納得した。
それに、地図だけではなく人まで用意してくれることに、酷く安心するとともに感謝した。
あと、残る問題は――そう、《ウェルクリックス》のことだけだ。
どうやって、巫女だとばれずに《ウェルクリックス》を捕らえるか。
しかし、それは今考えても仕方のないことなので、やめた。
「そうですか……ありがとうございます、オールクッド卿」
リラがそう言って頭を下げると、オールクッドは笑って返した。
「いや、大したことではない。では、我らはこれにて。村長殿、一日世話になった」
「いえ、こちらこそ。様々のお気遣い、痛み入ります」
「それでは。次期村長殿、副長殿、健闘を祈っておりますぞ」
「どうもありがとうございます。そちらも、道中お気を付けて」
短い挨拶を交わすと、オールクッドはウィオの家を出て行った。
見送る為に外に出ると、外にはオールクッドと共にこの村に来た人が、もう皆勢揃いしていた。
その中の一人が馬を渡すと、オールクッドは颯爽と馬に乗った。
そして、並足で駆けて行く。
「……とうとう、行っちゃったわね」
その馬の影が見えなくなった頃、リラがぽつりと言った。
「……ああ、そうだな」
ウィオも、ほんの少し目を細める。
そこに、背後から声を掛けられ、二人は驚いた顔で振り返った。
何故なら――そこにいたのは、もうここにいないと思っていた人物だったから。
ウィオはしばらく硬直していたが、その人物から説明を受け、破顔した。
「そうか。良かったなあ、お前が残る奴でさ」
ウィオはそう言うと、長身の男を見上げた。
「な、そうだろ? マウェ」
「ええ。私も、まさかこの村に残して頂けるとは思っていませんでした」
マウェは目を細め、そして二人を促した。
「さ、戻りましょう? 今のうちに農作業のお手伝いを済ませておかないと、旅立とうとした途端、もしくは戻って来た途端に袋叩きに合うと、先程村長殿が仰っていましたよ?」
その言葉に、二人は顔を顰めた。
「ゲッ……」
「それは嫌ね」
そして、手伝いをする為に仕方なく村に戻って行った。
旅立ちまであと一ヶ月弱あるが、それまでに手伝えることをしておかないと、本当に旅立たせてもらえなくなる。
秋の収穫期は、一人でも人手が惜しいほど忙しい時期だ。
なのに、充分に働ける少年一人と副長が旅立ってしまうと聞いたら、冗談ではなく村から出させてもらえなくなる。
だから、村の皆には秋の収穫が終わってから旅立つと嘘を付き、旅立つ時も、朝早くのうちにコッソリと旅立つ予定だった。
また、マウェは道案内として、旅立つ時に一緒に付いて来てもらうことになっていた。
これだけは、村の皆には嘘を付かずに本当のことを言った。
それにウィオとリラにとっては、マウェが付いて来てくれることが本当に嬉しく、安心できた。
彼は、本当に色々なことを知っている。
まさに、生き字引だ。
だからこそ、ウェルやシャンリンも安心――とまではいかないが、二人だけで旅立たせるよりも心配せずに送り出すことができるのだ。
「お~い! ウィオ! マウェさん! 速くこっち来て手伝えよ!」
「ああ、分かってるって! ちょっと待ってろ!」
「はい、今行きますから……」
「あ、リラ~! これってどんぐらいが今年の税だったっけ~?」
「あ~! ちょっと待ってて下さい! え~っと、それは……あっ! まだ訊いてないです!」
「ちょっと何やってんのよ、リラ!」
「わ、私は悪くないわよ! まだ領主様の方から届いてないだけ!」
「……都の領主様、一体何やってんのよ!」
「あ、じゃあ取り敢えずこっち側やってて! これはどのくらいが税収になるのか届いてたはずだから! ちょっとうちに戻って確認してくるから待ってて!」
リラはそう言うと、家に向かって走って行った。
今、どこもかしこも似たような光景が繰り広げられている。
男達は畑から収穫をし、女子供達は村に置いておく分と税として納める分とに仕分け、収穫した後の処理が必要な物にその処理を施している。
収穫物は一気に採れるという訳ではないので、秋中忙しいのだ。
だからここから抜け出そうとしたら、冗談ではなく袋叩きなのだ。
しかも、そのうちの一人が副長だというのなら、尚更。